泡沫の夜を食む - 1/2

大人ってのは、何かと理由をつけて飲みたがる生き物らしい。
 誰かの誕生日、新公演の決起会に千秋楽後の打ち上げ、いい芝居を観た日、仕事がうまくいった日や、反対に何も良いことがなかった日。メンツはその時によってバラバラで、けれどその中で、意外とあの人の参加率は高い。酒が強そうには見えないから最初は意外だったけれど、監督ちゃんや丞さんと熱い演劇論を戦わせているところは、すっかり見慣れた光景になっていた。
 万里くんとお酒を飲める日が楽しみだな。真っ赤な頬を緩めてぽやぽや笑う。その少し濡れた唇にキスしてぇなと思ってしまったのはいつだったか。
 自由登校になって、制服を着ることもほとんどなくなった。そんな、高校生から片足抜け出したような俺は、相変わらず子どもの方に分類される。アルコールの匂いを纏う紬さんは、容赦なくそれを突きつけてきた。
 あと二年。大人の階段ってやつは意外と長い。
 ふたりの間にあるのがコーヒーだけじゃなくなった時、俺たちはどんなふうに変わっているだろう。カフェ友。バー友。あるいは。
 名前がない関係は心地良い。そう言ったあの人が大人なら、ふたりの関係に名前をつけたい俺は、確かに子どもなんだろう。

「うっわ……」
 風呂上がりに談話室に入ると、今日も今日とて酒盛りしている大人たちがいた。時刻は二十二時。夜更けというには早い時間だ。それなのに、すっかり出来上がっているというか、出来上がりすぎているというか。
 人数とテーブルに並び立つ酒瓶の数がどうにも合っていなくて、これは関わり合いにならない方が良いやつだと本能的に察した。
 冷蔵庫のミネラルウォーターを取ったら、さっさと自室に引き篭もることにする。
「お、いいところに。へい、タクシー」
 気配を消して通り過ぎようとしたところを、至さんに呼び止められてしまった。タクシーを呼び止める時の動作で。酔っ払いのくせに目敏い。
「誰がタクシーだ。つーか、目ぇ据わってっし。東さん、飲ませすぎじゃねーすか」
「ふふ、楽しくなっちゃって、ついね」
 頬杖をついて妖艶に微笑む東さんは、至さんと対照的に素面そのものといった具合だ。カンパニー随一の酒豪の名は伊達ではないらしい。
「東さんが用意してくれる酒、どれも美味しいから」
「万里も大人になったら一緒に飲もうね」
 大人になったら。大人ってのは、こうやってすぐに線を引いてくる。意識的に、無意識的に。
「へーへー、楽しみにしてますよ。で、なんすか」
「これ、部屋まで送迎よろ」
 指差す先に、グラスを握ったまま突っ伏している藍色の頭が一つ。微動だにしないその頭頂部から飛び出たくせ毛も、今はどこか元気がない。
 今日参加しているのは完全に予想外だった。明日は朝からカフェ巡りの予定が入っているからだ。早起きは苦手なくせに、酒飲んで大丈夫かよ。
「……飲ませすぎ。マジで」
「ふふっ、ごめんね。ちょっとだけって言ってたんだけど、つい」
 ついうっかりで何人の劇団員を沈めるつもりなのか。悪びれない美貌に肩を落とす。それにしても。たまたま通りかかったとはいえ、俺に声がかかるのは珍しい。この人の隣には大抵、幼馴染がいるからだ。
「丞、出かけちゃってんの」
 俺の心を読んだように、至さんが補足した。
「みんなこんな感じだし、ボクたち非力だから」
 ぐるりと周りを見回せば、誉さんは泣き上戸モードに突入し、密さんは黙々と酒とマシュマロを交互に口に運び、斜めに傾いた左京さんは、ほとんど目が開いてない監督
ちゃんから酌を受けている。左京さんのゆるゆるの顔面を見て、頬が引き攣った。監督ちゃんの酌が相当嬉しいらしい。
