こぽこぽと軽い音がカップに落ちて、茶色い粉は、その色と香りを残してさっさとかき消えてしまう。この部屋の主は日本茶の方が好きらしいが、来客の好みに合わせて、飲み物は各種取り揃えてある。万里に振る舞われるのは、大抵コーヒーだ。
「あざっす」
恭しく受け取ったカップを傾け、鼻に抜ける芳ばしい香りに、万里は目を細めた。存外大雑把などこぞの臨採教員と違って、保健医の出すそれは、万里の高めに設定されている及第点に乗ってくる。いや、正確には「元」臨採教員か。
別に何か問題が起きたわけではなく、任期満了による、惜しまれつつの円満退職というヤツだった。
最終日、副担任を務めた万里のクラスで、紬はいかにも凡庸で当たり障りのない挨拶をし、委員長から渡された白い花の香りだけを残して、ふわりと立ち去った。その間、あの青い目が万里に向けられることは、ついに一度もなかった。
「落ち込んでるのかと思ってたけど、案外平気そうだね」
東は繊細な銀糸を揺らして、ふわりと微笑んだ。相変わらずの情報通だが、この件の情報源は、知れている。この椅子に座ってコーヒーを飲んだあの人は、泣いていなかっただろうか。
「あの人、何話したんすか」
「なにも。ただ、酷いことしちゃったって」
「おーおー、酷いことされましたよ。マジありえねー」
演じるなら、最後まで完璧にやってくれれば良かったのに。万里の告白が魔法を解いてしまったのはきっと、彼自身にも予想外だったのだ。ごめんねと繰り返した唇を塞いでも、震える身体を抱きしめても、溢れ出した涙は止まらなかった。紬が万里で埋めようとした焦燥感とか、もっと直接的に言えば絶望と名がつきそうな歪みには、本当はピタリとはまる別のモノが明確に存在しているのだろう。それを思い知った時、大きな後悔を背負って紬はただ涙を流し、万里に詫び続けた。その綻びが本当の月岡紬という人間なのだとしたら、それはあまりにも苦しくて愛おしい。
「けど、傷付いてんのは、あっちだろ」
容姿にも才能にも恵まれ、人よりなんでも上手くできる分、他人からは好意、悪意、羨望、嫉妬、執心、信仰に近いものまで、様々向けられてきた。けれど、そんなものは万里には関係ないことで、興味を惹かれることですら無かった。
でも今回は違う。
紬は間違いなく期待を込めて手を伸ばしたし、万里は伸ばされた手を生まれて初めて取ったのだから。そんな特別を、このまま手放す選択肢はない。
「ふふ、若いって良いね。惚れ惚れするな。やっぱりボクの目に狂いはなかったよ、万里」
くつくつ笑う東を横目で睨んだ。揶揄いが3割といったところか。
「聞きたいことがあるんすけど」
7割の真摯さに背を押されて、一歩踏み込んだ。
「高遠丞って人、知ってますよね?」
「……紬は何て?」
予想していたのかどうか分からないが、その名前を出しても、東は笑みを崩さなかった。
「幼馴染で、今はGOD座のトップ張ってるってことくらい」
「そっか。もちろん知ってるよ。彼もここのOBだから。よく不摂生して倒れた紬をお姫様抱っこで運んでくるから、王子様なんてあだ名付けられて不服そうにしてたのに、今じゃあ立派なGOD座の王子様だってね」
お姫様抱っこと聞いて、知らず眉間に寄った皺を、東が見逃すはずもない。
「周りからはよく冷やかされてたし、本人達も敢えて否定してなかったけど、万里が心配してるような関係じゃなかったと思うよ。紬ってどこか危なっかしいでしょう? 何度か危険な目に合いそうになったこともあって、そういう事にしておいた方がまだ安全だし、何よりお互い芝居に打ち込めるって言って。本当に演劇バカだよね」
東が、いつかの愛すべき演劇バカ二人の姿を辿るように、目を細めた。今はなき演劇部で幼馴染が重ねた日々は、それこそ青春ドラマか何かのようなむず痒さがある。
