1.この夏の先には、大人になった彼が待っている
太陽が容赦なく土を焼き、その熱さに負けず手塩にかけた植物たちが青々と夏の盛りを謳歌する。そんな中庭に降り注ぐ蝉時雨が今日はささやかなBGMと化していた。
「おい太一、マシュマロ流すんじゃねぇ!」
「だって左京兄ぃ!密さんにやれって!!」
「こら幸!オレのそうめんまで取るな!」
「はぁ?アンタがポンコツだから一本も掬えないだけでしょ」
「さんかく〜」
「わわ!すみー!それ流しちゃいけないさんかく!」
丞とガイさんが作ってくれた竹の流しそうめん台を囲んで団員たちがわいわい騒いでいる。三角くんはどんなさんかくを流しちゃったんだろう。おにぎりかな。少し伸びをしてみたけれど、ここからはよく見えなかった。
「お庭番長は木陰で優雅に休憩中?」
マシュマロが流れる台からはけてきた至くんが隣に腰を下ろした。
「うん。至くんはもういいの?」
「ひきこもりにあの日差しは致命傷。推しイベ終わるまで死ねないからね。避難避難」
「おしいべ?」
推しのイベント、と略さずに言われてもやっぱりよく分からないけど、きっと至くんにとってはとても大事なことなのだろう。スマホの上で忙しなく動く指をしばし見つめる。それはよくカフェで見るあの子の動きと重なって、つい息が詰まってしまった。
「だーからおめーに食わせるそうめんはねーっつってんだろ!俺の川下で哀れに飢えてろ、雑魚兵頭」
「あぁ?んだとコラ」
「やんのかゴラァ」
俺がよく知る穏やかさなんてかけらもない荒々しい声に、つい視線がそちらへ流れる。一際騒がしい一帯では万里くんと十座くんが胸ぐらを掴んで睨み合ったかと思うと、取っ組み合いの喧嘩を始めた。周りも慣れたもので二人が持っていたプラスチックカップやお箸は早々に避難させられているみたいだ。
臣くんの姿が見えない。仲裁役不在でどんどんエスカレートしていく二人に、そうめん台壊すなよと丞が呆れている。仲裁してあげれば良いのに。じゃないと、ほら。
「お前らうるっせーぞ!黙って食え!!」
「ぁだっ!!」
「いってっっ!!」
うわぁ、痛そう。間に入った左京さんの容赦ない鉄拳が飛んでやっと二人が大人しくなる。それもいつもの光景だった。
「あはは、あの子たちの関係は変わらないねぇ」
溢れた声には、ついモラトリアムを愛おしむような響きが混じってしまう。至くんはぱちぱちと何度か瞬きして、そうだねといかにも自然に相槌を打ってくれた。そういう彼の間合いの取り方がとても好きだ。
夏はどうもセンチメンタルになっていけない。きっとこのくらくらするほどの暑さに心が追いつかないからだ。とくに今年の夏は。
あんたがすきだ。そう言った万里くんは、コーヒーから立ち昇る湯気の向こうから真っ直ぐに俺を見た。18歳になったばかりの彼はまだ制服を着ていたっけ。怖いものなんて何もない、その眩しさに目がくらみそうだった。
俺はありがとうとだけ言った。何か言い募ろうとした万里くんは結局何も言わず、それからまたゲームを始めて、俺は小説の続きを読みながら、いつもよりゆっくりコーヒーを飲んだ。
少し遠回りして寮に帰る道すがら、繋がれた手の熱さを忘れられないでいる。
万里くんは俺の怖さを置いてけぼりにしなかった。
その一年後、19歳の万里くんはもう制服を着ていなかったけれど、また同じ場所で同じ言葉を俺にくれて、俺もまた同じ言葉を返した。ふたり同時に吹き出して、笑い合う。俺たちの関係にまだ名前はない。確かな名前を持たないまま、俺たちはカフェを巡り、街角でエチュードをし、人目を盗んで手を繋いだり、ごくまれに唇を重ね合わせたりもした。
なんでもない宙ぶらりんな関係はひどく歪で心地が良い。
俺が核心に触れないのは大人だからで、彼が核心に触れないのは大人ぶりたかったからかもしれない。
「ぼーっとしてっけど、大丈夫すか?」
思考の渦に飲み込まれていた意識が浮上する。目の前には心配そうな万里くんがいた。しなやかな筋肉がついた身体は、出会った頃より一回り大きくなったような気がする。
