光の庭と魔法の靴

夏も盛りの中庭は、生命力に満ちている。
空を仰ぐ植物も、幹を這う虫も、木陰で休む鳥も、頬を撫でる風も、肌をじりじりと焼く太陽も。蝉時雨が降り注ぐこの場所はやはり、自分にとって特別なものだ。
ひとつひとつ、名前を呼びながら如雨露を傾ける。おおきくなあれ、きれいになあれ。おまじないが存外良く効くのは、経験から知っている。贔屓目に見ているかもしれないが、うちの子たちは、実に素直にすくすくとよく育つのだ。
如雨露の先から溢れた水が、足元を濡らす。おろしたての靴は水滴を弾いて、キラキラと瞬いた。完全防水だから安心だろうと、彼が言っていた。脳裏に飴色が揺れ、なんとなく眩しくなって目を細めた。
紬さん、これ使って。7つも年下の男の子はそう言って、この靴を贈ってくれた。俺が元々履いていたのは、ホームセンターのワゴンで投げ売りされていた安物のサンダルで、それとは比べるべくもない。ファッションに疎い俺には、ブランドのことはよく分からないけれど、なんだか洗練されていて格好良いブーツなのだった。確かにサンダルがボロボロになってきたので、そろそろ買い換えようかと思っていたところなのだけれど。
誕生日でもないし、何かお祝いされるようなことはなかったはずなのに、何故。貰ったけどサイズが合わないからと、彼にしては下手な嘘をついて、俺はそれに騙されることにした。その方が彼が笑ってくれるだろうと思ったからだ。
案の定、つり気味の眉が優しい弧を描いて、俺は正しい選択だったと満足したのだった。

中庭の、特に日当たりが良い一角でコスモスが揺れる。開花までまだ時間がかかるけれど、草丈は随分高くなってきた。その力強い成長が頼もしくて、少し怖い。もっとゆっくりでいいんだよ。そんな独りよがりな思いがほろりと零れ、地面に落ちた。そのぬかるみにそっと足を乗せてみる。
例えばこれは魔法の靴で、かかとを3回鳴らせば好きなところへ連れて行ってくれるかもしれない。藁のかかしも、ブリキのきこりも、臆病なライオンだって此処にはいやしないのに、そんなことを考えた。新しい靴はなんとなく気持ちを浮き立たせて、いつもと違う行動を起こしてみたくなるものだ。
とん、とん、とん。控えめに、かかとを鳴らしてみる。目を閉じる一瞬、一切の音が遠のいて、光の中に浮遊する感覚を味わう。ゆっくりと目を開けると当然身体が浮き上がることはなく、相変わらず俺は蝉が唄う中庭に佇んでいた。少し感傷が過ぎたかもしれないなとぬかるみに足を浸しながら苦笑した。

「紬さん、なーにやってんの。」
突然、声が空から降ってきた。少し掠れていて優しくて暖かくて心地良い声。見上げると、二階の手摺にもたれかかって楽しそうにこちらを見ている桔梗色の瞳と行き会った。さらりとした長めの髪が太陽光を惜しみなく浴びてキラキラと閃く。
「み…見た?」
「見た。」
子供っぽいところを見られてしまってなんだかいたたまれない。
「お務めはもう終わりっすか?」
「うん。今終わったところだよ。」
「じゃあこれからカフェ行きません?ちょっと遠いけどいー感じのとこ見つけたんで。」
「へぇ、万里くんのおすすめなら間違いないね。いいよ、準備してくるから、談話室で落ち合おう。」
「りょーかい。」
ヒラヒラと手を振ってレッスン室に消えてゆく後ろ姿はしなやかで綺麗でまだ少しあどけない。
ゆっくりでいいよ。なんて思いながら、誰よりもその成長を待ち遠しく思っているのは俺なのかもしれない。大きくなあれ。おまじないは存外良く効くのだと知っている。開花を待つコスモスが陽だまりの中、訳知り顔で佇んでいた。