一.
あ、落ちる。
そう思った時には、すでに遅かった。
俺の反射神経と運動能力は眠っている能力を突如発揮することもなく、不安定な脚立から投げ出された身体は、ただ重力に従順に床へと沈んでいく。
受け身の取り方を丞にちゃんと教わっておけばよかった。この状況でそんなことを考えても、仕方がないのだけれど。
こういう時は本当にスローモーションになるんだなと、悠長に考えながら、手が空を掴みやがて視界に天井が映るのを、まるで映画のように見ていた。
どすん。鈍い音が遠く響く。
それと同時に、意識を手放した。
「――わっ」
深い水底から一気に引き上げられるように、ぐんと意識が浮上する。はたと目を開ければ、しんと静まり返った倉庫にひとりきり。明り取りの小窓からは陽日が入り込んで、そこだけふわふわと舞う埃が煌めいている。
数度瞬きをしたところで、脚立から落ちたことを思い出した。どうやら倒れたまま気を失っていたらしい。
「いったたた」
やや遅れて背中に痛みが走って、暫くその場に丸くなった。
やはり、肥料のストックは自分の手の届くところに置いて貰えばよかった。近いうちにガイさんと配置換えの相談をしようと心に決めて、ゆっくり立ち上がる。
いったいどれくらい気を失っていたのだろう。スマホは鞄に入れっぱなしになっているし、今は腕時計もつけていない。日が高くなっていることは分かるものの、何時なのかは見当もつかなかった。
庭仕事の後、万里くんが最近見つけたというカフェに行く約束がある。間に合うだろうか。一抹の不安がよぎった。
今日は彼の二十歳の誕生日だ。お酒も飲めるようになったけれど、まずはコーヒーでお祝いをするというのも、カフェ友らしくて良い。
朝から、そこかしこでお祝いされているのを見た。ライムの通知が止まらないとぼやいているのも聞いた。どんなことも芝居の糧にしようという貪欲さと、人のために何かすることを厭わない生来の優しさもあって、いろんな人から必要とされて愛されている。それを心底誇らしく思っているから、そんな万里くんがわざわざ大事な一日の数時間を俺に割いてくれようとしていることに、申し訳なさがあった。
遅れて怒るような子ではないけれど、彼の時間を無駄にしたくはない。
それに俺自身も楽しみにしていたのだ。今まで二人で巡ったカフェは数知れず、お互いの好みもよくわかっている。だから、万里くんが絶対気に入ると興奮気味に教えてくれたカフェなら、間違いなく気に入るだろう。
あの時の万里くん、可愛かったな。実家に帰ったときに迎えてくれるザビーみたいだった。ふわふわの尻尾が見えたことは、彼には内緒だ。
砂でざらついた床に転がる肥料を拾い上げ、倉庫から中庭へ出た。
まだ夏の気配を色濃く纏った風が、じとりと前髪を掠めていく。目を細めてやり過ごし、見慣れた景色に目を向けた。はずだったのだけれど。
「……あれ?」
何かがおかしい。
パチパチと瞬きを繰り返し、それからぐるりと見渡した。
桔梗が揺れているあの場所は、ヘリオトロープがあったはずだ。こっちには植えた記憶のないスイフヨウ。ペンキが塗りたてだったはずのベンチは、風化したようにすっかり 色褪せているし、さっきまでがやがやと騒がしかったベランダやレッスン室からも、人の気配がすっかり消えていた。
違和感の正体はあちこちにある。
入団当初から劇団七不思議の洗礼を受けている。だから、この寮で不思議なことが起こるのは身をもって知っていた。とはいえあの時は幼馴染がいたのだ。まだ関係が拗れたままだったけれど、それでも丞が居てくれて心強かったのはよく覚えている。
後々夢にまで出てきてくれた無間人形を探してみても、どこにも見当たらない。今回はあの子の出番じゃないってことかな。なんて、暢気に考えている場合じゃないか。
頬を撫でる風は熱いほどなのに、ぞくりとして身震いをする。誰か。誰かいないの。丞。カントク。万里くん。
形を持った誰かを求めて、足は自然といつも人がいる方を目指していた。
そっと入った談話室にも人影はなく、肩を落とす。ここにも違和感は潜んでいた。腰を下ろしたソファは、真新しい茶色の三人掛けになっている。向かいのオレンジ色は良く知っているものだけれど、やっぱりどこかくたびれた印象だ。
視線を巡らせて、壁掛けのホワイトボードに目を止めた。
団員のスケジュールが書き込まれたそれには、確かに今日の日付が入っているのに、並んでいる名前は知らないものばかりだった。一体、どこに迷い込んでしまったのだろう。答えを知るものは今、この場にいそうもなかった。
ふと、ボードの隅に見知った文字を見付けて、ほっと一息吐く。少し癖のある角張った綺麗な字。
立ち上がって、ゆっくり近付いてみる。
「ねぇ、万里くん。ここ、どこなのかな」
独り言ちて、指先でなぞる。ご自由にどーぞ。そっけない言葉のその先に、カフェのチラシと、幾枚か千切られたコーヒー券が添えられていた。
オープン日はひと月ほど前。
ただ、そこには「二〇二七年」の文字が、いかにも自然に綴られていた。
二.
