ガガガッ。大層な音をたてて車がのろのろと駐車場から出ようとするのを、万里はとっさに右手で制した。
「紬さん、サイドブレーキ」
「あっ」
運転席を見やると、強張った頬に朱が差す。
一旦パーキングに戻すと、眉間に寄ったシワが弛緩して、深呼吸をひとつふたつ。
そんなに緊張されるとこっちが緊張するんですけど。そんなことを言おうものなら、固まった身体はさらにガチガチになってしまうから、腹の底に無理矢理押し込めた。流石にまだ命は惜しい。
「はい、リラックスリラックス~」
万里は引き攣った紬の左頬を引っ張った。
身体は固いくせにやわやわとしてよく伸びる頬は、万里の「紬の好きな部位ベスト3」に常にランクインしている。まぁどこもかしこも好きなのだが、語りだしたらキリがないのでここでは割愛する。
「ひっはんあいえよ、わんいくん」
くすぐるよりマシだろうとにやりと笑うと、じっとりとした視線が投げらる。そしたらぶつかるよと不穏な事を言うので、両手を上げて降参のポーズをとった。
運転歴は免許を取ったときと、学生時代に演劇サークルの合宿に行ったとき以来という、絵に描いたようなペーパードライバーは、清水の舞台から飛び降りん勢いで、ホームセンターまで車で行くと宣言した。タイムセールで半額になる肥料を大量に買い込みたいのだそうだ。
相変わらず経理係の審査は厳しく、ここで必要なものを揃えておかないと予算オーバーになってしまうらしい。
運悪く運転手たちは全員不在。たどたどしい手付きで幼馴染にLIMEを送り、なんとか頼み込んで、車のキーを獲得した紬は、保険は入ってるから大丈夫だよと全然大丈夫ではなさそうな力強い言葉を残して、ひとりで出掛けようとしたのだった。
一歩踏み出した紬の左手と左足が同時に前に出たのを見てしまった万里は、謎の使命感にかられて同行を申し出た。まだ免許がない万里に運転手代行はできないので、完全に戦力外だが、それでも紬は申し訳なさと安堵がないまぜになった表情でありがとうと笑ってくれた。
左車線を走行する丞の愛車は、法廷速度ぴったりで目的地を目指す。
運転は一度覚えたら忘れないというが、確かにそうらしい。滑り出しは、まあ、その、アレだったものの、その後はわりと順調だった。
信号が赤になる度に深呼吸し、青に変わる度に「よしっ」と気合いを入れるのが気になったが。
「次の交差点左折な。その後右折するから右車線に入っておいた方が良い」
「……」
もうひとつ。全然喋らない。
よろよろと左折した車は指示通り、右車線に入った。聞いていないわけではないようなので、単純に返事をする余裕がないのだろう。
手持無沙汰でカーオーディオをつけると、ラジオから女性ボーカルの軽快なバンドサウンドが流れ出す。そういえば、スピーナッツの新曲が出ると雑誌で読んだ。万里は耳に残るサビを、なんとなく鼻歌で辿った。
「はい、これで終わり、っと」
「ありがとう、万里くん。助かったよ」
お目当ての肥料と園芸用品を大量に買い込み、後部座席にすべて積み終わる頃にはじっとりと汗かいていた。
差し出された缶コーヒーをありがたく頂戴し、万里は店の片隅にポツンと置かれたベンチにどかっと腰かける。
「ま、残念ながら、今の俺にできるのはこれくらいだかんな」
「ううん、ナビもしてくれたし。それに一人だと心細かったから」
引くくらいガッチガチだったもんな。隣にちょこんと座った紬がコーヒーを煽った後、情けなく眉尻を下げる。
「久々に運転するとすっごく緊張するんだよ」
「ふーん、そんなもん?」
「そんなもんだよ。万里くんは運転上手そうだよね」
「それってアッチが上手いって褒められてる? ……うぉっ」
にやにや笑う万里の脇腹に、紬の拳がどすんと一発お見舞いされる。
「昼間から猥談禁止」
否定はしないところが可愛い。耳が赤いところも可愛い。
本当はこのままホテルに直行したい。が、秒で却下されそうだ。
「ま、俺なんでも出来るから、運転も楽勝っしょ」
今、俺に免許と車があれば。入学準備やら公演やらでバタバタしていて叶わなかったが、やはり春休みのうちに教習所に通っておけば良かった。
万里は不純すぎる動機で、夏休みになったら絶対に免許を取ろうと心に決めた。
「万里くん、次どこで曲がるんだっけ」
帰り道、多少慣れてきたらしい紬がスムーズに車を駆る横で、万里は車で行きたいところリスト作成に勤しんでいた。
「あ、わりぃ紬さん。さっきのとこ右だったわ」
「え、どうしよう。どこでリカバリすれば良いかな」
精度の落ちたナビは、あたふたする紬を他所に、目的地までのルートを変更する。
「んー、とりあえずまっすぐ行くか。慣れてきたみたいだし、せっかくなんでドライブデートして帰りましょ」
「えぇ、俺早く帰りたい。この緊張から解放されたい」
「まあまあ」
交代で運転できた方が行動範囲が広がる。この人にももうちょっと運転に慣れてもらわないと。
万里は助手席に身を沈め、リスト作成の続きに取りかかった。