 仲間の見てはいけない一面にそっと目を逸らし、視線を戻したところで、至さんと東さんが二人してにこりと微笑んできた。顔が良い自覚がある人間の笑顔には、断れない圧がある。
「はぁ、しょーがねーなぁ」
 回り込んで、まずは手からグラスを剥ぎ取った。ほんのり赤くなっているが、指はひやりと冷たい。
 緩くカーブした爪は、短めに切りそろえられていた。紬さんは、意外と男っぽい手をしている。キスしたいなんて思う前から、この手が好きだった。
 カップを持って口に運ぶ仕草。台本を捲る動き。考え事をするときに、下唇をなぞる癖。そして、板の上の紬さんは、この指先までいっぱいに誰かの魂を宿す。綺麗だと、思った。
「紬さん、おーい、起きろー」
 次に肩をゆすった。華奢に見えても成人男子。意識のない状態で二階まで運ぶのは骨が折れるから、できれば自分で歩いてもらいたい。
「紬さーん」
「んん……」
「部屋、戻るぞ」
「んー。……たーちゃん」
「は?」
「あるけない。……はこんで。はい」
「はぁぁぁ?」
 目は瞑ったままでの、抱っこしてポーズ。運ばれていることに慣れたその仕草に、爆発した。あの、紬さんを軽々とお姫様抱っこした、幼馴染に対する対抗心が。
「ぶはっ。あっはは!たーちゃんだって。まさかの幼馴染に間違われてる」
「おいそこ、笑いすぎ」
「頑張ってね。たーちゃん」
「東さぁん」
「たーちゃん、はやく」
 まともな大人はもうここにはいなかった。そして、俺は負けず嫌い。否、負けることなんてありえねぇ男だった。
「クッッソ」
 覚悟を決めて、相変わらず両手を広げて待っている紬さんを担ぎ上げる。
「きゃーお姫様抱っこ!万里、格好良い!」
 酔っ払いどもの茶々を無視して談話室を出て、中庭を歩きながら、冬組の部屋が一階じゃないことを呪い、階段のあたりでウェイトトレーニングのメニューを増やすことを心に誓ったのだった。
 冴える冬の夜にこんなに汗だくになって、馬鹿みたいだ。
 そんな当たり前に思い至ったのは、二〇四号室のドアが閉まったときだった。
 どうにも力が入らなくなって、ドアに背を預けて、ずるりと座り込む。腕の中では、酔っ払いが健やかな寝息をたてていた。ひとの苦労も知らないで。
 チクタクと時を刻む音が、やけに大きく聞こえた。
 朝が弱い紬さんは、目覚まし時計を三つ持っている。早朝稽古や公演日以外、例えば、足を伸ばしてカフェ巡りするときも、全部しっかりセットしているらしい。遠出の約束をした日、待ち合わせの五分前に談話室に現れた紬さんは、自慢げにそう教えてくれた。あのときは後頭部についた寝癖すら愛おしく思えて、さすがに笑えたっけ。
「んん……」
 艶を帯びた唇が、誘うように薄く開いた。胸に吐息がかかって、そこだけじんと痺れたように熱い。
 外を車が通るたび、格子状の光の筋が現れては消える。
 長いまつ毛が、柔らかな頬に濃い影を落としていた。
「紬さん、紬さん」
 もう起きろ。まだ起きるな。ふたつの気持ちが入り混じって、名前を呼ぶ声は密やかな宵闇に溶けていく。暗がりに潜む前髪を掬えば、また小さく声が漏れた。
「ば……りく……」
 自惚でも、聞き間違いでもなかった。紬さんが俺を呼ぶ声音を間違えたりしない。何度も何度も聞いた、穏やかで柔らかな、耳に馴染むその声を。
 落ち着くと思ったそれに落ち着かなくなって、落ち着かないのにもっと聴きたくなった。もっと欲しくなった。声だけじゃなくて。
 そっと近づけば、夜がいっそう深くなる。
 前髪がほの白い頬に触れた。腕に力を込めて、抱き寄せて。
