9月20日、雨。
寝返りを打った先のシーツの冷たさに重い瞼を開けたのは、午後のことだった。
目を細めれば、ぼやけた視界が少しだけ輪郭を持つ。窓には細かな水滴が張り付いて、所々筋になって落ちていた。さあさあと雨音が、薄膜のように部屋を包んでいる。二日酔いがやっと落ち着いたとはいえ、まだすっきりしたと言い難いのは、この雨のせいにしておきたい。
一昨日の晴天が嘘のようだ。昨日から急に天気が崩れたから、カンパニーのみんなが作ってくれた、てるてる坊主の反動がきたのかもしれない。
万里くんのサプライズ誕生日パーティーのはずだったのに。気づいたら純白のタキシードを着て、ベール越しにみんなからの拍手を浴びていた。
爽やかな秋晴れ。三角形のガーランドや風船で装飾された華やかな中庭に、色とりどりの紙吹雪が舞った。そこかしこから聞こえるおめでとうの声と、笑顔と。胸が温かいものでいっぱいになって、目頭が熱くなる。そんな中で涙目になっている丞と目が合ってしまったから、つられて俺の涙も溢れて止まらなくなってしまった。
同じく白いタキシードに身を包んだ万里くんは、いたずら成功と言わんばかりにニヤリと笑う。それから俺の手を優しく引いて、光のなかへ導いた。
人生の中に特別な一日というのはいくつかあって、あの日も確かにその一つだった。永遠に心に刻まれて残り続けるような瞬間を、また一つ俺たちは手にしたのだ。
それにしても、ちょっと飲みすぎた。みんなが勧めてくれるし、どれも美味しくて、断れなかったのだから仕方がない。
不満と言えば、同じくらい飲んでいたはずの万里くんが、二日酔いにすらなっていなかったことだ。アンタももう年だなと揶揄ってきたくせに、俺が心底落ち込んでいるとバツが悪そうに頭を掻いて謝ってくる。それが余計に傷を深くして、俺はいよいよ臍を曲げた。まぁ、お詫びのたまごプリンを進呈してきたから、たまごに敬意を払って許してあげることにした。お酒は当分控えようと心に誓いながら。
のそのそとベッドから起き上がってリビングに入っても、万里くんの姿は見当たらなかった。今日はお互いシフトを入れてないはずだけれど、お店を手伝っているのかもしれない。人手が足りないときには、よくあることだ。
カフェがオープンしてひと月と少し。引き継ぎにじっくり時間をかけ、丁寧に準備をしたぶん、軌道に乗るのは早かったように思う。もちろん、パートナーの手腕とカンパニーの全面的なバックアップあってこそだ。俺一人ではどうにも出来なかったし、そもそもこんな決断だってしなかっただろう。
板の上に生きて板の上で死ぬ。それは思い定めているというよりも、当然そうなるだろうというだけのことだ。
永遠の片想いなんて、そんなふうに表現したのはずいぶん前で、その気持ちは今も変わっていない。ただ、俺はもっともっと欲張りになってしまったのだ。
役者は貪欲な方が良い。その分、たくさんの経験を芝居に還元できる。それに、俺がどんなことをしても、そっと寄り添ってくれる人と後押ししてくれる人たちがいる。七つも年下の男の子のおかげで、そう思えるようになった。
「お、やっと起きたんすか」
玄関で扉が開く音がして、すっかり大人になった万里くんが現れた。最近髪を切って、いよいよ色気が増してきた気がする。
「ん、おはよう」
「ふはっ。おはよ」
笑いながら、慣れた手つきで髪を梳かしてくれる。いつも寝癖がつくところ。まだ鏡を見ていないけれど、きっと今日も盛大にこしらえているのだろう。
「お店は?」
「ランチ終わって落ち着いたから、あとは咲也に任せてきた」
咲也くんは役者業の傍ら、店を積極的に手伝ってくれている。飲食店でのバイト経験もあるし、人当たりが良いからお客さんの評判も良い。俺よりもずっとテキパキと動いてくれるから、とても心強い。
「ほい、メシ。食えそ?」