部屋には戻らず寮を出た。劇場に足を向けようとして、それもやっぱり止めた。
ゆっくり歩きながら、ひとつひとつ確かめていく。
天鵞絨駅前には大きな商業ビルが出来ていた。商店街にも知らない店がたくさんあった。カントクと並んだドーナツ屋がなくなっていた。万里くんと通ったカフェのひとつも、もう見つけられない。ひしめく劇場の公演ポスターの公演日は、どれもこれも二〇二七年。
ここが未来の世界である証拠は、そこかしこに転がっている。どっきりにしては街ぐるみで大掛かりすぎる。だいたいここまでしなくても、丞なら簡単に騙されてくれるのに。
それじゃあ本当に、ここは二〇二七年の天鵞絨町ということなのだろう。
いろんな場所で始まるエチュードと拍手。チラシ配りや、呼び込みの声。芝居に魅せられた人たちの、日々の営み。
変わらないものと、変わってしまうもの。
俺だっていい大人だから、そのどちらも当たり前に存在することはよく知っているのに。この街を歩きながら、それを痛いほどに実感している。
七年という年月は短くない。これがそのまま俺たちふたりの距離だとは思わないけれど。
snow dropという名のカフェは寮から徒歩一五分ほど離れていて、大通りから二本外れたところに位置しているらしい。あの辺は閑静な住宅街で、お店があった記憶はないけれど、隠れ家的なカフェなのだろうか。
わざわざ万里くんが宣伝するということは、誰か親しい人が関わっているのかもしれない。もしかしたらお店の手伝いなんかもしているのかな。淡い期待を抱きながら、歩を進める。心許なさはあれど、万里くんが存在する世界に興味がないわけがない。足取りは思いのほか軽かった。
白亜の外観に周りに置かれた緑が映える。スノードロップの花をあしらった控え目なロゴがついた扉の前で、俺は再び立ち尽くすことになった。
「定休日」
ドアに掛かるプレートの文字を口に出してみた。落胆で声が掠れる。頼みの綱はあっけなく手から滑り落ちて、途端に不安が襲ってきた。世界からひとり弾き出されたようだ。自分の存在があやふやになって、消えてしまいそうな感覚。
もし、このまま誰にも会えなかったら。もし、元の世界に戻れなかったら。もう二度と、万里くんに会えないとしたら。
そこまで考えて、大きく頭を振った。
俺には万里くんとカフェに行くという大事な約束があるし、まだちゃんとおめでとうだって言えてない。とにかく帰る方法を探そう。ここで突っ立っていても仕方がないじゃないか。そう自分を叱咤する。
さてどうしよう。とりあえず寮に戻ってみようか。こういう時のセオリーで、倉庫で脚立からもう一度落ちれば元の世界に戻れるかもしれない。痛いのは嫌だけれど、背に腹は変えられない。
踵を返そうとした瞬間、扉がギィと重そうな音を立てて開いた。ぽかんと立ち尽くす俺を、男っぽい美貌が可笑しそうに見つめている。
「いらっしゃい、紬さん」
穏やかな声は俺が知るよりも低く落ち着いていて、深みがある。ハニーブラウンの髪は後ろが短く切りそろえられて、すっきりした印象だ。長い前髪は緩いウェーブがかかっていて、切れ長の目と相まって気だるい雰囲気を纏っていた。
「万里……くん?」
「そ、万里くんですよ。アンタと同い年の。あ、二七になったから、今は俺の方が一つ上か」
目を瞬く。本当にいた。夢……かもしれないけれど、確かにそこに。
「倉庫で脚立から落ちて、気付いたら七年後の世界に迷い込んでた。そこで俺と会った。……なんて、聞いた時は流石にただの夢だろって思ったけど」
悪戯っぽく青い目が細められて、滲む色気にどきりとした。形の良い眉や長いまつ毛、すっと通った鼻筋や、薄い唇。さっき歩いてきた街並みと同じように、どれも知っているもののようでいて、知らないものなのに。
「本当に会えると嬉しいもんだな」
ふわりと綻んだ頬と向けられた屈託のない笑顔は、俺がよく知っている彼のものだった。