 吐息がかかる。時計の音がどんどん遠ざかっていく。その代わりに、発生源の不確かな心音が、ほのかな甘い香りを纏って部屋中に響いた。
「……クソッ」
 その時、またもや厄介な感情が顔を出した。負けてたまるか、と。俺はとことん負けず嫌い(以下略)だった。
「起きろよ、この酔っ払い」
「……ふぎゃっ」
 鼻をつまむこと数秒。じわじわ苦悶の表情を広げた紬さんが、がばっと飛び起きた。
「万里くん!? なんで」
「おはよ、紬さん。さすがにロフトまで運ぶの無理なんで、自分で上ってくださいよ」
「え、……あ、えーと」
 酔っ払いらしく、いつもより頭の回転が遅い。しばらくあたりをキョロキョロと見回していたが、状況を把握したらしく、しょぼしょぼと肩が小さくなっていく。頭頂部のくせ毛 は、やっぱり元気がない。
「ごめんね。部屋まで送ってくれて、ありがとう」
「どういたしまして」
 謝罪だけじゃなくて、律儀に感謝を伝えてくれるところが好きだ。だから構いたくなるし、年上相手なのに、謎の庇護欲のようなものが芽生えてしまったりもする。
 梯子を上るのを手伝って、布団をかけてやった。布団が冷たいとぼやきながらも、枕元の時計はすべて綺麗にセットされていく。明日の約束を忘れているわけではないらしい。
「水、取ってくる。あとウコンのパワーも」
 飲酒前より効果が落ちようが、飲まないよりはましだろう。二日酔いの緩和になるなら、すでに筋肉痛になりそうな足でもう一往服するくらいは容易い。
「ねぇ、万里くん」
 ドアノブに手をかけたところで、呼び止められた。
「しないの、……キス」
 思わずその場に座り込んだ。大人ってのは、何かと理由をつけて飲みたがる生き物だ。そして、何かと酒を理由にする生き物でもある。乱暴に頭を掻いて、深くため息を吐いた。
「されたかったんすか」
 振り返れば、狡い大人は高いところから、こちらを見下ろしている。答えることもできないくせに、こんなふうに煽って、本当にタチが悪い。
「したら、アンタは困るんじゃねーの」
「そうだね。すごく困ると思う」
 紬さんは掛け布団に鼻まで埋めて、とろんとした目を細める。それから、いかにも困ったように眉をハの字に下げた。いつものアンタなら、もっと上手く演じられるのに。
 大股で近づいて、梯子を上った。
 本当は、とっくに答えなんて出てる。アンタも、俺も。
 そして、そんなことはお互い分かっていた。それでも核心に触れないのは、紬さんが大人で、俺が大人ぶっていたいからだ。
 布団を剥がして、手を伸ばす。柔らかな頬に触れれば、気まぐれな猫のようにすり寄ってきた。残念ながら、そんな可愛いもんじゃねぇけど。
「明日になったら、ちゃんと忘れたふりしてくださいよ」
「うん」
 ほうと吐いた息が手のひらにかかる。その熱に急かされるまま、薄く開いた唇に口付けた。一度、二度。三度目は紬さんから仕掛けてきた。
「すげぇ甘い匂いすんのな」
「さっき、チョコレートのお酒、飲んだから」
「へぇ」
 こんな熱烈なチョコレートを貰ったのは初めてだ。甘くて、苦くて、クセになって、もっと欲しくなる。なんだかおかしくて、笑えてきた。
「万里くん?」
「なんでもねーっす」
 覚えていても、いなくても。紬さんは今日温存した演技力を遺憾無く発揮して、明日には本当になかったことになるのだろう。
 だからこれは、成り行きとか、なし崩しとか、流されたとかじゃなくて、宣戦布告だと思うことにした。あいにく俺はいい子ではないし、大人ぶっていたいだけの、ただのガキだからだ。
 逃がすつもりなんてない。いつまでも、このままでいるつもりも。
 覚悟しとけよ。そんな言葉を舌先に乗せて、もう一度、甘い唇を食んだ。