カーテンコール。降り注ぐ拍手の雨の中で、純白の大きな羽が揺れた。
「本日はMANKAIカンパニー特別公演『天使を哀れむ歌』をご観劇いただき、誠にありがとうございました」
幸せな最期を迎えた天使は息を吹き返し、晴れやかな笑みを浮かべて、広いホールを隅々まで見渡す。客席を埋める後輩たちの心に、彼の、彼らの全身全霊がどれほど届いただろう。少なくとも俺には。丸く迫り出したステージに注ぐ視線の熱さを、上手く隠せそうにない。制服ではなく、着慣れないスーツの胸元をぎゅうと握り込んで、万里は静かに息を吐いた。
「紬と丞が同じ舞台に立っているの、やっぱり実際にこの目で見ると、感慨深いなあ」
隣で保健医が、変わらない美貌で微笑んだ。そっすか。ぼやけた返事をしながら、意識はなおも彼に引き付けられたままだった。
中央に立つ紬が、隣の長身を仰ぎ見て強く頷いている。丞はいつかGOD座のチラシで見た煌びやかなそれとは随分違う、穏やかな笑みで頷き返した。その表情はどこか紬に似ていて、二人が共に過ごした多くの時間と、互いに寄せる信頼を滲ませている。4年の歳月が長いのか短いのか分からないけれど、あの人が掴み取った居場所は、とても暖かいのだということは分かった。
「いい時期に実習が重なって良かったね」
ねぇ、摂津先生。東がこちらを見て悪戯っぽく笑った。大学4年生になった万里は、母校で教育実習の真っ最中だった。相変わらず健在の年齢不詳の保健医は、何かと万里の世話を焼いてくれている。
「演劇部、いつの間に復活してたんすか」
紬と丞の両サイドに並ぶのは現役の演劇部員たちだ。高揚を隠しもせず、頬を赤らめている姿が微笑ましい。
「あの、紬の隣に立ってる子が、新生演劇部の初代部長だよ」
その背の低い部員は、演技の拙さはもちろんあるけれど、芝居が楽しくて仕方がない気持ちや、この公演にかける意気込みは痛いほど伝わってきた。
「あの子、MANKAIカンパニーの大ファンなんだって。二人が学生時代に演じた天使の演目のことを話したら、演劇部を復活させて、もう一度その公演をやりたいって言ってね」
有言実行の上に、本人たちまで駆り出して共演してしまうとは、その熱意と行動力は紛れもなく演劇バカというやつだ。だからこそ、今や天鵞絨町屈指の人気劇団となったMANKAIカンパニーの看板役者二人の心も動かせたのだろう。昔の俺たちみたいだねなんて言って、申し出を快諾する紬の姿が、あまりにも鮮明に目に浮かんだ。紬とはあの雨の夜以来、一度も会っていないというのに。
最後にもう一度深くお辞儀をして、役者達が舞台袖に捌けていく。ふわりと靡いた深い藍の髪も、綺麗に通った鼻筋も、穏やかに弧を描く唇も、何もかも。いつかの残り香を追って、その凛とした横顔を見つめる。袖幕に消える直前、一瞬だけ暖かい海色の瞳がこちらを仰ぎ見た気がした。
「そこ、鍵かかってますよ」
「え……ッわぁ!?」
屋上へ続く階段を登る背中に声を掛けると、振り向いた勢いで、紬は盛大に足を踏み外した。傾いた身体を、咄嗟に受け止める。
「あっぶねー。や、俺が急に声掛けたからだよな。悪ぃ」
「ば……りく……? ほ……本物?」
「おーおー、ホンモノのバンリクンですけど」
大きな目を丸くして、言葉が出ない口がはくはく動く。その表情がかわいくて。かわいいなんて感想がするりと出てきたことが可笑しくて。思わず後ろから、ぎゅうと抱きしめていた。ああ、紬さんだ。
ぐえっと色気のない声を漏らして、ジタバタもがく身体を離してやる。一段高いところからこちらに向き直った紬が、頭のてっぺんから足の先まで万里をぐるりと見て、ほんものだと呟いた。
「もしかして、さっきいちばん後ろの席に居たの、万里くんだったの? 俺はてっきり」
「幻でも見たと思った?」
「うん。幻覚を見るなんて、俺もいよいよかって思ったよ」
「ふはっ。……幻のが良かったっすか」
「どうかな」
下から覗き込んだ目はどこまでも澄んでいて、相変わらず狡い人だと思う。
「つーかアンタ、痩せたんじゃね? ただでさえほっせーのに。メシ、ちゃんと食ってんの」
本番前は不摂生しがちだったという、東の証言を思い出す。元から大人だし、すっかり大人なはずなのに、万里くんはやっぱりお母さんみたいだねなんて笑うから。どこかに潜んでいたらしい、埃をかぶった庇護欲がむくむくと姿を現した。
「上がります?」
職員室で拝借した屋上の鍵を尻ポケットから取り出して、目の高さに掲げる。悪戯っぽい笑みを返されて、ああそんな顔もするんだったなと、懐かしさに胸がざわついた。
