シンフォニア
さっきまで確かにそこにあったはずの温もりが、名残惜しさを伴いながらじわじわと消えていく。
「やっぱキスしとけば良かったかな」
「へぇ、しなかったんだ」
静寂に落ちるはずの独り言を拾われて、ぎくりとした。戸口に目をやれば、大きなエコバッグを二つも抱えた紬さんが立っている。
なんだ、この浮気現場を目撃されたような気まずさは。いや、俺は手ぇ出さなかったからセーフ。マジで清廉潔白。やましいことは一切していない。
「来てたみたいだね」
「お、おぅ。今帰ったとこ」
今しがた別れた姿と背格好は変わっていないが、その声音は歳を重ねた分、清涼感の奥に潜んでいた色気が滲み出して、甘い響きを持っている。
空になったコーヒーカップをちらりと見て、変わらない青い双眸が柔らかな弧を描いた。
「ただいま」
エコバッグをカウンターに置いて、流れるように腕が背に回される。躊躇なく預けてくれた身体の重みを受け止めた。
「おかえり」
少し下から潤んだ瞳が蠱惑的に誘う。顔を傾けて近付ければ、薄い唇が開いて俺を受け入れた。思う様貪ってほっと一息つくと、紬さんがクスクス笑い始める。
「なんだよ」
「いや、君の真面目さと理性に感心してるだけ。それとも、同い年の俺じゃ君には物足りなかったかな」
「いやいやいや、すげぇ可愛かったっすよ。けどやっぱさ、アンタであってアンタじゃねーからな」
俺にとっての紬さんは、何考えてんのか分かんなくて、危なっかしくて、目が離せない、七つ年上のこの男だ。
「ふふっ。万里くんのそういうところ、俺、好きだな」
「そりゃドーモ」
「俺はちょっと期待しちゃったけどね」
さらりとそんなことを宣うものだから、ため息が漏れた。「新婚早々に勘弁してくれよ、この浮気者が」
「だって、同い年の君ってすごく大人で、格好良くて、新鮮だったから。それに夢だったとしても、そんな機会なかなかないじゃない」
褒められて悪い気はしないが、どうせ良い経験になるっていう別の下心もあったのだろう。
演劇バカというのは、どうにも好奇心が強くていけない。何でもかんでも芝居の糧にしようとする悪食っぷりには、今まで何度も振り回されてきた。
二人の関係に危機が訪れた時だって、この男はそれすら芝居に昇華しようとしていたのだ。もちろん全力で抗ったし、この人が離そうとした手だって絶対に離さなかった。選び続けてやると、証明してやると、約束したからだ。
そうして今、紬さんの左手薬指には、俺のものより一回り小さい銀色が収まり、俺の姓は月岡になった。
「あれからもう七年も経つんだね」
紬さんがどこか遠くを見つめながら、頬を緩めた。
絶対アンタも気にいる。そう豪語して紬さんをこの店に連れて来たのは、七年前の今日のこと。
前の店主のこだわりらしく、ネットやタウン誌に一切情報が出ていない上、大通りからも外れていたから、この店の存在には長年気付かなかった。
見つけたのはたまたま通りかかったからだ。確か三角にさんかく探しに駆り出された時だったか。
当時、店の前には看板すら出ていなかったが、軒先に三角形のガーランドが掛かっていて、ふと足を止めたのだった。
後日一人でふらりと入った店内は、こだわりの調度品とゆったりした間取りと、溢れる緑が印象的で。ここならあの人のお眼鏡にかなうだろうと思ったし、向かいの席に座って目をキラキラさせている姿が容易に想像できた。コーヒーの品揃えも申し分なく、味も及第点を優に超えて、その予感は確信に変わった。
ついでに、もしここでもう一度想いを告げれば、あの頑固者も絆されてくれるんじゃないかって、淡い期待を抱いたものだ。
結果は期待通りというか、俺の一世一代の(実際には三回目だが)告白は、ようやく実を結ぶことになったのだった。
二人で出掛けることにデートという新たな名前が付いてからも、大学卒業を機に寮とは駅を挟んで反対側にあるマンションの一室で二人で暮らし始めた後も、何度もこの店に通った。
