大学から待ち合わせのカフェに直行した万里は、窓際の席を陣取ってブレンドコーヒーを傾けていた。紬が最近気になっていたというだけあって、店内は緑が溢れている。ゆったりとした空間の取り方をしているのでつい長居してしまいそうだ。次の公演の台本をチェックしていると、待ち人からLIMEが入った。遅くなってごめん、もうすぐ着きます。というメッセージには花のキャラクターが謝っているスタンプが添えられていた。紬が遅れるのは珍しい。待ち合わせの10分前には着いていることが多く、いつも万里が待たせているので、たまには待つ側も悪くない。ゆっくりでいーっすよ、と返信して、再び台本に目を落とした。
カラン。来客を告げる音に視線を入り口に向けると、すらりとした長身の女性が入ってきた。胸元まである艶やかな黒髪が姿勢の良さと相まって凛とした空気を醸し出している。あまりジロジロ見るのも失礼か。待ち人ではなかったのですぐに視線を戻し、コーヒーを一口含んだ。
「万里くん、ごめんね。…お待たせ」
黒髪の美女がしずしずと歩み寄り遠慮がちに万里を呼んだ瞬間、その声に、万里は盛大に吹き出した。
「ぶはっ、…げほっ、げほっ…は…鼻に入っ…げほっ」
なんとか大事故は防いだものの、コーヒーが鼻に入ってめちゃくちゃ痛い。
「だ、大丈夫?」
涙目になる万里の丸まった背中を撫でて、心配そうに覗き込んだその顔は紛れもなく、
「紬さん…、あ…んた、なにやって…」
待ち人であった。
曰く、客演で女性の役をやることになって監督に相談していたらそこに居合わせた幸と莇に捕まってこんな姿にされたあげく、万里と待ち合わせしていると申告するとそのまま行って来いと締め出しをくらったということだった。
「左京さんも実際に外に出てみた方が芝居の参考になるし、万里くんなら上手くフォローしてくれるだろうって開けてくれなくて…」
鬼だ。MANKAIカンパニーには鬼がいる。呆れる万里の前で、哀れな生贄は胸元に落ちる毛先を弄っていた。
とりあえずお互い落ち着こうということで、コーヒーとケーキをオーダーしている間も、紬は所在なげに俯いていた。長い睫毛がチークが載った赤い頬に陰を落とす。気付いた時には吸い寄せられるように目が離せなくなっていた。
もともと紬に着せようと幸が準備していたのではないかと邪推してしまうほど、シンプルなワンピースが良く似合っていた。ウィッグもメイクもナチュラルに見えるように作り込んであるところに莇の本気を感じる。二人とも気合いが入りすぎだ。
「あの…、やっぱり変だよね」
不意に上げられた瞳とぶつかって、どきりと心臓が跳ねた。
「ヤバい」
「え、俺そんなにヤバいの」
不安そうに青が揺れ、心拍数が、上がる。
「あー、いや、全然変じゃねぇっつーか、似合いすぎっつーか。…すっげー可愛いってこと」
いやいや。いやいやいや。俺は今何を口走った。焦っても一度吐いた言葉が取り戻せるわけもなく。
「それは…あ、ありがとう…で、いいのかな」
少し困ったような笑顔でかけられた問いの答えも見つからず、なんとなくむず痒い。落ち着け、相手は紬さんだぞ。万里が自分に言い聞かせたところで、ちょうど注文したものが運ばれて来る。シフォンケーキからのぼるシナモンの香りが微妙な緊張感を弛緩させてくれて、ほっと息をついた。
一息つけば、自身の出で立ちに慣れてきたのか、紬は俯くのをやめて座り方の研究を始めた。さすが自他共に認める芝居馬鹿だ。足を閉じて座るのには内腿の筋肉が結構必要なんだなぁと呑気なことを言っている。たまに意見を求められるうちに万里もいつもの調子が戻ってきた。やはり、さっきの妙な動悸は気のせいだ、と思いたい。
「で、どーなんすか?実際に外に出てみた感想は」
「うーん。足がスースーするし、この靴…パンプスっていうんだっけ、すごく歩きづらくて。女性って大変だなって思ったよ。あ、それと」
虚空を彷徨っていた青い瞳がパチリと万里を捉えた。
「万里くんの驚いた顔が見られたのは楽しかったかな」
「…小学生の感想文かよ」
ピンクベージュの唇が控えめに弧を描くと、なんとなく悪態をついてしまう。気を悪くすることもなく上機嫌でケーキを口に運ぶ様は、深窓の令嬢がお忍びで街まで降りてきたようだった。
「あ!ねぇ、万里くん!俺、トイレ行きたくなったらどうしたらいいんだろう。このお店、共用じゃないよね」
「ぶはっ」
前言撤回。中身はやっぱり紬だった。なんで今それに気付いたんだ。思わず吹き出してしまえば止まらなくなって、万里はテーブルに突っ伏して震えながら腹を抱えた。
「ちょっと、笑いすぎだよ。俺にとっては死活問題なんだから」
「はははっ、あーもう腹痛ぇ。ノルマは達成しただろ。それ食い終わったら今日は帰ろうぜ」
食べかけのケーキに目を落とした紬が心底申し訳なさそうに頷いた。
「ごめんね。長居できなくて」
幸なら男子トイレに入ることに躊躇などしないだろうが、この状況の紬にそれを強いるのも心苦しい。
「いーっすよ。面白ぇもん見られたし」
ありがとうと細められた瞳に万里が映る。ただそれだけで、また小さく心臓がざわと疼いた。
「万里くんはすごい」
帰り道、感嘆の声が漏れて、万里は怪訝な目を隣に向けた。
「俺が?なんで」
すっかり見慣れてしまった令嬢がふわふわと微笑んでいる。
