星も見えない寒い夜なら

宿直からの日勤を終えて、ようやく帰路に着く頃には、既に夜も深くなっていた。日勤とは言っても、定時なんてあってないようなものだ。
 けれど、担当している患者さんも安定してきたし、今日も勉強になることばかりだった。
 人間じゃなかったら、病気を治すことも、こんなに人に寄り添うこともできなかった。だから、僕は今の僕の生を、神が与えた罰だとは思わない。
 僕の前世は天使だった。人間の女性に恋をして、天から堕とされた。それを思い出したのは、少し前のことだ。
 産業医研修へ向かった先の、ビルの一室。そこで僕は、集められた僕たちは、それぞれの前世を思い出した。騎士、剣士、王子さまに、忍者、裏稼業の人まで。彼らとは、前世も現世でも決して交わらない人種のはずなに、不思議な縁は途切れずに今も続いていたりする。
「あ……もう。また……」
 自室の窓から明かりが漏れているのを見とめて、マンションの前で足を止めた。勝手に上がり込んでいる人物なんて、一人しか思い浮かばない。内階段を上って鉄製のドアを開ければ、予想通り、彼が出迎えた。
「よぉ、ミカエル。邪魔してんぜ」
「ルチアーノ!」
 ルチアーノもまた、あの日前世を共に思い出したうちの一人だ。家主よりも家主らしくソファに横になって、収まりきらない長い足をだらりと投げ出している。皺ができたシャツには、所々赤黒いシミが付いていた。
「また残業か? 研修医ってのはなかなか難儀だな。労基に訴えたほうが良いんじゃねぇか」
 ミカエルというのは僕の、ルチアーノは彼の前世の名前だ。僕は彼の現世の名を知らないし、彼も僕の名前を知らない。けれど彼は度々僕の部屋を訪い、いつの間にか合鍵まで作って、こうして馴染んでしまった。
 冷蔵庫の国産ビールはよくわからない異国のものに。インスタントコーヒーは小洒落たパッケージの豆とミルに。ベランダには灰皿が置かれて、救急箱の中身は日に日に充実していく。少しずつ、けれど確実に、僕の生活に彼は入り込んだ。
「またそんなに怪我して。無茶しないでって、いつも言ってるでしょう」
「銀二のおっさんが絡む案件はどうにも荒っぽいんだよな。まぁ見合った報酬がありゃなんでもやんのが俺の信条なんで」
 ペットの散歩から人探し、僕には詳しく教えてくれないような危険な仕事まで。報酬次第でなんでもこなす彼は、文字通り、街のなんでも屋さんを営んでいるらしい。
「ま、こんなん怪我のうちにも入んねぇって。それに、アンタが治してくれるし」
「僕にはそんな力ないよ」
 元天使とはいっても僕はただの人間で、例えば空を飛ぶとか、傷を癒すとか、そんな特別な力はない。それに外科は専門外だから、出来ることは最低限の応急処置くらいのものだ。
 それなのに、ルチアーノはこうして僕の元へやって来る。それが不思議で仕方なかった。
 一度、思い切って尋ねたことがある。彼は虚空に高い鼻先を向け、長いまつ毛を数度揺らして、それから、アンタと居るとなんか落ち着くから。そう言って笑ったのだ。
 理由になっているのか、いないのか。体よくあしらわれただけの気もする。それなのに、呆れることも忘れて目を奪われていた。その横顔が、傍若無人な彼に似つかわしくない穏やかな笑みが、あまりに綺麗だったからだ。
 その時に覚えた微かな胸の疼きを、以前の僕ならきっと見逃していた。けれど前世を思い出した僕は、気付いた。だって僕は、恋を知っている。
「そうだ。新しい豆、仕入れてきたぜ」
「へぇ、楽しみだな」
 彼がコーヒーを持参したということは、今日は朝まで居座る気のようだ。泊まった翌日の朝食係はルチアーノで、必ず新しい豆を挽いてコーヒーを淹れてくれる。それもまた、いつの間にか暗黙の了解になっていたことだった。
 一応、宿代のつもりらしい。採算が取れているのかは置いておくとして、意外と律儀なところは可愛いと思う。
 一緒にいて落ち着く。それは、僕も同じだ。そしてそれと同じくらい、どうして良いかわからないほど胸がざわめいた。
 彼の視線は、時折、僕よりもずっと遠いところへ向けられている気がする。あるいは、僕の、もっと奥の方へ。僕に何を見て、求めて、誰を探しているのか。本当の名前だけじゃない。年齢だって知らない。彼のことを、僕は何も知らない。
 それでも。
 先週オープンしたばかりのカフェのオリジナルブレンドで、味は保証するとか。ガレージみたいな内装で、緑が多いとか。エッグタルトが看板メニューらしいとか。つらつらと並べられる言葉に、向けられる眩しげな眼差しに、淡い期待が降り積もっていく。
 期待なんて、浅ましくてちっとも綺麗じゃない感情だ。でも、僕は天使じゃないから。こんな星も見えない寒い夜なら、少しくらいそばに居たいと思ってもいいじゃないか。
 風呂から上がると、ルチアーノは鼻歌を歌いながら、いつものようにソファに寝床を作っていた。僕の部屋着は、彼が着ると丈が足りない。これもそのうち、彼にぴったりのものにすげ替えられるのだろう。
「ねぇ、ルチアーノ」
「ん? もうアンタの卵プリンは食ってねぇぞ」
 冷蔵庫に大事にとっておいたものを勝手に食べたことは、まだ許していない。その後、お土産と称していろんなお店のプリンを持ってきてくれるけれど、卵の恨みは深いのだ。
「そうじゃなくて」
 さっき包帯を巻き終えた腕を、そっと撫でた。厚いスウェット越しに、しなやかな筋肉の隆起を指の腹で感じながら、鼓動が早くなっていく。この腕は、どんな温度で僕を包んでくれるだろう。名前よりも、年齢よりも、誰かの代わりでもいいから、それが知りたかった。
「……今日は寒いから、ベッドで寝てもいいよ」
「へーえ」
 長い前髪の向こうで、悪戯っぽく細められた瞳が星空のように瞬く。もっと見ていたかったのに、あっという間に距離が縮まって、見えなくなってしまった。するりと頬を撫でられて、肩が揺れる。可笑しそうに笑うくせに。
「誘ってんの?」
 耳元に低く落とされた声が甘ったるいから。思わず息が漏れた。きゅっと握りしめたスウェットに皺が寄る。
「なんてな」
 そう言ってあっさり身を引こうとする彼の腕を掴んで、ぐいと引き寄せた。
「あの、誘ってる……つもり……なんだけど」
「…………」
 おずおずと見上げれば、今度は目玉焼きの黄身くらい目を丸くして、口をポカンと開けている。沈黙が耳に痛い。
「あ……あの……」
 失敗だ。大失敗だ。誰かの代わりでもいいなんて、傲慢すぎて笑えもしないじゃないか。
 勝手に期待して、一人先走って、僕は何やってるんだろう。青くなれば良いのか、赤くなれば良いのかも分からない。とにかく、早く訂正しなきゃいけない。嘘だって。揶揄われた仕返しだって。頭の中ではいくつもセリフが浮かぶのに、ひとつも言葉にできなくて、たまらず俯いた。
「ぶはっ」
 つむじに軽やかな笑い声が降ってくる。ひとしきり笑われて、恥ずかしさで熱くなった頬を、両側からぐいと持ち上げられた。そこまで笑わなくてもいいじゃない。そう抗議しようとしたのに、あんまり綺麗に笑うから、何も言えなくなってしまった。
「すっげーヘタクソ」
 だって、誘い方なんて知らない。そんな言い訳も、薄い唇に絡め取られてしまえば、音になる前に消えてしまう。包まれた腕の中は、想像の何倍も熱くて、このままどろどろに溶けて一つになってしまうんじゃないかと思った。

