長い指が空をかく。求めるものに行き当たらず、万里が不機嫌そうに顔を上げた。アイスコーヒーのグラスをすっと差し出すと、菫色の双眸が久しぶりに紬をとらえる。
「あざっす」
短く礼を言うと、視線は再び分厚い本に吸い込まれていった。
紬は苦笑して、白磁のカップを傾ける。ぬるくなったコーヒーは、苦味が際立った。
手元の台本に目を落とせば、時折、ページを捲る音がぱらぱらと聞こえてきた。向かいに座る勤勉な大学生は、明日までに仕上げなければならないレポートがあるそうで、かれこれ1時間ほどこの調子である。
高校生の頃、勉強している素振りなど微塵も見せずにゲームに勤しんでいた彼が、真剣にレポートに取り組む姿は新鮮で、微笑ましくて、誇らしい。
二人でカフェ巡りを始めて1年も経てば、お互い遠慮もなくなってくるものだ。人前で努力を見せることを良しとしない彼が、自分の前でこんな姿を晒してくれることが嬉しかった。
他の人には見せないでほしいなんて、ずいぶん欲深いことを考えるようになったのは、いつからだろうか。ふと湧いてくるこの感情は、いつも名前が付く前に、急いでコーヒーと一緒に飲み干してしまう。
そろそろおかわりを頼もうかと店員を呼ぶと、万里が視線も上げずにケーキが食べたいと所望する。本当に遠慮がなくて、笑ってしまった。
彼が糖分を欲するのは珍しいから、行き詰まっているのかもしれない。ホットコーヒーを二つと、チーズケーキとチョコレートケーキを一つずつ追加で注文した。
ほどなくしてケーキが運ばれてくると、万里は潔く本が閉じ、大きく伸びをした。
「お疲れ様」
「ん」
労いの言葉に、眉を下げて口許を綻ばせた。ずいぶん優しい顔を見せてくれるようになったものだ。紬もつられて微笑んだ。
「紬さん、どっち食う?」
「どっちも食べたいなぁ」
「ふはっ、強欲。んじゃ半分こな」
半分こ、なんて、彼に似合わない言葉だ。そう言うと、アンタがよく言ってるから移ったんだと、決まり悪そうにぼやいた。
こうして、ふとした瞬間に二人で共有してきた時間を実感する。その度に胸が甘く疼いて、たまらなくなるのだ。運ばれてきたばかりのコーヒーはまだ熱くて、舌がぴりりと痛んだ。
「ん、こっちも美味しいね」
「だろ?」
暫く他愛ない話をしながら、ケーキをつつきあった。言葉は荒っぽいが、彼の所作はいつも洗練されている。特に、流れるような指先の動きはとても綺麗だ。こちらの皿からチョコレートケーキをひとかけ取り、口へ運ぶ。その仕草ひとつだって、映画のワンシーンのようで、つい目を奪われてしまう。
「なんか付いてる?」
「ううん、なんでもない。万里くんは食べ方が綺麗だよね」
無遠慮な視線をぶつけてしまった。誤魔化すようにそう言うと、万里はにやにやと意地悪い笑みを浮かべた。
「紬さんはこの前、ミルフィーユぼろっぼろにしてたな」
「う、お恥ずかしい」
「アンタ、役に入れば器用に振る舞えるからさ、エチュードやりながらだったら上手く食えんじゃねーの」
「あはは、ミルフィーユ食べるのが上手な人のエチュードって何」
面白そうだから、今度付き合って貰おう。いーっすよ、と気さくに笑うその表情はやはり優しくて、ついとそらした視線は、まだ湯気が残るコーヒーに行き着いた。
「なあ、紬さん、マイムのコツ教えて」
ケーキをあっという間に平らげて、再び本の虫となった万里が、ふと顔を上げた。
「なに、レポート?」
「そう」
勉強熱心で良いことだ。台本をテーブルに置いて、スタンダードな壁のパントマイムを座ったまま披露する。
上半身だけでも表現できることがある。壁を触ったときの筋肉の動き、衝撃の表現、視線、指先。教えることが好きなうえ、それが芝居のこととなると、つい熱が入ってしまう。万里が相槌を打ちながら熱心に聞いてくれるから、尚更だ。
「こんな、感じで」
「おぉ、すげぇ。やっぱ上手ぇな」
「あはは、ありがとう」
早速実践するところも、良い生徒だと思う。
「こう?」
「そうそう、そんな感じ。万里くん、やっぱり器用だね」
二人の間に、あっという間に30cmほどの壁ができた。水族館の硝子のようだ。だとしたら、魚は果たしてどちらだろうか。
「はは、ほんとに壁があるみてぇ」
壁越しにばちりと目が合う。いつもならすぐに逸らしてしまうのに、透明の壁がそれを容易にはさせてくれなかった。桔梗色の虹彩が、雨上がりの水滴を帯びたように煌めいた。
ついと、腕が伸ばされる。
分厚い壁は呆気なく消滅し、温かな右手が紬の左の手のひらに重なった。
思っていたより、ずっと大きな手だ。すっと伸びた指は、紬の細い指先よりもいくらか長い。
爪の先まで綺麗だなんて、神様はずいぶんこの子を愛したのだろう。綺麗だなとぼんやり考えていると、遠くの方からきれいだなと聞こえた。知らずに入っていたカップのヒビから、じわりとコーヒーが滲み出すように。それがどちらから漏れたものなのか、わからなかった。
「魔法使いの手だ」
「……ロマンチックだね」
ああ、早く、飲み下してしまわなければ。溢れてしまう。
「なぁ、紬さん。今から俺が言うことに、絶対『YES』って答えて欲しいんだけど」
彼にしてはずいぶん弱気な前置きだったが、言葉と裏腹にその目は逸らすことなどできない熱さで紬を焼いた。
右手ですがるように掴んだコーヒーカップは、もう空だった。