2.幾億の星を飲み込んで
「シャンパンには2億の泡が閉じ込められているんだよ」
泡を星に見立てて、シャンパンを飲むことを「星を飲む」と表現することもあるとかなんとか。東さんからの受け売りを披露した紬さんは、ちょっとロマンチック過ぎて恥ずかしいねと笑いながらフルートグラスを掲げた。
黄金色の液体がきらきら光と戯れる。シロップのような甘い見た目に反して辛口のそれは、向かいに座るこの人にどこか似ている。アンタがこの黄金色だとして、やっぱり2億の泡に内側から揺さぶられたりするんだろうか。
ぱちぱち弾けるそれの名前が芝居だけじゃないといい。幾度か重ねた唇の記憶に追いすがって一口含むと、咎めるようにしゅわしゅわと無数の星が喉を胸を容赦なく焼いた。
8月下旬はMANKAI塾が盛況で紬先生を捕まえられず、9月頭はこっちがゼミ合宿で不在にしていたから、こうして二人きりになったのは久しぶりだ。それが誕生日当日だったのは巡り合わせが3割といったところ。紬さんにとって今日という日が免罪符になり得るのではないかという、期待というには汚い打算は心の内に確かにあった。
観劇帰りの紬さんを天鵞絨駅前で待ち伏せて、あれ、万里くん何してるのなんて言う暇さえ与えずに、今しがた出てきたばかりの改札を半ば引きずるように通って電車に乗った。時刻は17時。恒例のバースデーパーティーは19時開始で、さすがに主役が不在にするわけにいかないから、それまでに寮に戻る必要がある。つまりはたった2時間、3駅だけの逃避行。紬さんはというと、突然攫われて驚いてはいたものの拒まれることはなく、むしろ楽しんでいるようにも見えた。
二人だけの秘密を作りたがるのはいつだってこの厄介な大人の方だ。
あんたがすきだ。この場所でそう告げたのは18になったばかりの頃。確信があった。勝算もあった。けど、そういうもんをこの人はいとも容易くひっくり返して、コーヒーから立ち上る湯気の向こう側でありがとうと綺麗に笑った。そっから先、言おうとしてせり上がってきた言葉たちは舌の上を転がってまた腹の底へと落ちていく。喋らせ上手は黙らせるのも上手なんだと知った。それでも。臆病なアンタが見せた綻びを、俺は見逃したりしない。
あの日繋いだ手の熱さを忘れられないでいる。
ほつれた糸を手繰り寄せ縫い合わせるように、俺たちはカフェを巡り、街角でエチュードをし、人目を盗んで手を繋いだり、ごくまれに唇を重ね合わせたりもする関係になった。同じ劇団の仲間でも、リーダー同士でも年の離れた茶飲み友達でもない。名前を持たない関係はひどく歪で、それゆえに紬さんは絶対手放したりしない。だからそれでもいい、と思おうとしたのは19の頃。
そして今、目の前では紬さんがコーヒーの代わりにグラスを傾けている。上機嫌でくふくふ笑う紬さんは既に耳までほのかに赤い。甘そうなその頬を齧ったらどんな味がするだろう。頬杖をついてぼんやり考えていると、グラスの脚に乗せた右手に細い指先が触れた。
「考え事?」
指を絡めるとひくりと肩を揺らす。アンタから仕掛けてきたくせに。
「どーしたら紬さんが俺のもんになってくれんのかなって」
背の高い観葉植物に隠れた片手だけの逢瀬。以前なら飲み込んだセリフもアルコールを纏った舌からなら簡単に吐き出すことができた。紬さんの頬に濃い影が落ちる。この人のまつ毛が意外と長いこと、あの距離感がおかしい幼馴染は気にも留めないんだろう。
「万里く…」
「なぁ、紬さん」
諌めるような声を無視して手の平を返し、親指で中指と薬指の間を撫でる。守りたいもの。手放すべきもの。見ないふりをしたもの。それを振り払えない業の深さまで。その輪郭を丁寧に辿った。