大きな手に引かれて、促されるまま店内に足を踏み入れた。一つ一つこだわりを感じる調度品がゆったりと配置され、間に色とりどりの花が飾られている。ぐるりと見渡してゆっくり息を吸い込めば、微かなコーヒーの香りが肺を満たした。
しっくりと馴染むその感性には高揚感すら覚える。
「紬さんと、そろそろ来るんじゃないかって楽しみにしてたんだぜ。ま、一番楽しみにしてた本人は外出中だけど。せっかくだからコーヒー飲んでゆっくりしてって」
ここで俺の名前が出たことに、少し驚いた。俺はまだ君の近くに居るのか。君はまだ俺の近くに居てくれているのか。どんな関係であれ、それは嬉しかった。
「俺もここを手伝ってるの」
「まぁ、そんな感じ」
奥に引っ込んだ万里くんが手際良くドリッパーにコーヒー豆をセットするのを、カウンターに座って眺める。いつか、カフェオーナーとバリスタのエチュードをしたことを思い出した。あの時も細かな動きが洗練されていて、実物はひとつもないのに、本物のバリスタみたいだったけれど。
「本物のバリスタなんだなぁ」
「ふはっ、まーな」
器用なだけじゃなくて、とても真面目で勉強熱心な彼のことだ。きっとたくさん練習したのだろう。その姿を俺は見せてもらえただろうか。欲を言えば、試作のコーヒーも飲ませてもらえていたら良い。
程なくしてカップが運ばれてくる。芳ばしい香りに、つい頬が緩んだ。砂糖はひと匙だけな。そう忠告する姿が、こだわりの強い彼らしくてつい笑ってしまう。
「ん、美味しい」
隣に腰を下ろした万里くんが、片眉を上げて満足そうに微笑んだ。
「万里くんに会えて良かった。寮に人は居ないし、ホワイトボードには知らない名前ばかりだし、どうしようかと思ったよ」
「そのわりには落ち着いてんだよな。冬組のそういうとこ、マジで何なんだよ」
「あはは」
「地方公演と次の公演の場当たりで、今はほとんど人が出払ってるはずだ」
演劇の街のカフェらしく、作り付けの棚には所狭しとフライヤーが並んでいる。あの中にカンパニーのものもあるのだろう。未来の公演にもちろん興味はあるけれど、なんとなく立ち入ってはいけない気もしていた。
「今寮にいる連中も、面識ない奴らばっかだろうな。劇団員もスタッフも増えたし、研究生の受け入れも始めて、手狭になったんだ。経済的に自立してる当時のメンバーは、ほとんど寮から出ちまった。まぁ、どいつもこいつもここがホームだっつって、籍は置いたままだけどさ。役者続けてる奴もいれば、役者は引退して専門分野でバリバリやってる奴もいる。幸は今、海外修行中だっけか」
カンパニーと仲間たちが歩んだ七年間に思いを馳せてみても、うまく想像できない。けれどきっと、それぞれが最上と思える道を進んでいるのだろう。万里くんの表情からも、それは伺えた。
「七年後のアンタはどうしてると思う?」
「役者街道邁進中、かな」
「ははっ、正解。まぁ、大した怪我も病気もなく、元気にやってますよ」
「それは朗報だなぁ」
「だからって気ぃ緩めんじゃねーぞ。アンタは昔っから危なっかしいんだ。芝居に没頭して寝食忘れがちだし、役作りだからって無茶なことばっかするし、たまに何もねーところで転ぶし」
最後のは、ただ俺がどんくさいだけじゃないかな。思い当たる節はあるから、ここは素直に頷いておくことにした。
「うん、気を付けるよ」
万里くんに「昔から」なんて言われるのは新鮮で、どうにも擽ったい。なんだか丞みたい。なんて言ったら、今の万里くんはどんな顔するのだろう。拗ねてみせてくれるのか、余裕の笑みを返されるのか、それとも。そこまで考えて、言葉にするのを躊躇った。
七年という歳月の変化を目の当たりにしてきたばかりじゃないか。変わらないものはあるけれど、変わるものもたくさんある。俺と万里くんの関係だって、例外じゃない。
その時、俺の頭にぽすんと大きな手が乗った。それからわしゃわしゃと撫でられる。俺が酔っぱらって、時折万里くんにするように。俺、ザビーじゃねーんすけど。不貞腐れてそう言った彼が、ずいぶん遠い。これも変化の一つなのだろう。