なんでもない日も、特別な日も、窓際のソファ席で向き合ってコーヒーを飲む。そうしていつしか、この店で過ごす時間は、俺たちの生活にすっかり溶け込んでいた。
通い始めて七年目の今年に入って懇意にしていた店主が店を閉めると言った時、紬さんは強い意志を持って俺が引き継ぐと言い出した。
また突拍子もないことを、と思いつつ、言い出したら聞かないのは昔からだ。それになにより、あらゆる懸念よりも面白そうだという好奇心が勝った。その結果、俺は止めるよりもその計画に乗っかることにした。
役者というのは好奇心が旺盛で、どんなことでも芝居の糧にしたいものだ。つまり俺も、この人と並ぶ演劇バカだった。
幸い、カンパニーにはバー経営をしているガイさんや、鬼経理の左京さん、手伝いを買って出てくれる頼もしい奴ら、いつでも俺たちの背中を押してくれる監督ちゃんがいる。
ちょうどリーダー会議でもアクターズカフェの拠点が欲しいという話になっていたから、タイミングも良かった。
もちろん紬さんの熱意はホンモノで、それが一番の決め手になった。カンパニーの手厚いバックアップを受けて、無事に店を引き継ぐ算段がついたのが、春先のことだ。
そして、この人が決心したのはそれだけではなかった。悔しいことに。
何度目かの打ち合わせの後だった。帰り道の途中でふと立ち止まった紬さんは、「万里くん、結婚しようか」と、今日の晩御飯はパスタにしようくらいの自然さでプロポーズをしてきて、俺の硬いはずの涙腺を崩壊させたのだ。
ホテル最上階の夜景が見えるレストランとか、給料三か月分のエンゲージリングとか、歯の浮くようなセリフとか。そんなもんじゃなくて良いから、自分からプロポーズしたかった。
予約しておいたのは俺の方だぞ。
どこまでも狡ぃんだよ、アンタは。
涙の止め方が分からず、後から後から溢れてくるのをそのままに睨みつけた俺を見て、紬さんはいたずらっ子のように笑ったのだ。俺だって男だし、それに俺の方が年上だしね、と言って。先を越された上に泣かされたことは、まだ俺の中で燻っている。
キッチンにまわってエコバッグの中身を片付けていると、紬さんはカウンターのカップを洗いながら、そういえばと切り出した。
「来週、幸ちゃんがこっちに帰ってくるんだって。だからみんなで集まろうって、カズくんから連絡があったよ。万里くんの予定も聞かれてるんだけど、土曜日、空いてるよね?」
紬さんには、サプライズで俺のバースデーパーティーをやると一成から連絡が入ってるはずだ。もちろん紬さんはその事に触れなかった。天馬と違って嘘が上手いのは昔からだ。
「午前中は仕事入ってっけど、午後は空いてる」
「うん。じゃあ、連絡しておくね」
「あざす」
俺も昔から嘘を吐くのは苦手じゃない。午前中に仕事を入れてないことも、本当のサプライズはそれじゃないことも、紬さんは気付いていないだろう。
いよいよリベンジの時が来た。
結婚式をやろうと提案してくれたのも一成だ。ふたりの関係について、カンパニーのやつら全員にちゃんと伝えたのはプロポーズを受けてからだったが、何人かには寮を出るときに話してあった。左京さんや監督ちゃんには二人で。俺は秋組には言わなかったが、紬さんは冬組全員に伝えたらしい。
一成には、その時俺から伝えた。
天美で世話になったというのもあるし、もう気付いていると確信していたからでもある。案の定、一成は承知していたし、聞けばかなり早い段階で気付いたらしい。
そういえば付き合い始めてすぐに何故か学食のスペシャル定食を奢ってくれたことがあった。訝しむ俺に、ちょっと良いことがあったから、なんて言いながら。あれがアイツなりの祝い方だったのだと思い至った時は、胸が熱くなった。
一成は、俺たちの関係を興味本位で問いただすこともなく、揶揄うこともなく、こっそり見守ってくれていたのだ。
カンパニーの仲間に、俺たちの関係を否定するやつはいないと思っていたけれど、どこかで受け入れられないかもしれないという恐れもあった。秋組に伝えなかったのは単に照れ臭かっただけだが、ルームシェアという名目にしたことに、そんな理由が全くなかったとは言えない。