「俺は紬さんが欲しいし、紬さんだって俺を欲しがってるってこと、もう認めてもいーんじゃねぇの。アンタが怖がってることも背負いこんでるもんも全部ひっくるめて、俺にくれよ」
ずっと見てきた凛とした背中を想う。
「アンタがすきだ」
「…あ」
ありがとうと綺麗に笑った大人はもういない。代わりに、無垢な子どものように澄んだ目がこちらに向けられていた。
紬さんはグラスを煽って、三分の一ほどに減ったシャンパンを一気に飲み干した。ほぅとついたため息と、飾り気のない笑顔。
「あーあ、すっかり逞しくなって。万里くんは大人の階段上っちゃったんだな。寂しいなぁ」
「あーあって…ふはっ」
ちっとも寂しくなさそうに笑うから、つられて笑ってしまう。
「万里くん、あのね」
掴んだ手はするりと解かれて、居住まいを正した紬さんは真っ直ぐにこちらを見据えた。板に上がった時のような、熱と静謐さを併せ持った目だ。
「俺はカンパニーに入る前にお付き合いしてた女性がいたんだ。好きだったし良い関係を築けていて、いずれこの人と結婚するのかなって思ったりもして」
過ぎた日を愛おしむような口調に、胸の奥がジリジリと焼かれる。
「でも結局俺は芝居の道を諦められなくて、仕事を辞めて彼女ともお別れしてここに来た。そのことに後悔は無かったけど、どこかで負い目があったんだと思う。俺は仕事も恋人も捨てて芝居を取った男だ。だから、芝居以外のことに心を傾けてはいけない。そんな風に思ってた」
何もかも捨てて芝居をしに来た男。最初の頃は兵頭を追って来ただけの俺とはあまりに違いすぎて、なんとなくこの人の前に立つのがどうも落ち着かなかったもんだ。
「でも、俺は出会ってしまった」
そして芝居を始めた動機なんて関係なく接してくれるこの人が、ずいぶん不思議に思えた。
「摂津万里くん」
あまりにも優しい響きに、名前を呼ばれたのだと気付くのがずいぶん遅れた。
「っていう、芝居が好きで賢くて格好良くて一生懸命で口は悪いけどとっても優しい男の子に。万里くんは俺がいらないって捨てた感情を拾いあげて、大事に育てて俺に渡してくれた。それが嬉しくて、でもそんな俺を俺は許しちゃいけなかった。万里くんは優しいから、俺を否定も肯定もしない。俺は狡くて、その甘いぬかるみの心地良さに嵌ったまま抜け出せなくなっちゃったんだ。何度捨てようとしても出来なくて、蓋をしても溢れてきて、その度にどうしようもなく思い知るんだ。俺は君が欲しいんだって」
紬さんは眩しそうに目を細めている。
「ねえ、万里くん。俺は芝居と万里くん、どっちも選んでしまっても良いのかな」
それから、穏やかに許しを乞うた。そんなこと、とは思わない。この人は臆病で狡猾でけれどどこまでも実直なのだ。
「大事な芝居と同列で考えてくれんのは大変光栄なんだけどさ、それっておかしくねぇ?俺もアンタと同じ穴のムジナなんだからさ、芝居の中に俺はいるし、俺の中にも芝居があんの。切っても切れねーの。どっちにしろアンタは両方から離れらんないだって。ほら、めちゃくちゃお得だろ」
「あはは、うん。お得だね」
紬さんは確かにと朗らかに笑った。ばんりくんと、透き通った声が俺を呼ぶ。
「だいすきだよ」
今すぐ抱きしめたいとかキスしたいとか、そういうのを全部吹っ飛ばして、結局出てきたのは「そ…っスか…」というなんとも格好つかない言葉だった。
「ねぇ、もう一回乾杯しようよ」
「なんで」
「いいからいいから。はい」
促されてフルートグラスを掲げ合う。
「改めて、お誕生日おめでとう、万里くん」
「っす」
グラスには大人と呼ぶにはまだまだの若造が映っている。2億の星々の向こうに見えるこの人だって、まだ発展途上なのだ。そんな当たり前の発見に鼻の奥がツンと痛い。それは紬さんも同じみたいで、なんだか可笑しくなって二人でけらけら笑った。