ぐっと喉が詰まる。
最初に会った時から気付いていた。左手薬指で真新しい銀の輪が光るのを。彼もきっと、最上の選択をしたのだろう。その証が眩しくて目を伏せた。
「そんな顔すんなよ」
離れていった手が、俺の左手を取る。それから、薬指の付け根を親指で優しく撫でた。
「ここ、予約しといただろ」
「……え」
「って、七年前だと、まだか」
ふわりと美貌が緩む。
「昔はアンタが考えてること全然分かんねぇって思ってたけど、俺に余裕が無かっただけなのかもな」
結構顔に出てたんだなと言って見せた微笑みは、何でも見透かしているかのような大人の男のものだ。
「万里くんはいつも落ち着いていて、余裕そうに見えるよ」
自分を俯瞰して見ることが得意な子だ。稽古では状況や問題点をしっかり把握して解決法を模索して、確実に改善し、進化していく。美大に進学して、より深く真摯に芝居へ向き合う姿も頼もしく見てきた。もちろんそれだけじゃなくて、俺とのことも。
「そりゃまぁ、紬さんにそう思われたくて必死だったからな。絶対埋められない七歳の年の差を気にしてたのは俺の方。すっげーダセぇしガキっぽいけど、意地みたいなもんでさ」
そんなことを考えていたなんて、ちっとも気付かなかった。というか、俺は知ろうともしていなかったのだ。君を知れば知るほど引き返せないことが分かっていたから。そう思い至った時点でもう、どうにもならないところまで来ているというのに。
「やっぱり俺は、君を傷つけてばかりだ」
好きだと言われて、心が踊った。ごめんねと言いながら、少しだけと手を繋いだ。絡まった指を振りほどかなかった。彼の香りに包まれて、一度だけ唇を重ねて。それでもやっぱり俺は、何も返してあげられないと思った。何も返せないくせに、向けられる好意がいつかなくなってしまうことが怖いと思った。
俺たちの関係に明確な名前はついていない。そして俺は、あの柔らかな唇の感触を忘れることもできないでいる。
「アンタは優しすぎるんだよ」
俯いて頭を振る。優しいのは、君だ。自分勝手で中途半端な俺に、万里くんは無理強いなんてひとつもしなかった。
君は俺にはもったいない人だ。もっと広い世界を知ってほしい。どこまでも高みを目指してほしい。ひたむきに芝居に向き合う君の努力が報われてほしい。それは本当にそうなのだけれど。
君のためなんていうのはただの言い訳なんじゃないかって、自分を疑っている。本当は自分が傷つきたくないだけだろうって、心の中で声がする。
大事に拾い集めたものを捨てるのなんて、一瞬だ。形あるものはいずれ壊れてしまう。いや、俺自身が壊してしまうかもしれない。またあの時みたいに。
俺たちの関係に名前がついてしまったら。始まってしまったら。どうしてもその先を考えてしまうのだ。
君を選べなかった俺を。君に選ばれなかった俺を。それでも板の上で生きていくことしか選べない俺を。
「あと、すげー極端なんだよな。どうせ俺と芝居を天秤にかけたりしてんだろ」
「……俺は、万里くんを選ばないよ」
「ふはっ、上等。アンタはそれでいいんだよ」
何でもないことのように、万里くんは朗らかに笑い飛ばした。左手の薬指に唇が落ちる。一瞬触れただけで、そこからじわりと体温が上がっていく。「選べない」じゃなくて「選ばない」と言った俺の狡さだって、目の前の君にはきっとお見通しなのだろう。
「アンタが選ばなくても、俺がアンタを選び続けてやる」
瑠璃色にマゼンタを一滴溶かしたような虹彩が、きらりと光った。不敵に上がる口元に反して、その瞳には慈愛の色が濃く映る。
「結構説得力あるだろ」
そう言って自身の左手を得意げに掲げる。薬指の銀色を、万里くんは愛おしそうに見つめていた。
こんな表情が出来るんだ。
君が俺じゃない俺と過ごした七年を少し羨ましく思った。
「うん」
銀色が閃いて、左手が頬に触れる。筋張っていて、大きな手。温かくて、優しい、あの子と同じ手だ。