そんな中で、寮を出た後も何かと世話を焼き、気にかけてくれる一成の存在は、ひどく心強かった。
もちろん俺たちの恐れは杞憂に終わり、結婚報告を済ませた後、寮はお祭り騒ぎになったわけだが。その時一成が、漸く心置きなく祝福できることが嬉しいと涙目で人懐こく笑って見せるから、こっちも釣られて、また柄にもなく泣きそうになった。
まったく、紬さんのせいで俺の涙腺はおかしなままだ。
サプライズがしたいという俺の意図を汲んで、UMC(ウルトラマルチクリエイターだっけ?)は最高のブライダルプランを提案してくれた。寮の中庭での人前式は、神様に誓うよりもずっと俺達らしくて良いと思った。
「お、ワイン買って来たんすか」
二つ目のエコバッグは店用ではなく、家用のものだ。そちらには赤ワインとチーズやオリーブといったつまみが入っていた。
「うん、今日はふたりでお祝いしようと思って。東さんのおすすめだよ」
来週末、幸が作ったウェディングベールを被って大泣きする予定の花婿は、そんなことも知らずに得意げに笑う。
「そりゃ間違いねぇな。じゃあ、あの肉でも焼くか」
「善さんの? うん、いいね」
自宅の冷蔵庫には、善さんからご祝儀代わりにもらった塊肉が鎮座していた。月岡のばーちゃんから貰った漬物も、クリームチーズと和えれば立派なワインのつまみになる。それに、摂津家からの救援物資(いらねぇって言っても聞く耳をもたないのだ。主に姉ちゃんが)には、トマト缶があったはずだ。
「あとは……パスタとリゾット、どっちが良い?」
「パスタかな」
「おけ」
「って、俺が作るよ。君は誕生日だし、ゆっくりしてて」
「んじゃ、一緒に作ろ。アンタはサラダ担当な」
それって千切って盛り付けるだけじゃない。年甲斐もなく不貞腐れていたけれど、卵料理一品追加で納得していただけたらしい。そっちの方が俺の労力は増えているわけ だが、紬さん相手には、卵を引き合いに出しておけば大抵のことは丸く収まるのだ。
片付けと明日の仕込みを済ませて、店を出た。すっかり日が傾いて、白い壁はオレンジ色に染まっている。
外階段から上がった二階の居住スペースが、今の二人の城だ。二人寄り添って生きていくにはちょうど良い1LDK。広めのベランダには、手塩にかけて育てられた植物が、今日も揺れている。
冬組から結婚祝いで贈られたワインセラーにワインを入れ、善さんからもらった肉は、冷蔵庫から出しておく。常温に戻したら、オーブンでじっくり焼くことにしよう。ちなみに、やたら高機能なオーブンは、秋組から臣のレシピ集と一緒にもらったものだ。
キッチンに並んで立てば、隣から鼻歌が聴こえてくる。涼やかな音で紡がれるのは、最近俺がハマっているプログレバンドのロックナンバー。憂いと焦燥をかき鳴らす激しいギターリフが、今や幸せの音色となって瑞々しいレタスの隙間に落ちていく。
まな板と包丁の刻むリズムも、鼻歌に調和して陽気に弾む。寮を出て間もない頃は、あの賑やかさが懐かしくなったりもした。けれど、二人で奏でる日々の音色は、そんな感傷すら穏やかに溶かしていくことを知った。
みじん切りにした玉ねぎや刻んだニンニクにさえ、目に見えないけれど確かなものが宿っているように思えて、なんだか可笑しくなってくる。
「ふはっ」
「ふふっ」
ほぼ同時。こらえきれないというように、隣で紬さんが笑った。
「なんすか」
「そっちこそ」
その横顔は、初めて恋を知った天使のようにも、愚直で不器用で、けれどどこまでも愛情深いただの人間のようにも見える。
たまらなくなって肩を寄せれば、心得たようにこちらを振り仰ぎ、紬さんは眩しそうに目を細めた。繊細に伸びた睫毛の先まで少しの偽りもなく、陰りもなく、幸福で満ちている。
少し背伸びして差し出された唇を、やわりと食んだ。
「なぁ、紬さん」
「うん?」
「パスタ茹でんの、後でもいい?」
「まぁ、夕飯にはまだちょっと早いしね」
