盛夏の陽射しが中庭に降り注ぐ。木々は枝を大きく伸ばし、深緑の葉を広げ、足元にところどころ穴の空いた影を刻んでいた。蝉時雨と、どこかの軒先の風鈴の音と、レッスン室から漏れる発声練習の声。贅沢なBGMに耳を傾けながら、青い匂いで肺を満たす。
日本に四季があって良かった。
この場所にいると、よくそんなことを思う。同じようでいて、毎日少しずつ変化して、気づけば全く違う顔を見せてくれる。まるでどこかの誰かみたいに。
頭の隅にひょっこりと現れる恋人の影に苦笑した。ちょっと感傷的すぎるから、もうしばらくお庭番長でいさせて貰おうか。ごめんねと断って、ぐるりと中庭を見渡した。
綺麗に咲いたね。大きくなったね。元気だね。夏を謳歌する花々に心の中で声をかけながら、ゆったりと端から端まで歩いて、マリーゴールドの前で立ち止まった。
マリーゴールドといえば黄色が主流だけれど、ここにあるものは白い色をしている。中心に向かうほど黄色を帯びて、外側は乳白色に近い。コロンと丸い花はポンポンのようで可愛らしい。まだ花をいくつもつけているものの、葉が横に広がって、どこか窮屈そうだ。
片膝をついて、花の輪郭をひと撫でした。それから、手にしていた鋏を茎に差し入れる。
シャキン。
鋭い音に遅れて、花は手のひらにその身を預けた。後で花瓶に生けてあげるね。そっと語りかけて、次の花に手をかけた。
「お、やっぱここにいた」
いつの間にか、すっかり没頭していたらしい。優しい声音が降ってきて、ようやくそれに気付いた。
引き戻された世界を確かめるように、瞬きを二回してから、ゆっくりと後ろをふり仰ぐ。
「万里くん」
白いシャツが眩しくて、目を細めた。
「おつ」
おくれ毛が夏風にふわりと揺れて、金色に煌めく。後ろで一つに結んだヘアスタイルは、彼にも、この季節にも、とてもよく似合っていた。
よっこらせ。おじいさんみたいな声を上げて、万里くんは俺の右側に腰を下ろした。腕が少しだけ触れ合う距離。寮の中にしては、ちょっと近すぎないかな。そんな言葉は、そっと仕舞い込んだ。
甘やかしている自覚はあるけれど、それ以上に甘やかされている。それに俺は大人だから、たとえ誰かに見られちゃったとしても、軽くはぐらかすくらいの狡さだって持っている。
「はい、差し入れ」
万里くんは肩にかけていたリュックからペットボトルを取り出して、こちらへひょいと傾けた。
促されるまま受け取ったのは、寮に常備しているミネラルウォーターじゃなくて、青いパッケージのスポーツドリンクだ。汗をかいた表面のでこぼこをなぞりながら、少し上にある紫青の瞳を見上げる。
「わざわざ買って来てくれたの?」
「ついでっすよ、ついで。ちょうど雑誌買いにコンビニ寄ったんで」
万里くんは、俺の分のコーヒーを淹れてくれるときと同じように、いかにも自然に笑って見せた。
元々大人っぽい子だったけれど、最近は色気がぐっと増してきて、少し困っている。もうすぐ二十歳になる男の子は、俺の苦笑の意味を測りかねたのか、ひょいと眉を上げて片目を眇めた。
「ありがとう。いただきます」
意地悪をしたいわけじゃないから、素直に頂戴することにした。その方が、彼も喜んでくれる。
白いキャップを外して、一口。それで、思っていたよりもずっと喉が渇いていたことを知った。
「それ、切っちまうんだ」
万里くんの視線は俺を通り越して、切り取ったマリーゴールドに向けられる。
「うん。切り戻しって言って、開花が落ち着いた後に、伸びすぎたところを切って整えてあげるんだよ。そうすると、また花を咲かせてくれるようになる。コツは躊躇せず大胆に、思い切りやること」
「ふぅん」
気のない返事に、つい頬が緩んだ。気だるげに頬杖をついて、興味なんてなさそうなのに、それでもちゃんと聞いてくれていることを知っている。
「アンタの妙な大胆さって、こういうところで育まれたのかもな」
「そうかな? よく慎重派だって言われるけど」
にやにや笑っていた万里くんが、今度は目を丸くした。
「は? 俺は活動費全カットの暴挙を忘れてねーからな」
「あはは。でも、君も反対しなかったじゃない」
「そーっすけど」
つんと尖らせた口が可愛い。キスしたいな。なんて思った瞬間に、もう唇は塞がれていた。
「なんで」
「したそうだったから」
やっぱり、ちょっと甘やかしすぎたかも。
「もう、万里くん。寮の中ではダメだって。誰に見られるかわからないんだから」
「まぁ、そん時は適当に誤魔化そうぜ。そういうの、得意だろ」
俺も、アンタも。そう続けられて、今度は俺が口を尖らせる番だった。
そんな緩んだ顔でかわいいって言われても、別に嬉しくない。俺だって、好きな子の前では格好つけていたいのだ。
「切ったやつ、どうするんすか」
引き際をわきまえている万里くんは、俺のご機嫌を損ねる前にさらりと話題を変えた。
「花瓶に生けるよ。入りきらなかったら、ドライフラワーにしようかな。ね、マリちゃん」
「……マリちゃん?」
万里くんが、頬杖から顎を滑らせた。ずるっと。そんなにおかしなことを言ったかな。
