光の届かない深海のような眠りの底から浮上したのは、カーテンを揺らす風が剥き出しの肩にまで触れたからだった。6月に入っても、朝方はまだ冷える。夜遅くまで降り続いた雨はようやく上がったようで、網戸のあわいを埋めた水滴が朝日に照らされて煌めいていた。
纏わりつくシーツを直に感じながら、微かな土の香りをゆっくり吸い込んだ。それから、のろのろと持ち上げた左手を漏れ入る朝日に透かせてみる。真っ赤に流れる熱い血潮は感じられないけれど、とりあえずくっついていてよかった。この手がなくなってしまったら、薬指で淡く光るやさしい銀色もなかったことになってしまう。
食べられたかと思った。ほんとうに。けれど俺は獰猛な肉食獣に捕食される草食動物なんかじゃなくて、俺もたしかに彼と同じ獣だった。窓を激しく打った雨音もかき消すほど近くで聞いた心臓の音。それに折り重なるように肌を合わせた。
君が生きている。君と生きていく。そんな幸福をベッドの中に持ち込んだら、ふたり分の熱ですっかり溶けてしまった。けれどそれは消えたわけじゃなくて。お腹の奥に甘い疼きとなって残っているし、それがなくなってもきっと、血肉となって俺を生かすのだろう。
ダブルベッドの右半分は空っぽだ。そちらに手を伸ばしてみたけれど、ひやりと冷たいばかりで。望んだ体温は、もうそこから抜け出して随分時間が経っているようだった。
いつ眠ったんだっけ。いま何時。今日は何か予定が入っていたっけ。お腹すいた。喉が渇いた。きみはどこ。
ばんりくん。発した言葉はうまく音にならず、枯れ木みたいにカサついていて、窓から吹き込む風にすっかり攫われてしまった。
「紬さん、起きた?」
なんで君はすぐに気付いてくれるのかな。愛おしい声は、コーヒーの香りと一緒にやってきた。身体が重たくて視線だけ声の方に向ければ、深みのある菫色の双眸が気遣わしげにこちらを見ていた。左手にはペッドボトル。常備している常温のミネラルウォーターだろう。
「ばんりく……おはよ」
さっきよりは少しマシな声が出た。けれどやっぱりガサガサで、万里くんは眉をきゅっと顰めてしまう。君のせいじゃないよと笑えば、いよいよ険しい顔。そんな顔しないで欲しい。公演中だったら流石に困るけれど、これは昨日が夢じゃないって大事な証拠なのだ。
何か言いかけて、万里くんはやめた。うん、それで良い。それから大股で近づいてきたかと思うと、あっという間に綺麗な顔が視界を埋めて、ちょこんと唇が触れる。昨日とは違ってずいぶん控えめだから、つい笑ってしまった。
背中を支えてもらいながら上体を起こして、ミネラルウォーターをひとくちふたくち飲み込むと、緩んだ口の端から少し溢れて喉を伝う。それは鎖骨へたどり着く前にぺろりと舐め取られてしまった。こぼれた水の軌道を遡った舌が唇に触れ、さっきよりも少し長めのキスになる。
「おはよ、紬さん」
「ん、おはよう」
頬に添えられた左手に擦り寄った。薬指には俺のより大きくて少し幅が広い指輪が収まっている。俺はまだちっとも慣れなくてこんなにくすぐったいのに、万里くんの指輪はずっと前からそこにいたみたな顔をしていて、ちょっと悔しい。
「腹壊したりしてねぇ? 中の、一応掻き出したんすけど」
そう言われて、お腹をさすってみる。
どうも記憶が曖昧なのは、途中で落ちてしまったからだったんだ。そういえば乱雑に脱ぎ散らかした服はすっかり片付けられていて、洗濯機の脱水の音が聞こえる。
「うん。まだ君が中にいるみたいで落ち着かないけど、痛くはないよ」
「またそういう事を……」
万里くんががくりと項垂れた。なにが。なんでもねぇ。睨みつける目にいつもの鋭さはないし、耳がほんのり赤く見える。ぽわんとした頭では万里くんの言わんとすることがよく分からなかった。
「メシ、食えます?」
「たまご?」
「ん。玉子サンドとミモザサラダ」
こういう朝に、たまご料理が一品増えるのは俺の密かな楽しみだ。にわかに元気になった俺を見て、万里くんが楽しげに笑った。
手を引いてもらって立ち上がる。畳んであった洗濯物の中から適当にとったシャツを着てみたら、なんだかぶかぶかだった。
あ、これ、万里くんのだ。まあいいか。ちょうどパンツも隠れるし。そのままリビングに向かおうとする俺に、万里くんはため息を吐いた。
「はやくおいでよ、万里くん」
「へーへー」
カーテンがまたひらめいて、窓の向こうに抜けるような青空が顔を出した。朝日を吸ってそよぐ髪は輪郭が曖昧になって、蜂蜜を溶かし込んだように淡い光を纏う。長い前髪をかきあげて、万里くんは困ったような嬉しいような怒ったような悔しいような、そのどれとも違うような顔で笑った。
せかいは今日も、しあわせの色であふれている。