悪戯っぽく細められた目尻に、薄く皺が寄る。相変わらずの童顔で、いよいよ年齢不詳。それでも確かに重ねた時間があった。
ソース作りを放り出して、踊るようにベッドに絡れ込む。引越しを機に新調したキングサイズは、ふたり分の重みを軽々と受け止めた。
シーツに縫いつけた手がきゅっと握り返される。この手を離さなかったのは、離したくなかったのは、たしかに俺だけじゃなかった。
微かな光のような、祈りにも似たそれに名前を付けるなら。
「紬さん」
「あいしてるよ、ばんりくん」
だからなんでアンタが先に言うんだよ。壊れたままの涙腺が、また緩んでしまう。
ぐっと堪えて口角を無理矢理引き上げた。
「知ってる」
「あはは、そっか」
するりと解いた手を眼前に翳して、紬さんは噛み締めるようにうんと頷いた。西日がブラインドの隙間から差し込んで、約束を象った銀の輪が眩しく煌めく。
確かな約束なんてないけれど、俺は俺の全力で生涯をかけて守り通す。それは別に大げさな決意ではなく、この人と過ごす時間の中で、自然とそう確信しただけのことだった。
「君は、言ってくれないの」
「言わないとわかんねぇ?」
先を越されて、つい意地悪な物言いになってしまう。けれど、紬さんは少しも気にしていなかった。そりゃそうだろう。確信犯だから。
そんな余裕、今のうちだからなと内心で毒づいた。
「そんなことないけど。たまには言葉にするのも大事じゃない」
言葉足らずで、散々俺を振り回してきた口がよく言う。
「じゃあ、よーく聞いてくださいよ」
身を屈めて、耳元に口を寄せる。覚悟しろよ。そんな意気込みで、すうっと息を吸って、それから。たった一言、五文字の言葉にありったけを込めた。
「…………」
「…………」
「…………」
「いやいや、アンタが言わせたんだろ。何照れてんだよ」
紬さんは両手で顔を覆って、物言わぬ貝になってしまった。自分から仕掛けたくせに、耳も首筋も真っ赤に染まっている。人のこと、案外照れ屋だよねなんて揶揄うくせに。ていうか、そんな反応されるとこっちまで恥ずかしくなってくるじゃないか。
細い手首を掴んでも、存外力が強くて顔を曝け出すことはできない。一体どんな顔で照れてるのか。レアな顔、見せてくれてもいいんじゃねぇの。
「うぉーい、つむぎさーん」
擽ってやろうかと考えていたら、ばんりくんと、くぐもった声が名前を呼んだ。その声音が不恰好に揺れているから、手を止める。
天の岩戸のごとき両手が解けて、真っ直ぐにこちらを射抜いてくる瞳が艶やかに濡れていた。
「ありがとう。ずっと離さないでいてくれて。俺を、選び続けてくれて」
さっき送り出した姿が重なって、ぎゅっと強く胸が締め付けられた。繋がっている。確かに、今この瞬間に。
形あるものはいつか壊れる。
壊してしまうのは自分かもしれない。
そんな恐れを抱いた人を、臆病だとは思わなかった。それでも手を取りたがった人を、傲慢だとも思わなかった。
ただ、どうしようもなく愛おしかったのだ。
「愛してるよ、紬さん」
「う……、さっき聞いたよ」
へにゃりと眉を下げて、もう良いですお腹いっぱいですと白旗を振る。ずいぶん少食じゃないか。
「じゃあ今度はカラダにしっかり教え込んでやんねーと」
「万里くん、すっかりおじさん臭くなっちゃったね。昔はあんなに可愛かったのに」
「うっせーわ。アンタこそ最近体力落ちてね? そんなんじゃ板の上で死ねねーぞ」
ムードのカケラもなく、お互いの服を剥いでいく。
シャツやパンツがフローリングに落ちていく音、シーツの擦れる音、素肌に指が触れる音、二人分の心音。その全部が連なっていく。
第二楽章の始まりにふさわしい、緩やかな音楽だ。
ひとつにはなれないから、抱き合える。ひとつにはなれないけれど、同じ温度になっていく。そんな幸福を分け合って、これからもふたりで生きていく。
秋の気配がうっすら漂う九月九日。ベランダの花々がオレンジ色に照らされて、まばゆいばかりの未来を讃えるように密やかに揺れた。