「マリーゴールドだから、マリちゃん……なんだけど、どうしてそんな顔してるの」
眉をひそめて、口をへの字に曲げている。苦虫を噛み潰したような顔とはこのことかと言わんばかりに。
「あー、ちょっと古傷が疼くっつーか」
「へぇ! どんな?」
俄然興味が湧いて、思わず前のめりになってしまった。全く違う環境で生きてきた人の、秘められたエピソードというのは興味をそそられる。それが恋人のものなら、尚更。
「ガキの頃、ねーちゃんにヒラヒラのワンピース着せられてさ。そん時、マリちゃんて呼ばれてたの思い出した」
古傷というわりには、キラキラしていて可愛らしい。想像の中、小さなマリちゃんがその場でくるりとひと回りした。それから、スカートの両端を摘んで、華麗にお辞儀をしてみせる。ゆるいウェーブのロングヘアと、頭にはレースがついた大きなリボンをつけて。
「え、見てみたいな」
「噂の女装コンテストの写真と交換なら考えても良いぜ」
「それは、絶対に、ダメ」
いったいどこから情報が漏れたのか。高校時代の女装コンテストの話は、いつの間にか万里くんの知るところとなっている。情報源は丞か、東さんあたりも怪しい。
さっきまでの自分を棚に上げて悪いけれど、万里くんの好奇心を満たしてあげることはできない。あれは俺のトップシークレットなのだ。
「じゃあ交渉決裂ってことで」
写真はあるみたいだから、いつか万里くんのお姉さんに会えたら、こっそり頼んでみよう。俺の決意を知ってか知らずか、万里くんは目の前で揺れる白い花に手を添える。
長い指先が、輪郭をなぞった。優雅な動きはとても洗練されていて、彼の育ちの良さが香り立つ。
「そういえば、マリーゴールドって縁起悪ぃ感じの花言葉あったよな。『絶望』とか、『裏切り』とか」
ぽつりと零したセリフすら、端正な横顔と相まって、舞台の一幕のようだった。
彼の聡明な頭の中には、いつの間にか花言葉の引き出しまでできたらしい。俺が好きなものや、俺がなんとなく発した言葉、俺との思い出も、大切にしまってくれているのだ。
そういうものがふと溢れて垣間見える瞬間に、好きだけじゃ足りないもどかしさを覚える。いつか君にうまく伝えられたらいいのだけれど。
「それもあるけど、他にも『健康』や『生命の輝き』なんていうのもあるよ」
左手で切花をひとつ摘み上げ、目の高さでくるりと一回転させた。まろやかな白は陽の光を浴びて、縁が銀色に煌めいている。
「それから、白いマリーゴールドはね、品種改良されたばかりで、まだ花言葉がないんだ」
「ふぅん」
またひとつ、俺の言葉が万里くんの引き出しにしまわれる。そんな実感にむずむずして、おもむろに立ち上がった。足元の花をまとめて拾い上げる。俺にならって立ち上がった万里くんが、掴みそびれて横たわったままの一輪をひょいと持ち上げた。
「じゃあさ、アンタがつければ?」
「え? 花言葉を?」
「そ。おもしろそーだろ」
ひとつの花にたくさんの花言葉があるのは、それだけたくさんの思いが込められているからなのだろう。そんな人間の身勝手を許して、植物は自らの生を謳歌する。強く、美しく、しなやかに。
中庭を風が吹き抜けていく。いたずらっこみたいに笑う万里くんの隣で、マリーゴールドが得意げに揺れるから。
託してみても良いかな。
そんな風に思えた。
「うん。すごく」
「だろ」
「そうだ、万里くんも一緒に考えようよ」
「じゃあ、コーヒーでも飲みながら考えてみっか。豆も買ってきたから、淹れてやるよ」
「ふふ、嬉しいな。どこのお店の?」
見せてくれた茶色い紙袋のパッケージは、万里くんが好きなカフェのブレンドだった。
ソファの座り心地がイマイチで、ふたりで行ったのは一度きり。でも味は好きだと言ったっけ。万里くんの腕なら、きっとお店と遜色ない味を楽しめるだろう。
「バイト先で貰ったクッキーがあるから、取ってくるね」
「おー。んじゃ、一〇分後に談話室集合な。あと、部屋戻る前に顔洗ってきた方がいい」
「え、汚れてたの? 早く教えてよ」
腕でゴシゴシと適当に頬を拭ったら、万里くんがそこじゃねぇと笑いながら、親指で俺の鼻先を拭ってくれた。くすぐったくてきゅっと目を閉じている間に、またしても唇に覚えがありすぎる柔らかなものが触れる。
「なんで」
俺は今、絶対に、誓って、一ミリだってキスしたいなんて考えていなかったのに。
「今のは、俺がしたかっただけ」
「ばーんーりーくーん」
できるだけ非難を込めたつもりだったのだけれど、どうにも間伸びしてしまった。その上、かき氷のシロップくらいの甘さになってしまったから、それ以上続けることもできなくなる。そうしているうちに、万里くんはリュックを背負い直して、ひらひらと手を振って踵を返した。
「じゃーあとでな」
「もう」
腕の中のマリーゴールドが、行き場のないため息を寛容に受け止めてくれる。抱え直して、鼻先を寄せた。
「素敵な花言葉をつけるからね、マリちゃん」
「……それ、改名しねえ?」
「あはは」
談話室へ向かう背を見送って、そっと見上げた空。
木々の緑の隙間を埋めるのは、万里くんの瞳の色を写したような、澄んだ青だった。