鼻の奥がツンと痛んで、視界が歪む。万里くんの綺麗な顔がゆっくり近付いてくるのを、目を閉じるのも忘れて見入っていた。
唇に吐息がかかる。触れるか触れないかの距離。チクタクと時を刻む時計の音がやけに大きく聞こえて。
「……ここでキスしてーとこなんだけどさ」
低い声が聞こえたかと思うと、万里くんは乗り出した身体をすっと後ろに引いた。ぼやけた視界が途端に輪郭を持って、ばつが悪そうに眉間に皺を寄せた顔が映る。
「俺と、ソウイウコトしてます?」
「い……一度だけ」
「はぁ、くそっ。俺の甲斐性なしめ」
大きなため息を吐いて、万里くんはがしがしと乱暴に頭を掻いた。
「万里くんは優しいんだよ」
「そういうのは優しいって言わねぇの。しかたねーから、ここは引いてやる。嫉妬に怒り狂った俺が俺をぶん殴ろうと夜な夜な倉庫で脚立からダイブしそうだからな。もっとしっかりしろって、帰ったら俺に言っといて」
「ふふ。……うん。やっぱり君は優しい」
残りのコーヒーを飲み干した。少し冷めるとコクが増してまた美味しい。万里くんの腕もあるけれど、豆も好みだ。いつかまたこのコーヒーを飲みたい。できれば腕の良いバリスタに淹れてもらえると嬉しい。
浅ましくて、欲深くて、図々しくて、狡くて、どうしようもない俺を、あの子はどう思うかな。呆れて、それでも、しかたねーなって笑ってくれるだろうか。
会いたいな。今、君に。
ふわふわとした浮遊感に、なんとなくお別れの時間を悟った。名残惜しい気持ちも、今の万里くんには筒抜けのようで、あやす様に腕の中に抱き込まれてしまった。
ぎゅっと腕に力を込めると、同じだけ抱き返してくれる。逞しい腕は知らない人のようで、でもこの暖かさを俺は確かに知っている。
「ありがとう、万里くん。ずっと離さないでいてくれて。俺を、選び続けてくれて。これからも俺のことよろしくお願いします」
「りょーかい」
目を閉じて息を吸う。肺を満たすのは、大好きな万里くんの匂いだった。
三.
そっと目を開ければ、薄暗い倉庫にひとりきり。明り取りの小窓からは陽日が入り込んで、そこだけふわふわと舞う埃が煌めいている。
耳をすませるまでもなく、外からはいろんな声が次々に聞こえて来た。三角くんが新しいさんかくを見つけてきたとか、シトロンくんが塗り立てのベンチに座ってしまったとか、密くんが木の上で眠っていたとか、カズくんのインステの通知が止まらないとか。
ああ、帰ってきたみたいだ。騒がしさがひどく懐かしくて、急いで外へ出た。
夏の匂いを残す風がぶわりと吹いて、髪が攫われる。高い位置から照らす太陽が眩しくて目を細めた。
「お、紬さんじゃん」
声を辿って、会いたくてしかたがなかった姿を見つける。
万里くんだ。
たまらなくなって、思わず駆け出した。
「万里く……っわぁ!」
俺の運動能力は、やっぱり眠ったままだった。何もないところで躓いて、受け身も取れないまま身体は傾いていく。ほらな、と、さっき別れたばかりの大人な万里くんが苦笑するのが見えた。
やっぱりこういう時はスローモーションになるみたい。本日二度目だなと暢気に考えていたら、脳内で幼馴染がため息を吐いた。悪いけど、筋トレメニューの強度を下げてもらわないとトレーニングには付き合えないよ。
万里くんの驚いた表情の向こう側。紫のヘリオトロープが、風に揺れている。
「っと、あぶね」
大きな手が、倒れ込む身体をがっちりと支えてくれた。
「大丈夫かよ」
「ごめん」
慌てて身を引こうとしたけれど、すっぽり抱き込まれて動けなくなってしまった。
周りにたくさん人もいるのに。視線だけ巡らせれば、今度は密くんと三角くんが三角形のマシュマロ争奪戦を繰り広げていて、こちらを見ている人は誰もいない。
だからといってこの状況が自然であるはずもない。
「あ、あの……万里くん?」
「もーちょい、激レアシチュ堪能させて。誕生日ってコトで」
それってどういう理屈なの。心臓がどきどきしてあんまりうるさいから、君にも響いてしまうんじゃないかと気が気じゃなかった。