鍵を開けて、先に外に出た万里は、透けるような青空に目を細めた。春から次の季節へと移り変わる途中のおぼつかなさを孕んで、湿った風が頸を撫でていく。
「万里くんは、教育実習?」
高く張られた柵沿いを先に歩き出した紬が、一つ伸びをして万里を振り返った。
「っす。まぁ教職一本に絞ってるわけじゃなくて、就活も並行してやってんすけど」
「そうかあ。万里くんも来年には社会人になるんだね」
俺も歳を取るわけだと、おっさんくさいこと言うから笑ってしまった。相変わらず大学生で通りそうな見た目のくせに。
「フルール賞、とったんすよね。おめでとうございます」
「知ってたんだ。うん、ありがとう。君にかけられた魔法のおかげかな」
「呪いじゃなかったんすか」
「あはは、そうだったっけ」
MANKAIカンパニーは昨年、演劇界のアカデミー賞といわれるフルール賞を受賞した。世間的にはそれほど大きく取り沙汰されたわけではないけれど、一度潰れかけたカンパニーの華麗な復活劇は、演劇界隈ではかなり話題になったらしい。
万里がそれを知ったのは、昨年の夏。フラフラしていた同期たちが、インターンだなんだとにわかに慌ただしく動き出して、モラトリアムの終わりを感じ始めた頃のこと。そろそろ何者かにならなければいけないらしいと気付けばいよいよ、何者にでもなれると眩しそうに微笑んだ彼のことを思わずに居られない。そんな折、たまたま入った天鵞絨町のカフェに置いてあった、演劇関係のフリーペーパーを手に取った。まるごとMANKAIカンパニー特集と銘打たれた表紙では、懐かしい人がこちらにはにかんだ笑みを向けていた。
全然変わってねーな、というのが最初の感想だ。劇団の歴史から公演の紹介、団員のオフショット。二杯目のブレンドを傾けながら、はらはらとページをめくっていく。その手を止めたのは、個別インタビューのページだった。表紙よりもさらにぎこちない様子で、ソファに腰掛けた紬がそこに居た。
撮影、慣れてなさすぎだろ。それが二つ目の感想。幼馴染との出会い、初めて舞台に立った日、それから、挫折と再起。包み隠さず語る文章は、紬そのものの真摯さで、気付けば底が見えるカップを端に置いて、そこに連なる言葉を指でなぞっていた。
インタビュー後半は、好きなことについて丁寧に答えられていく。愛犬のこと。園芸のこと。小説や、映画や、音楽、それからことばについて。そこに行き着いた時、指先がにわかに熱を持って、笑い出したいような、泣き出したいような、叫び出したいような、不思議な高揚が身体の中でごうごうと渦巻いた。本当はその時、カフェを飛び出して、そこから10分足らずの劇場に居るであろう男の元に駆け出しそうだった。なんとか堪えたのは、格好悪いというか、行ったら負けな気がしたからだ。
「ま、アンタのココロには俺が居座ってるみたいなんで、どっちにしろ、俺の勝ちっすね」
こんな再会をするなら尚更、あの時思い止まっておいて正解だったと思う。まあ、いずれ何者かになれたら会いに行こうとはしていたのだけれど。
訝しげな紬を一瞥してから、空を見上げて温い空気を肺一杯に取り込んだ。
「万里一空」
「え……」
雲があってもなくても。晴れても曇りでも雨でも。この空はいつだってアンタに繋がっていた。
「……って、役者の座右の銘にしちゃスポ根すぎません?」
「もしかして、あのインタビュー読ん……だ……?」
インタビュワーが喋らせ上手だったから、ローカルな演劇専門誌だから君が手に取るなんて思ってなくて、とかなんとか。募る言い訳を全部無視して、一気に距離を詰めていく。細い手首を取って、腰を抱いた。人を受け止め慣れていない柵が、がしゃんと鈍く音を立てた。鼻先をすり合わせて、薄く開いた唇まであと1cmの距離。
「万里くん、俺」
熱い息がかかる。
「全面降伏以外、一切認めねぇか……ッ!む……ん、……っは」
仕掛けたのは紬の方だった。言葉ごと奪う荒っぽい口付けに応戦して、万里も舌を絡ませる。戯れにしては激しく、全部喰らい尽くすように。
「俺、誰かさんのおかげで随分貪欲になっちゃったみたいで」
だからね、万里くん。さらりとなびくディープブルーと煌めくエメラルド。
「もう、離してあげられないよ」
「ははっ、……上等」
いつか、万里の日常に突然差しこんだ色が今、手の中で眩いばかりに世界を染めていく。空白を埋めるように強く抱きしめれば、久々に濃いコーヒーが飲みたくなった。