「あれ、至くんは」
隣に居たはずの至くんの姿が見えず、きょろきょろと周りを伺っても、どこにも見つけられなかった。
「エアコンついたとこがいいって部屋戻ってったじゃないすか。マジで大丈夫かよ。気分は?悪くないっすか?熱中症とかなってない?」
「うん、大丈夫だよ。ありがとう」
まじまじと覗き込まれて、距離の近さについ後ずさる。その胸元に抱き込まれた時の甘い匂いを思い出してしまったからだ。ふぅんと小さく呟いて、納得したとは言い難い表情のまま万里くんがぽすんと隣に腰を下ろした。
「これ、食います?」
「いただきます」
差し出されたソーダアイスを恭しく受け取った。冷凍庫から出して間もないはずなのに、汗をかいた袋から取り出したアイスは既に溶け始めている。空色の塊をしゃくしゃくと噛み砕くと、甘く冷たい夏が身体にじわりと染み込んた。通り過ぎる風が運ぶのはぷかぷか浮かぶ厚い雲とどこかの家の風鈴の音とお線香の匂い。
「うーん、夏だねぇ」
「ははっ、じーさんみてぇ」
大変遺憾ながら、彼は時々俺を年寄り扱いする。子ども扱いすると不機嫌になるくせに。
「あ」
「ん?」
「垂れてる」
何がと声を出す前に、手首を捕らえられていた。溶け出したアイスが親指と人差し指を伝う。薄く開いた唇から真っ赤な舌がちらりと顔を出して。
「うひゃっ」
親指を付け根から先端までべろりと舐め上げられて、思わず声が溢れる。さっと手を離した万里くんがカラカラと笑った。
「ははっ、色気ねぇ声」
軽口に反してその視線はあまりに熱い。火照った頬を冷ますために、残りのアイスにかぶりついて一息に飲み込んだ。
「もう、こんなとこ見られたらどうするの」
「誰もこっち見てねぇって。ほら、今スイカ早食い大会白熱してっから」
確かに、万里くんが顎で指した先では十座くんと九門くんの兄弟対決が大いに盛り上がりを見せている。
「万里くん、大人をからかわないでよ」
「大人ねぇ」
一度虚空を仰いだ万里くんが静かにこちらに向き直る。
「俺も、来月にはその大人ってやつになるんすけど」
「うん」
知ってるよ。なんでも二段も三段も飛ばして器用にこなす君が芝居と真摯に向き合って一歩ずつ着実に進んできた月日を。
「二十歳になったらオトナになれるって思ってるとこがガキなんだって至さんに言われた」
「うん」
不服そうに視線を逸らす君は至くんが言うようにまだまだ子どもみたいで、でもそんな君を俺はもうとっくに子どもだなんて思えなくなっているんだ。
「けどさ、やっぱ二十歳は社会的に大人なわけで、そしたら俺はもう大人ぶる必要はないと思ってんの」
「うん」
「だから俺は、アンタが否定するアンタを、全力で肯定してやることにする」
万里くんが不敵に笑う。18歳の万里くんでも19歳になったばかりの万里くんでもない、また新しい君が垣間見えた。ああ、君はどこまで強く美しく成長していくのだろう。それを隣で見ていたいと浅ましく願ってしまう俺を、俺は許しても良いのだろうか。
「覚悟しとけよ、紬さん」
「…うん」
コクリと頷く。万里くんは目を白黒させた後、ため息をついて、ほんとに分かってんのかよとぼやいた。うん、分かってるよ。
「あ」
「え、どうしたの?」
今度は流石に身構えた。みんなが集まった中庭でこれ以上何かされては心臓がいくつあっても足りない。
「それ、当たり」
「わ、ほんとだ」
それ、と指さされたのはまだ手に持ったままのアイスの棒だ。その先端に「あたり」の文字を見つける。
「ん、幸先良さそうな気がするわ」
「当たったの、俺なんだけど」
「まーまー、細けぇこと気にすんなって」
一陣の風に攫われて、ミルクティ色の髪が閃いた。19歳の檻に棲まう美しい獣はひっそりと鍵が開くその時を待っている。新しい季節を思って、俺は名残惜しむように盛夏の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。