「俺、慣れない靴だからいつもより歩くの遅いでしょ。万里くんが歩幅合わせてくれてて、そういうことを自然にできるのがすごいなって思ったんだ」
「そっすか?普通じゃね?」
「それに車道側を歩いてくれるし、バッグも持ってくれるし。この格好で放り出されてどうしようかと思ったけど、万里くんの優しいところがたくさん見られたから、結構オーライだね」
姉によるスパルタ教育の賜物だが、その笑顔の前でわざわざ弁明するのも憚られた。なんでアンタがそんなに嬉しそうに笑うんだろう。
「ねぇ万里くん」
「なんすか?」
「…こうして歩いてたら、恋人に見えるかな」
内緒話のように顰めた声は、それでも万里の耳にしっかり届いた。その意図までは汲み取れないが。
「どーっすかね。手でも繋いでみます?」
揶揄うつもりでひょいと差し出した手に、あっさりと細い指が乗った。するりと絡め取られて、所謂恋人繋ぎという形に落ち着いてしまう。濃紺の長髪がふわりと揺れ、絡めた指先が熱を持った。
「紬さ…」
想定外の事態に思わず出たのは情けないほど上擦った声で、しかもそれ以上の言葉が出てこなかった。呆然と立ち尽くし目を丸くする万里に、なんてね、と紬はいたずらっぽい笑みを投げかける。やられた。
あっさり離れていこうとする手を捕まえてもう一方の腕を腰に回し、互いの息が届くほど距離を詰める。エメラルドブルーの瞳が至近距離で煌めいて、綺麗だ。
「なら、もっと恋人っぽいことしてみます?」
耳元で囁けば、華奢な肩が弱く揺れる。
「あ…あの」
「なんてな。紬さん、顔真っ赤」
予想以上に狼狽した様子に万里は満足げに口角を上げた。やられてばかりは性に合わないのだ。
「お…大人を揶揄わないでよ」
緩めた腕から離れていく体温に一抹の寂しさを覚えながら、万里は眉を顰めて少し下にあるどこか悔しそうな顔を見下ろした。そっちが仕掛けてきたくせに。
「プレイボーイの芝居の参考にもなりそうだ」
「…オイ」
紬はぱたぱたと右手で顔を扇いで、あははと朗らかに笑った。
「ただいまー」
着替えてくるという紬と玄関で別れて談話室に入ると、不自然な沈黙とともに視線が一気に万里に集中した。
「な…、なんだよ」
「万チャン水臭いっス!いつのまに彼女ができてたんすか!」
「しかもめちゃくちゃ美人なモデルって!ずりぃぞ万里!!」
「あ、あの!なれそめは?やっぱり運命的な出会いだったんですか!?」
太一、九門、椋が万里に詰め寄って口々にまくしたてた。
「はぁ???」
当の本人は状況が全く飲み込めず、3人の勢いに後退る。夕飯の支度をしている臣に視線で助けを求めても肩をすくめるだけだし、ダイニングにいる幸からはなぜか絶対零度の視線が送られてくる。
「ネタはあがってんだぞ!白状しろ!!」
「そうだよ万チャン!さっきカズくんからLIMEが!」
「一成?LIME??なんのことだ」
尻ポケットに収まっているスマホを取り出すとLIMEの通知が二桁を超えている。驚くスタンプが席巻しているカンパニーのグループLINEを遡り、一成が投稿した写真にやっと行き着いた万里は、危うくスマホを取り落すところだった。持ち前の反射神経でなんとか回避したが。
どやどやと元凶と思しき人物がリビングに姿を現した。
「カズナリミヨシただいま帰りましたーっ☆ねぇみんなLIME見てくれた!?さっきセッツァーが…」
「一成、お前はパパラッチか!プライバシーの侵害で訴えんぞ!!」
「わ!ご本人登場!?ね、ね、セッツァー!誰この美人!」
美人モデルと路チューなどしていない。断じてしていない。相手は紬だし、これはエチュードみたいなものだし、口には一切触れてない。後ろめたいことは何もないはずなのに。
「…黙秘権を行使する」
この居心地の悪さはなんだ。不満の声を背にしてリビングから逃げ出した。とにかく避難場所を探して中庭に出ると、すっかり魔法が解けた紬と行き合った。
「あ、万里くん。リビングの方、ずいぶん賑やかだけどどうしたの?」
「紬さん。LIME見た?」
促されてスマホを確認した紬が、その場でしおしおとしゃがみ込んだ。
「…さっき莇くんの様子が変だったわけが分かった」
なんでもウィッグを外してメイクを落としてもらう間、終始挙動不審で目も合わせてもらえなかったらしい。しばし自分の膝に顔を埋めていた紬は、よっこいしょと爺さんのような掛け声とともに立ち上がり、少し背伸びをして万里の耳元に唇を寄せた。
「次は見つからないようにしようね」
「は?紬さん、それって」
「摂津、月岡。…ちょっと来い」
万里の言葉を遮って地を這うような声が後方から発せられ、背が凍った。これは逃げた方が良いやつだと察する。本能が鳴らす警鐘に渋々抗ったのは、いかにも逃げ足の遅そうな男が隣にいるからだった。この人を置いて行くわけにもいかない。
「…ハイ」
この後左京に劇団員としての自覚を持て云々と長い説教を食らい、夕飯を食いっぱぐれた万里は、そのイライラを十座にぶつけて、左京から本日二度目の雷を落とされることになった。
「俺、回りくどいことしてるかなぁ。ねぇ、たーちゃん」
「は?何の話だ?ていうか、たーちゃんって呼ぶな」
律儀に返事をする幼馴染が訝しげな視線を向けてくる。104号室の騒ぎを遠く聞きながら、紬は夜食用のタマゴサンドを頬張った。