ラ・ラ・ランドマーク

大きくなぁれ。綺麗になぁれ。歌うように柔らかな声音が、麗かな午後の青空に解けていく。人通りもほとんどない片隅の花壇に愛情を傾けている人間は、この学園でこの人しかいないだろう。
 月岡紬、24歳。着任3年目の国語教師。趣味は園芸。紅茶よりコーヒー派で、猫より犬派。無類の卵好き。
 3年に上がって紬の授業を受けることはなくなってしまったけれど、昼休みには相変わらずここで土いじりに精を出している。
 穏やかで耳馴染みの良い声は、食後の眠気を更に誘ってくるが、万里はひっそりと抗っていた。もっと聴いていたいし、もっと見ていたい。別に土いじりしている背中なんて見ていても、面白くもなんともない。というのは、この人じゃなかったらって話。
 こんなの見てて楽しいの。そう聞かれたのはずいぶん前のことで、その時は曖昧な返事をした気がする。別に、とかなんとか。紬は気を悪くするでもなく、万里がいることを許してくれた。許してくれたというか、そもそもこの場所は万里が先に見つけたから、なんとなく共存していると言った方が正しい。ひとりになりたくて行き着いた場所にふたりで落ち着いてしまったのは、完全に想定外だけれど、なかなか悪くなかった。
 花壇の向かいのベンチに座って、濃いめのコーヒーをちびちび飲みながらぼんやり眺めていると、ぴたりと歌が止んだ。水やりを終えたらしい。こちらを振り返って、紬はふわりと頬を綻ばせた。
「コーヒー、どう?」
「ちょっと濃いっす」
 いつのまにか差し入れてくれるようになったコーヒーは、毎回濃さが違う。計量スプーンは使わない、豪快な目分量。良い豆を使っていそうだからもったいないと思いつつ、今やこれも楽しみの一つとなっていた。
「やっぱり? ちょっと入れすぎたかなとは思ったんだよね」
「だったら味見するとか、湯足すとか、やりようがあんだろ」
「だって君の反応が楽しみなんだもん」
 そんなに屈託ない笑顔を向けられると、はぁそうなんですかとしか言えなくなってしまう。
 土に汚れた軍手を外せば、白くて細い指先が現れる。植物を世話するときはひどく繊細に動くそれが、コーヒーを淹れる時は途端にガサツになるのは、本当に解せない。月岡紬という人には、そういうところが多々あった。
 しっかりしているのにどこか抜けていて、物静かなのに意外とノリが良く、人の話に耳を傾けるけれど意思は曲げなかったり、おっとりしているけれど突然謎の行動力を見せたりもする。そういうところが、知れば知るほど面白いのだ。
「またパンだけ? 栄養、足りないんじゃないの」
 隣に腰を下ろして、紬が眉を顰めた。咎めているわけではなく、本気で心配しているから、どうもくすぐったい。
「これでもアンタよりすくすく育ってんすよ」
「それを言われると困っちゃうなぁ」
「つーかさ、アンタこそ玉子サンドばっか食ってんじゃないすか」
「俺はもう大人だからいいんだよ。それにたまごは完全栄養食だしね」
 そんなに胸を張って言われても。卵に狂ってるところは、流石にどうかと思う。
 風が吹いて、花々が気持ちよさそうに揺れる。うん、綺麗。慈愛に満ちた横顔が綻ぶ。大きな目を縁取るまつ毛の長さにはっとしたのは、いつだったか。クセのない藍色の髪も、緩やかな風に攫われてひらりと靡いた。
 声をかけて大事に世話をしてあげるとね、元気に咲いてくれるんだよ。その言葉通り、こんな日陰でも植物は健やかに育っている。
 昼休みの喧騒は遠く、なんとか押し除けたはずの睡魔が、また性懲りも無く顔を出す。大きな欠伸を一つして、目を瞬いた。
「いた……茅ヶ崎先生と遅くまでゲームしてたんでしょう」
 わざわざ言い直さなくたって、いつも通り同僚を名前で呼べばいいのに。こういうところで教師と生徒の線を引いてくるのが、気に食わない。だから、たまに仕掛けてみたくなるのだ。
「んー」
 飲み終えたカップを端に置きながら気のない返事をして、ぼすんと隣に倒れ込んだ。
「わぁっ」
 ちょっと、摂津くん。困惑が載っても、紬の声はひどく心地が良い。
 もっと困れば良い。戸惑えば良い。ただの生徒のひとりのままで居てやるのは今だけだってこと、もうわかっているくせに。
「ねみー。ここ、貸して」
 適度に低反発な膝枕に、いよいよ瞼が重くなる。
「もう。少しだけだよ」
「んー」
「昼休み終わる前に起こすからね。」
「おやすみ、紬さん」
 初めて呼んでみた名前はひどく甘ったるくなった。眠いからって言い訳じゃ弱すぎるけれど、まぁいいか。
 そろりと触れた手が髪を梳く。花を扱うときのように、繊細に。その指先から伝わるものは、勘違いじゃないと知っている。すっと息を吸い込めば、土とコーヒーの香りが肺を満たした。
 おやすみ、万里くん。苦いコーヒーに入れ忘れた砂糖のような声音。促されるまま意識が遠のいて、万里は穏やかな微睡に身を任せた。