それにしても、危険な目に遭いそうになったとは。お姫様抱っこよりもそっちの方が余程気を揉むが、幼馴染のガードはなかなかに硬かったらしい。という言葉を信じるより他ない。
「大学も当たり前のように同じところに進学して、演劇サークルで活動して。学生演劇界隈では、結構有名だったんだよ。でも進路のことで、すれ違っちゃったみたいで」
彼には才能があって俺には無かった。それだけだと嗤った、涼やかな声音が脳裏を過ぎる。
「それ、丞さんがGOD座に入ったことと関係あるんすか」
「さあ、ボクも詳しいことは知らないんだ。たまたま街でばったり再会して、お茶に誘った時に聞いたのは、丞とは卒業以来会ってないってことと、就職してみたけどうまくいかなくってお休み中だったってこと。それで、ちょうどうちの学校で臨時の求人が出てたから、勧めてみたんだよ」
仲違いした幼馴染と共に過ごした母校でまた過ごすということは、気分転換にしては随分酷に思える。それでも、その申し出を受けてここに来た紬には、一歩踏み出したいという意思と、何か変わるかもしれないという淡い期待があったのだろうか。
「もう一つ聞きてぇんすけど、……丞さんて、俺に似てます?」
いつも涼しげな切れ長の目を丸くした東が、次の瞬間には、腹を抱えて笑った。レアな光景なので動画を撮ったら高値で売れそうだ。後が怖いからもちろんそんなことはしないけれど、眺めておくくらいは良いだろう。
「全然、似てないよ」
ひとしきり笑い終えた東は、はっきりとそう言って、いつも通りの穏やかな笑みを作った。
「そりゃよかった」
それなら俺は、俺のやり方であの人に向き合って良いのだろう。
雨音の合間に聞こえた、階段を上る不規則な靴音に、万里ははたと目を覚ました。いつの間にか、寝落ちしてしまったらしい。手の中のスマホで時刻を確認すると、もうすぐ日付が変わりそうだ。立ち上がって一つ伸びをしたところで、奥の階段から家主が現れた。
「紬さん」
昼間の晴天から一変して夕方降り始めた雨は、いつの間にか土砂降りになっていたらしい。待ち人は、頭のてっぺんから足の先まで全身びしょ濡れで、重そうなベージュのコートの先からは、ぽたぽたと水滴が地面に落ちた。部屋の前の人影に気付いて、漸く顔を上げた紬は、くしゃくしゃに顔を歪めて、泣いていた。
「ばんりくん」
アンタはそうやって、一人で泣いてきたのか。GOD座定期公演楽日、やはり、今日を選んで正解だった。翻って階段を駆け下りていく背を追いかける。いかにも運動が苦手そうな紬の、辿々しい足取りに負けるはずもない。
「わぁっ……!」
一階に続く踊り場で、気ばかり急いて前のめりにバランスを崩した紬のコートを掴んで、強引に引き寄せた。勢い余って尻餅をついても、まだ逃げ出そうともがく身体は、絶対に離してやらない。
「あっぶねーな。べつに取って食ったりしねーから、逃げんなって」
濡れるのも構わず抗う背をきつく抱きしめると、ほのかにアルコールの匂いがした。
随分長くバスルームに籠もる紬を待っている間に、コーヒーを淹れた。次は俺が淹れると宣言しておいたのに、カップを差し出された紬は悔しそうに笑う。魔法が解けようが解けまいが、いずれにしても、あの日きりで、この名前のない関係を終わらせるつもりだったのだと知れた。
「美味しい。俺のと全然違うや」
「アンタはとりあえず、スプーン使ったほうが良い」
「それは面倒くさいというか」
「はぁ? ほんと、見かけによらず大雑把。髪もまだ濡れてるし」
首に掛かったままのタオルを掴んで、わしゃわしゃと髪をかき混ぜる。
「万里くんは、見かけによらずお母さんみたいだ」
「異議あり」
「ふふ、異議を認めます」