「俺、これから片想いの相手とカフェデートなんだけどさ、そん時に人生三度目の告白しようとしてんの。だから、告る勇気の充電させて」
片想いの相手。カフェ。三度目の告白。
思い当たる節がありすぎて息が詰まる。震えないように、ゆっくり深呼吸をした。
「……勝算は?」
「五分五分ってとこ」
「万里くんにしては、随分弱気だなぁ」
「相手がとんでもねぇ頑固者なんすよ。しかも、芝居っつー超強力なライバル付き」
「そんな面倒くさい人、やめちゃえばいいよ。君ならいくらでも……いたたっ、ちょっ、万里くん! 苦しい!」
ぎゅうううっと腕がしまった。抱き込まれた身体が弓なりになって、ギシギシ音を立てる。でも、がっちり支えられているから後ろに倒れることも出来ない。
万里くんのシャツの裾をツンと引っ張って、ようやく少しだけ力が緩んだ。ほんとうに、少しだけ。
「面倒くさくて、狡くて、残酷で、控えめなくせにどっか図々しくて、演劇バカで、真面目で、優しくて、ひたむきで、ほんとどうしようもねぇ」
肩口に息がかかる。じんと痺れるような感覚に、眩暈を覚えた。
「どうせ俺と芝居を天秤にかけたりしてんだよ。比べるもんじゃねーだろって思うけど、そうやって比べんの。傾くのは芝居の方に決まってるのに、俺を選べないことに自分で傷ついてさ。だから」
そこで一呼吸。間の取り方は流石だ。俺だったら、もっと間を持たせてダレていたかもしれない。そんなことでも考えていないと、どうにかなってしまいそうだった。
「アンタが俺を選べなくても、俺がアンタを選び続けてやる」
耳に注ぎ込まれる言葉が、眩い光の粒になって身体中にじわりじわりと溶けていく。それは俺の心のずっと奥底にまで届いて、捨てることも出来ず藻屑のように漂っていた感情の輪郭を一気に照らし出した。
あんなに強かった腕はあっさりと解かれて、名残惜しさだけを置いて離れていく。
「だから安心して俺の側に居てくれって、言ってやんの。まぁ、証明できるのはずっと先だから、説得力に欠けるとは思ってんすけど」
「ううん、そうでもないよ」
万里くんは一瞬、目をみはった。そのあどけない表情に、ほっと息を吐く。
二十歳の君が紡ぐ未来の話は、俺の想像よりもずっと複雑で困難で、けれど希望に溢れているのかもしれない。
見てみたいと、知りたいと思った。
君と俺の、これからのことを。
「マジすか。じゃあこれでいってみるわ」
「頑張ってね」
「おー。五分五分って言ったけど、八割くらいいけそうな気がしてきた」
やっぱり君にしては弱気だから、つい笑ってしまう。成功率はもうちょっと高いと思うけれど、言わないでおいた。
「じゃあ、一〇分後に玄関集合で」
「うん。万里くんが自信あるって言ってたから、楽しみだな」
「まぁ、期待しといてくださいよ。ここからは一五分くらい離れてんすけど、大通りから二本外れた住宅街の中にぽつんとあって、まさに隠れ家って感じ。雰囲気も良いし、味と品揃えも申し分ねぇから」
得意げにそう言うと、万里くんは踵を返す。出会った頃よりも広くなった背中に、さっき別れた彼の面影が重なった。
夢みたいな。いや、きっと夢なのだろうけれど。
例えばひとつの可能性として、あんな未来もあるのかもしれないと思えた。
新しいカフェを見つけたら、つい万里くんの顔が思い浮かぶ。あの子が気に入るかなと思いながらメニューを見たり、こっそり砂糖のチェックをしてみることもある。そんなふうに俺の日常に彼はすっかり住み着いていて、きっとそれはお互い様で。それはずっと前から、とても愛おしいことだった。
俺たちの関係に名前も形もなくて良いと思っていた。いや、思おうとしていただけなのかもしれない。君が伸ばしてくれた手を俺は取りたがっていて、そんな俺を俺はようやく認められるような気がする。
夏の名残が色濃い風が吹く。秋の気配はまだ遠い九月九日。高く昇った太陽に晒されて、ミルクティ色の髪が金の光を纏って揺れた。