差し出されたテイクアウト用の白い箱の中身は、サーモンとクリームチーズのベーグルだった。今日のランチメニューだ。オレンジがかったピンクと濃密な白のコントラストが食欲をそそる。
「うん、いただくよ。ありがとう」
顔を洗ってダイニングに戻ると、たまごが入ったサラダとコーヒーまで用意されていた。まさに至れり尽くせり。
「ああ、結婚して良かったなぁ」
まだぼんやりしていたから、緩んだ口から本心がぽろりとはみ出してしまった。洗い物をしていた手をとめて、万里くんがぶはっと盛大に吹き出す。もう、そんなに笑わなくてもいいじゃない。
「やっすい男だな」
「素直な気持ちだよ」
広い背中にコツンと額をつけた。まだ笑いがおさまらないみたいで、ふるふると振動が伝わってくる。
「昔からそれくらい素直になってくれてたら、俺の苦労は七割減ってたんすけど」
「そんなイージーモードじゃ、君にはつまらなかったでしょう」
「おーおー。おかげさまで歯応えアリアリだったわ」
一昨日騙された仕返しのつもりで意地悪に言ってみたのに、万里くんはからりと笑い飛ばした。そういうところ、大人になっちゃったなぁとしみじみ思う。
ハードモード攻略おつ、とは、結婚報告した時に万里くんが至くんにかけられていた言葉だ。ベリハっすよって返していたけど、そっちの言葉の意味はよく分からなかった。ゲーム用語は奥が深い。
「ほら、早くメシ食えって。稽古だろ」
「うん。綴くんから本が出来たって聞いたから、今日は本読みだね。楽しみだな」
「主演、久々だしな」
「ふふっ。うん」
どんな役も、どんな舞台も、臨む気持ちは変わらない。それでもやっぱり主演は特別だ。とくに今回は、先の秋組公演で主演兼総合演出という大役をやってのけた万里くんを近くで見ていたから、余計に気合が入っているかもしれない。
秋から冬へ、渡されたバトンを握り締める。次の季節へ胸を張って繋げるような最高の芝居を、冬組らしく作り上げていきたい。それに俺自身も、もっともっと役と向き合って、寄り添って、深く潜って、俺にしかできない芝居を追及したい。
ブランチを終えて身支度を整える。玄関先まで、万里くんは見送りに出てくれた。
「晩メシ、向こうで食ってくるよな。あんまり飲み過ぎんなよ」
「大丈夫。しばらく禁酒するから」
昨日の惨状を知っている万里くんは、苦笑いでそれが良いと同意した。
行ってきますとお帰りなさいのキスは、ふたりで暮らし始めてから少し経ってからできた習慣で、住まいをここに移した今も続いている。最初はとにかく恥ずかしかったのに、今ではすっかり慣れてしまった。初々しさがなくなったことを惜しむ万里くんに、それはお互い様だと呆れたこともあったっけ。
軽く触れ合わせて、けれど唇はなかなか離れていかなかった。どうしたの。口を開けば、するりと舌が入り込んであっという間に言葉ごと絡め取られてしまう。腰に回された腕が、緩やかに俺を締め付けた。同じ力で抱き返しながら、今日は早めに帰って来ようと決める。
付き合いたての恋人のような浮き足だった気持ちがなくなったとしても、悲観することはない。共に過ごしてきた時間の証明でもあるからだ。それに、俺たちの間には愛としか名付けられない確かなものがあって、それが突然溢れてしまう夜だって、これから先何度もあるだろう。
熱を持ちそうになる身を離して、差し出された傘を受け取った。万里くんからいつかの誕生日に貰ったものだ。雨の中でも俺の上だけ青空になってしまうところが気に入っている。
「行ってらっしゃい、紬さん」
甘い音を紡いだ口元が弧を描く。しっとり濡れた唇は、雨粒が煌めく花弁みたいに綺麗だ。
「行ってきます、万里くん」
また一つ、当たり前のやりとりをする。日常に滲む幸福を見逃さずにいられることが、嬉しくてしかたがない。それはきっと万里くんも同じで、ふたりで笑い合った。俺たちはそうやって、これからも生きていくのだろう。
手を振って外へ出る。外階段に踊る足音が、雨空へと軽やかに昇っていった。