こんなに格好良いお母さんはちょっと嫌だもの、なんて随分勝手なことを言うもんだ。カップを傾ける姿を横目に見つつ、安堵のため息をひっそりとついた。
「あのね、万里くん」
空になったカップをテーブルに置くと、紬は改まって万里に向き直った。
「あの、……本当にごめんなさい」
そう言って、膝に手をついて深く頭を下げる。癖のない髪が、さらりと目元を覆った。
「君を利用して、君の気持ちを弄んで、……傷付けて、逃げ出して、ごめんなさい」
もっと上手に演じられると思っていた。言外に滲む、やっかいな役者の顔に、ぎりと奥歯を噛む。
「なんでアンタがそんな歪んじまってんのか、俺には聞く権利、あると思うんすけど?」
「………」
頬杖をついてため息を吐くと、華奢な肩が震える。
「あー、べつに責めてるわけじゃなくてさ。ただアンタの話、聞かせて欲しいっつーか」
膝に置かれた手を取ると、重ねた指先にじわりと熱が燈った。
「……今日、丞の主演舞台を観たんだ」
ぽつりとこぼした後、紬は深呼吸して少し笑う。
「煌びやかなセットや豪華な衣装、大勢のキャストと派手な演出。いかにもGOD座らしいエンターテイメントの世界で堂々と振る舞う丞は、知らない人みたいで、ちょっと不思議な気分だった。それでも、昔と変わらず板の上に生き続けてる。それが嬉しくて、誇らしくて、……羨ましくて、すごく悔しかった」
俯いたまま頭を振ると、手元に乾いたはずの涙がまたひとつ落ちる。
「俺はね、小学生のときに丞と一緒に初めて舞台に立ったんだ。それ以来、中学、高校、大学とずっと芝居一筋で、一緒に生きてきた。大学を卒業してもそうなんだって、疑ってもいなかった。だから、GOD座の試験も、丞と一緒に受けた。でも丞は受かって、俺は落ちた。その時に、代表の人からはっきり言われたよ。君には才能がない。やめたほうが良いって。俺、自分の芝居には結構自信持ってたんだ。学生時代は賞なんか貰ったりして、いい気になっちゃってて。でも、それも全部丞の才能と、努力と、熱意の賜物で、俺はそのお溢れを貰ってたにすぎなかったんだって、思い知らされた」
芝居のことだけを考えて生きてきた紬にとって、その言葉は紬の存在意義すら揺るがした。君には生きている価値がない。そう変換された言葉が、この人に刺さった棘の正体か。百の賛辞よりも、たったひとりから投げ付けられた言葉に打ちのめされてしまうのは、心が弱いからじゃない。それだけ真摯に向き合ってきたからなのだろう。
「俺は、芝居からも丞からも逃げ出して、就職して、全部なかったことにしようとして。でも、……やっぱり上手くいかなくて。もう、どうしていいか分からなくなった。体調崩して通院していた時に、たまたま東さんに会ったんだ。あの人、聞き上手だからつい色々話しちゃって、その時に臨採の話をもらった。別に何か期待してたわけじゃなくて、これから先に進むためには、純粋に芝居に向き合っていたあの頃に折り合いをつけなくちゃいけないなと思って、その話を受けることにしたんだ」
やっぱり無理だったんだけど。そう自嘲した後、やっと顔を上げた紬は、眩しそうに目を細めて万里を見た。
「摂津万里くん。……初めて君を見たのは、採用面接で学校に行った時だった。覚えていないと思うけど、移動教室に向かう君と、すれ違ったんだ」
「覚えてねぇ……」
「あはは。君は人から見られることに慣れてるだろうし、俺は目立つタイプじゃないからね。金木犀が香る渡り廊下をひとり、成熟した大人みたいな顔して、気怠げに歩くのがすごく様になってて、これから何者にでもなれるこの子は、なんでこんなにつまらなそうに歩いてるんだろうって、目が離せなくなった」
その情景を想像してみても、やはり紬の姿を見つけることはできなかった。それよりも、青空に緩く解けていった紫煙と、甘い香りがまた蘇ってくる。同じ場面を思い浮かべていたのか、紬がふわりと微笑んだ。