***

 緩く背中を撫でられるたび、甘い余韻は眠気へと移り変わっていく。まだ熱の残る身体をすり寄せた。狭いから。寒いから。寄り添う理由なんて、それで十分に思える。僕たちは一つにはなれず、相変わらずふたりのままだった。
「……羽根、ねぇんだな」
 ぽつりと、ルチアーノが呟いた。
「当たり前でしょう。人間なんだから」
「……そうか」
 胸におでこをくっつけると、少し早い心音が心地よくて、いよいよ瞼が重くなる。
「なぁ、ミカ」
 どこか懐かしい響きだった。いつか、そう呼ばれていたような気がする。誰かに。誰に。
 硝煙と、血と、香水の香り。キャメルの中折れ帽と、上等なストライプのスーツ。純白の羽根が舞う、鈍色の空。青い目から溢れた涙。もう泣かないで。どうか幸せに。そう願った、いつかの記憶。
 小さな頃に読んだ童話のような、いつか見た映画のような、靄がかかったような曖昧さ。記憶と呼ぶのも危うげなそれは、掴もうと手を伸ばしても、指先が触れる前に泡沫のように消えてしまう。
「どこにも行くなよ」
 背中を撫でる手が熱い。
 どこかへ行ってしまうのはルチアーノの方じゃないか。僕は待っているばかりで。君は心配かけてばかりで。いつも無茶して。傷だらけで。そんなことを取り止めもなく考えながら、瞼はすっかり落ちていた。
 すっと息を吸い込む。
 懐かしさを纏う甘い香りに誘われて、いよいよ深い眠りの海へと落ちていった。