はじまりの花

内階段をゆっくり上ってバルコニーへ出ると、乾いた風が秋の匂いを纏って頬を撫でた。日中は相変わらず茹だる暑さが続いているのに、季節はしっかりと歩を進めている。手応えや実感がなくても、季節が移ろうように、そうやって年を重ねて行くのかもしれない。
 片隅に探し人を見つけて、静かに歩み寄る。濃紺の髪と長い睫毛がすっきりとした鼻梁に濃い影を落としていた。近づいても視線を手元に落としたまま、こちらに気づく気配はない。
 手の中には小さな赤茶色の花が一輪。確か、中庭のベンチの近くに咲いているものだ。チョコレートの匂いがすると甘党どもが騒いでいたから、なんとなく覚えている。親指と人差し指で摘んだそれをくるくると回す様は、どこか憂いを帯びていた。
「つーむぎさァーん」
「あ、万里くん」
 紬はぱっと顔を上げて万里の姿を確認すると、ほっと息を吐いて頬を緩めた。
「今日の主役がこんなところに来て、どうしたの」
「アンタこそ、今日の主役放っておいて、何してんすか」
「あはは、ごめんね。今日はカフェに行ってたくさん君の時間を貰ったから、あとはみんなに譲ったほうが良いかと思って」
 謙虚な恋人は、酒気を孕んだ赤い頬を緩めてふわふわ笑う。時間貰ってんのはこっちなんだけど。そう張り合うのも、もっと欲しがってくれていいのに、と拗ねるのもガキっぽい。どちらも口にするのをやめて、丸テーブルを挟んで、向かいの椅子に腰を下ろした。
 カフェでもこうしてふたり向かい合って座ることが多いから、この位置はしっくりくる。最初はたまたま鉢合わせて相席になっただけで、何を話せば良いのか分からずに気まずい思いをした。それが誘い合って出かけるようになって、一緒にいると落ち着くなんて思うようになって、よく分からない感情は次第に輪郭を持って、気付いた時には真っ逆さま。落っこちてしまえば、そこからは笑えるほどにがむしゃらだ。紬相手の恋は、ふたりで過ごす時間の穏やかさと裏腹に、平坦でも単調でもなかったから、なりふりかまっていられなかった。
 大人の階段上ったねと、随分高いところから言われて、早く大人になりたいと焦ったこと。君にはもっと良い人がいるよと突っぱねられて、絶対に捕まえると決めたこと。やっと好きだと言ってくれて、抱きしめたい衝動を抑えられなかったこと。今日は帰りたくないと消えそうな声で強請られて、初めてふたりきりで迎えた朝、柄にもなく泣きそうになったことも。 
 芝居と出会って色付いた日常は、紬と過ごす中で、その彩度を増した。鮮やかな日々に一片ずつ重ねた想い。すっかり一人で抱えきれなくなったそれを、そろそろこの人にも渡してやろうかという気になっていた。
「大人の階段ってやつ上ったんで、アンタに言っとくわ」
 紬の手の中の小さな花を摘み上げる。鼻先に近付ければ、たしかに甘い香りがした 
「二十歳になったからって、べつに何か変わった実感はねーけどさ、選択肢は増えるし、やれる役の幅は広がると思う。大学もそうだけど、これからいろんな出会いがあってさ、刺激受けることももっと増えんだろ。十年後どうなってるかなんてわかんねぇ。アンタはそれを怖がってんだろうけど、これだけは断言できる」
 手の中の小さな花に、託せる想いなんてどれほどあるだろう。だからこれはただの、二十歳になったばかりのガキの決意表明だ。
「俺は板の上に立ち続けるし、アンタのことも絶対離さない。俺は芝居とアンタっていう、これ以上ないもん二つも見つけちまったんで、もう他に目移りしてる暇なんて無いんすよ。芝居も、俺自身も、まだまだだって自覚してる。まぁ、それくらい歯応えねーとやる気出ねーからさ。これからも全力で食らいついてく。そんで、アンタに追い付いて、アンタの隣に立つ」
 恭しく左手を取った。どんなものも生み出してしまう、魔法の手。その手にすらまだ掴めない、芝居という魔物。そんなやっかいなものに魅入られたのはアンタだけじゃないってこと。
 赤茶の花を細い薬指にするりと巻き付けた。
「そん時には、ここ、俺が貰うから。覚悟しといてくださいよ」
 生花の指輪は思いのほかしっとりとそこに収まる。覗き込めば、紬は唇を引き結んでいた。それからぱたりと俯いて肩を震わせる。
「——っふは、あはは」
 泣いているのかと思えば、吹き出してけらけら笑い始める。万里はどっと恥ずかしさが込み上げてきて、がしがし頭をかいた。
「そんな笑うとこかよ? これでも真面目に……あークソ、恥っず……」
「ははっ、ごめっ。あのね、万里くん。この花、チョコレートコスモスって言って。花言葉はね、恋の終わり、なんだよ」
「はぁ? 縁起悪ぃ! そういうことは早く言えよ。やっぱ今の無かったことにして。仕切り直す」
「ダメだよ。もう予約受け付けちゃったから、キャンセル不可」
 受け付けてくれたのかという感動と、どうにもしまらない失態に、万里の頬が歪む。そんな万里を他所に、紬は左手の薬指と小指の間に挟まったコスモスを愛おしげに撫でている。
「悲しい花言葉だなって俺も思ってたんだけど。万里くんを見てたら、恋の終わりには、また新しい何かが始まるのかもしれないなって、そう思えてきて。そしたら嬉しくって、つい笑っちゃったんだ」
「何かって?」
「あ、愛……とか?」
「……」
「あはは、俺も恥ずかしいこと言っちゃった」
 赤くなった頬を冷まそうと、パタパタ煽ぐ手を捕まえて、ぐいと引き寄せた。唇を寄せれば、目蓋を閉じて当たり前のように受け止めてくれる。ふわりと降り積もる幸福に身を委ねて、万里も目を閉じた。薄い唇の中はひどく熱くて、言葉にならない感情だってゆるゆると溶かしてくれることを知っている。
 年を重ねて、二人の関係を深めて、いつかその先に恋の終わりがあるとして。そこから見える景色が、その時隣に立つこの人が、穏やかであれば良い。そんな淡い感情の名前は、きっとこれからふたりで知っていくのだろう。
「でも俺、まだ当分は万里くんと恋していたいなぁ」
 離れた口がそんな可愛いことを言うから、もう一度塞いでやった。
「んっ……万里くん、これ以上は」
「へーへーわーってますよ」
 寮内では過度な接触禁止と言うけれど、だったらそっちこそ自重して欲しい。
「ここじゃ嫌だから、……こっそり抜け出そうか」
 恨めしげに睨むと、紬は顔を近付けてとんでもない耳打ちをしてきたのだった。ぽかんと口を開けて固まった万里に、悪戯が成功した子供のように無邪気に笑いかける。
「くっそ。絶対負けねぇ」
「これ、なんの勝負?」
「うっせー。零時過ぎにいつものコンビニ集合な」
「はいはい」
 紬は、内側に飼っている情動を少しも感じさせない静かな笑顔を見せた。その目元が少し赤いこと、湖水の目が潤んでいることは、見なかったことにしておいてやろう。大人の余裕ってヤツで。
 ひらひらと手を振って、階段を駆け下りる。ちらりと中庭を見やれば、ベンチの側で、はじまりの花々が秋風に揺れていた。