「最初は軽い気持ちだったんだ。学校で有名な問題児の君に懐いてもらえたら、学校生活がちょっと楽になるかもな、なんて。それで君に近付いて。でも、屋上で君と向き合った時に、少しだけ分かった気がした。何でも持っていて、何でもできるから、何にも興味が持てなくて。でも年相応に持て余す衝動を、人や自分への暴力っていう形で吐き散らすことしかできない。そんな君の焦燥は、何者にもなれなかった俺が抱えてるものとは全然違うけど、どこか似ている気もして。君となら、ぽっかり開いてしまった穴を埋め合えるかもしれないなって、勝手に期待してしまった。だから、……だから、君の気を惹くためだけのエチュードを始めた」
「なぁ、どこまでが演技だった?」
「……どこまでだと、思いたいの」
随分狡くて意地の悪い言い方をするから、答えずにため息をついた。
「それで、晴れて俺を手に入れておいて、アンタは破綻した、と」
「やっぱり俺、才能ないみたいだ」
ちくり、また一つ棘が突き刺さったように、眉を顰めた。
「悪かったな、期待外れで」
「違う。期待以上だったんだよ」
紬は口角を吊り上げて頭を振った。苦い笑みは、万里に対してではなく、自身に向けられたものだ。
「心も、身体も、君で満たされて俺は、がりがり削られて、どろどろに溶かされて、何か新しい、穏やかで、あったかい生き物に作り変えられようとしてた。君が好きって囁いてくれるたびにたまらなく嬉しくて、恥ずかしいくらい気持ち良くて、何もかももういいやって思って手放そうした時、……最後のひとかけらになった俺の塊が、性懲りもなく叫んだんだ。まだ終わりたくない、消えたくない、諦めたくない、忘れたくないって」
ごめんと繰り返した口が、今紡ぐ強い言葉。それがもう、どうしようもなく彼の答えなのだ。重ねた手に力を込めた。
「忘れんなよ」
「……」
「忘れんな。アンタは舞台に立て」
いま触れているこの人の心は、到底届かない場所にあるのだろう。この空っぽの身体だけが欲しいわけじゃない。だから、アンタをここに繋ぎ止めるべきじゃない。
「大体な、いたいけな高校生かどわかすなんて、アンタ教師失格なんだよ。その持て余してる演技力使う場所なんて、はなから決まってんだろ。劇団はGOD座だけか? 天鵞絨町行けば、いくらでもあんだろーが。偉そうなおっさんひとりに好き勝手言われただけで、何だっつの。諦めることもできねぇなら、死ぬ気でやりたいことやってやれよ。アンタの本気の芝居、見せてみろ」
やりたいことなんて見出せない男が、やりたいことに向き合えなくなったヤツにこんな説教垂れてるってのも、随分滑稽だ。
「俺の気持ちを弄んだ罪は重いぜ。ぐだぐだやってねーで、さっさとケリつけてさ、舞台に立て。そんで」
両手で柔らかな頬を包み込んで、薄い唇に軽く口付けた。
「その度に俺のこと思い出して、罪悪感に苛まれてればいい」
ぽかんと目を丸くしているのが可笑しくて吹き出すと、つられて紬も笑い出した。
「あはは。すごい呪いをかけられちゃったな」
ねえ、万里くん。ひとしきり笑い合って、柔らかなテノールが万里を呼んだ。
「俺のこと、ずっと許さないでいてくれる?」
額をくっつけて、澄んだ海の色を覗き込む。睨もうとしても、可笑しくて無理だった。
「おー、そりゃもうめちゃくちゃ腹立ってるからな。ぜってー許さねーわ」
「ふふ、……うん。ありがとう」
この前来たときにはなかった空っぽの小さな花瓶が、窓辺に置かれているのに今更気が付いた。明日、そこにはきっと花が添えられて、この殺風景極まりない部屋に彩りを与えてくれるのだろう。この人は何色の花を飾るんだろうか。見られないことを悔しく思いながら、もう一度だけと、キスを強請った。