大吉日和

「っし、終わったー」
 大きく伸びをして窓の外を見やった。ブラインドの隙間から差し込む朝日が、ブルーライトに晒され続けた徹夜明けの霞んだ目に眩しい。肩はバキバキだし腰も痛いし、頭も流石にぼーっとしていた。
 また無理な納期押し付けやがって、営業部の奴らめ。とくにあのパリピ営業にはフルコースくらい奢ってもらわないと気が済まない。まぁ徹夜まで至ったのはこっち側のこだわりのせいだし、そのおかげで納得のいくものができたのだが、今そんなことはどうでも良い。
「そっちは?」
「もーちょいっす!」
「俺も、目処はたった」
 相変わらず元気な太一と、その隣では臣が穏やかに笑う。このふたりはどんなに業務が立て込んでも変わらないところが良い。隣のヤツなんて仕事量に比例して菓子の量が増えていくから、甘ったるい匂いに心の底からキレ散らかしたくなる衝動に襲われる。実際堪えきれずにキレてはボスにどやされる日々だ。今回は違う案件を担当していてアイツがいない分、俺はわりと平穏につつがなく仕事を全うした。まぁその結果が朝なんだけど。
 あぁ、辛気臭ぇ顔を思い出したら腹が立ってきた。
「万チャン、家帰るんすか?」
「いや、めんどくせーからこっちで休むわ」
 呼び止めた太一にひらりと手を振って、廊下へ出た。窓の外、眼下に広がるピンク色が眩しくて目を細める。オフィス街の隙間を埋める桜並木は今が盛りと咲き誇っていた。
 柔らかな春の朝日をひとつ吸い込んで、ほっと吐き出した。とりあえず外の空気が吸いたい。ついでにコンビニで食料を調達しよう。肩をぐるぐる回しながらエレベーターへ乗り込んだ。
「……は?」
 エレベーターを降りると、そこにもぞもぞ動くでかい花の妖怪が居た。
 俺の頭、徹夜したくらいでどうした。ゲームやカラオケでオールしてもこんなことにはなんねぇぞ。自分を叱咤して目を擦ってもう一度見れば、大量の花を抱えた人物がゲートに阻まれているのだった。荷物が多すぎてカードリーダーに手が届かないらしい。そりゃ姿さえ隠れるくらいだから、相当異様な光景ではある。
「持ちましょうか、それ」
 ゲートを通らないことには外に出られないわけで、花妖怪(多分同僚)をこのまま放っておけるほど薄情でもない。渋々ではあったが声を掛けた。
「ありがとうございます。お願いします」
 相変わらず姿は見えないが、耳馴染みの良いおっとりした男の声。これは、声をかけて正解だったかも。半分を譲り受ければ、予想通りの見知った顔が覗く。俺の顔を見て頬を緩めて、頭頂部から一房飛び出た毛束がふわふわ揺れた。
「あ、摂津くん。ありがとう」
「月岡さんだったんすか」
 癒し系秘書という肩書を持つ秘書課の月岡さんは、俺にとっても密かな癒しだったりする。フロアが違うし仕事の関わりは少ないけれど、たまに社長からの陣中見舞いだといって菓子やコーヒーを差し入れてくれる。毎回コーヒーの濃さが違って、開発部ではコーヒー占いがちょっとした流行になっていた。苦ければ大吉、とか。
 秘書課といえば芸術的すぎる資料作りで有名な有栖川誉や、その美しさで数多の男女を狂わす美魔女と謳われる雪白東を擁する謎多き部署だ。他にも人型アンドロイドだかアンドロイドっぽい人だかの屈強な男や、マシュマロが無いと三秒起きていられないという睡眠コンサルタントなんかがいるらしい。とりあえずなんか濃い。そんな中で月岡さんはいかにも普通といった佇まいだ。けれど、やはりこの人も秘書課の一員。たぶん、人を安心させるような不思議な力が備わっているに違いない。
「こんな朝っぱらから何やってんすか」
「今日朝一でお得意先の社長がいらっしゃるから、応接室に新しい花を飾ろうと思ってね。いろいろ目移りしてたら選びきれなくて、ちょっと増えちゃったんだよ」
 ちょっとどころの量ではない。業者レベルだ。
「摂津くんは? また残業?」
「っす。さっき終わったとこ」
「そっか。大変だったね。頑張った摂津くんはとっても偉いよ。お疲れさま」
 おつかれさま。たった一言で疲れが身体からパリパリと剥がれ落ちていく気がする。圧倒的癒し。やっぱりこの人は不思議な力を持っている。
「じゃ、行きましょうか。応接室」
「え、出掛けるところだったんじゃないの? ひとりで大丈夫だよ」
 俺は譲り受けた花を抱え直した。
「いやいや、そんなんじゃエレベーターも乗れないし、応接室のドアも開けらんねーっしょ」
「そんなこと」
 当然、ないとは言い切れない。逡巡していた月岡さんは、観念したようにほっと息を吐いた。
「じゃあお願いしようかな」
「っす」
 しっかりしているようでどこか抜けていて、真面目だけどちょっとズレていて、人に頼るのを恐れない人だからだろうか。つい世話を焼いてしまいたくなるのだ。すげー先輩なんだけど。
「ありがとう、摂津くん」
 さっき窓越しに見た桜も霞むほどの微笑みに、目眩を覚えた。季節は春。月岡さんに向き合ったときの、心臓の裏側の柔らかいところがむずむずするくすぐったさは、この季節によく似合う。
「後で何かお礼させてね」
「じゃあコーヒー淹れてくださいよ」
「え、そんなのでいいの」
 今日のコーヒー占いの結果次第では、そろそろこの浮ついた気持ちに名前をつけてみてもいい。そんな気になっていた。
 目が覚めるようなガツンと濃いやつでお願いしますよ、月岡さん。並んで歩く横顔にそっと乞う。
 落ち着くけどむず痒くて、安心するけど走り出したくなるような。奇妙な感覚を飼い慣らすのは楽じゃないけれど、ちっとも嫌じゃないのだから可笑しい。
「何かいいことあったの?」
 覗き込まれた青い目に映るのは、見たことないほど緩み切った俺の顔。
「これからありそうっすね」
「なにそれ」
 変なの。ほんとにな。
 広い窓から差し込む朝日が花びらを照らす。ぼやけた輪郭に滲む予感に、心が躍った。