玄関の鍵が開く音がした。それから扉が開くまで、ゆっくり深呼吸ひとつ分ほど。それで、今日は随分お疲れなんだってことが分かる。
出迎えには行かず、ソファでそっと近づいてくる足音に耳を澄ませた。
大学を卒業した万里くんは、舞台だけでなくモデルや映像の仕事にも精力的だ。板の上が居場所だと思い定めた彼は、そこへ持ち帰る学びをひとつだっておろそかにしない。そんなところを尊敬しているし、頼もしくもあるけれど。
オーバーワーク厳禁って、いつも君が言ってるのにね。
ローテーブルに台本を置いたのと同時に、ただいまの声が聞こえる。振り返ってソファ越しに、おかえりのキス。それから言葉でもおかえりなさいと囁いた。コツンと額を合わせて、鼻を擦り寄せて。唇にかかる息がくすぐったいから、もう一度とキスを強請った。
「お風呂、沸いてるよ」
「ん、あざす」
そういいながらも、万里くんはなかなかそこから動かない。艶を無くした毛先が蛍光灯に透けて見えた。
ほっと息を吐いたのは、ちょっと嬉しかったからだ。君のために、俺にもできることがある。俺にしかできないこと、かもしれない。それはとても幸福だと思う。
「はい」
両手を広げて見せると、万里くんは一瞬目を丸くさせた。それからへにゃりと眉を下げて、ふはっと笑う。
ぼすんと大きな身体を受け止めた。いや、実際は受け止めきれなくて、ソファに沈んでしまったのだけれど。大型犬に懐かれてる気分なんて言うと、へそを曲げてしまうかもしれないから黙っておこう。
とにかく、君が甘えたい気分みたいでよかった。ちょうど俺も、君を甘やかしたくて仕方がなかったんだ。
「つっかれた~」
炭酸が抜けたサイダーみたいな声音が、胸元に落ちる。ぎゅうと抱きしめて、それから頭をぽんぽんと撫でた。
「お疲れ様。よく頑張ったね」
後ろ髪を丁寧に梳く。いつもサラサラな髪が、今日は少しだけ指先に絡まった。
「あのオッサン、マジでありえねぇ。人の話全っ然聞かねーし、つか口挟む隙もねーし」
万里くんは今、映画の撮影中だ。有名な監督が手がける新作ということで、世間でも注目を集めている。以前万里くんが天馬くんと共演したドラマを見て、天馬くんの事務所経由で監督から直々にオファーが入ったらしい。
カンパニー内でもかなりの大騒ぎになったけれど、当の万里くんは焦ることも驕ることもなく、まぁ盗めるもんは盗んでくるわ、と笑っていた。
派手なアクションシーンがウリというだけあって、撮影も相当ハードなのだろう。しかも監督は作品とは別に、その激しい性格とワンマンぶりでも有名だった。怒鳴られるだけならましで、灰皿を投げられることも日常茶飯事だと聞く。日々消耗して帰ってくる万里くんを見るに、噂は本当かもしれない。
「けど、やっぱ持ってくる演出プランはすげーわ。俺には思いつかないことばっかで、勉強になる。流石にそのまま舞台で使えるもんは少ないけど、次の公演でいくつか試してみてえ」
「ふふっ」
「何すか」
「頼もしいなぁって」
少しもめげていないどころか、食らいついて全部吸収して、カンパニーに還元してやるという気概まで見せてくれるところ。眩しくって堪らない。
つむじに唇を落とすと、愛おしい大きな塊がもぞりと動いた。
「まだ全然足りねぇ」
そんなくぐもった声に苦笑を零しつつ、背中をするりと撫でてみる。
イージーじゃない道を颯爽と駆け抜けていく頼もしい背中も好きだけれど、俺は君のありのままが大好きだ。肩甲骨のゴツゴツした感触を指で感じながら、そんなことを考える。恥ずかしいから口には出せないけれど、この指先から伝わってしまったかもしれない。
不意に上げられた、惚れ惚れするほど整った顔。鋭利な印象を持たれがちな切長の目が、柔らかに細められる。きっと君の熱心なファンも知らない。俺だけに向けられる眼差しの穏やかさに、きゅっと胸が軋んだ。
万里くんは俺の心が読めるのかもしれないと、どきどきすることがある。エスパーかよ、なんてさ。君も人のこと言えないでしょう。キスしたいなぁと思った時には、もう唇が塞がっているんだもの。
なのに、ちょこんと触れた熱はすぐに解けて消えてしまうから、意地が悪い。名残惜しくて、もっと欲しくなってしまうじゃないか。
立ち上がった万里くんを非難を込めて見上げれば、その目元に同じ熱を宿しているのが分かった。
夜の長さを知っている身体が、ぞくりと震える。
「なぁ、紬さん。風呂上がったらさ」
「お風呂、ゆっくりで良いよ」
万里くんの言葉を遮ってから、立ち上がる。腕を取り、少し背伸びをして、内緒話をするように耳元に唇を寄せた。
「俺も、準備しておくから」
「……秒で出る」
その言葉が出るまでにたっぷり五秒はかかっていて、つい笑ってしまった。上機嫌の俺を一睨みした万里くんは、低い声で「覚悟しとけよ」と言い置いて、バタバタとバスルームへ消えていった。
望むところだよ。今日は、俺がうんと甘やかしてあげるんだからね。