「んで、俺はいつまでお預け食ってればいーんすか」
図書室の隅で、熱心にノートをとっている旋毛に、万里が不満の念をぶちまけたのは、それから1週間ほど経った放課後のことだ。日の入りがずいぶん早くなって、窓の外は、オレンジと薄紫が混ざり合った曖昧な色をしている。けれど、そんな外の世界よりも、今目の前にいる男の方がずっと曖昧で、歪で、不可思議で、綺麗だ。
「聞こえてんだろ、紬さん?」
「月岡先生、ね。摂津くん。だって、中間テストの勉強の邪魔しちゃ悪いでしょう」
勉学は学生の本分だからなんて、漸く顔を上げたかと思えば、澄ました顔で先生らしいことを言った。万里とて、お行儀良く待っていたわけではなくて、そんな先生のタートルネックに隠された首元には、一昨日万里がつけたつまみ食いの跡が赤く残っていたりする。
「テストなんてさ、教科書テキトーに読んどけば余裕だし。俺は悶々としたテスト期間を過ごす羽目になって、逆に成績落ちそうだったわ」
「古文、満点だったのに?」
「成績落ちたら、アンタ、続きやらせてくれなそうだからな」
「ふふっ、良く分かってるなあ」
頑張ったねと微笑んで、意外と男っぽい手が、ぐしゃぐしゃと万里の頭を撫でた。
「ガキ扱いすんなよ」
それこそ子供のように不貞腐れる万里を他所に、紬はジャケットのポケットに手を突っ込んで、くるりと辺りを見回してから身を乗り出した。カウンターの図書委員も、本棚にちらほら張り付いている本の虫も、二人の様子を気にするそぶりはない。不良と臨採教員のちぐはぐな組み合わせは、すっかり学校のありふれた日常になっていた。万里がクラスメイトに掛けた牽制は、いつのまにか万里が思う以上に広まっているのだが、当人にとっては興味の範疇ではない。
「はい、どうぞ」
促されるままに手を差し出せば、ちゃり、と軽い音をたてながら掌に小さな鈍色が収まった。
「これ……」
「今日、職員会議で遅くなるかもしれないから、上がって待ってて」
万里にしか届かないように、細心の注意を払って発せられたのは、甘い声だった。こうして二人だけの秘密を共有するのは、何度目だろう。その度に湧き上がる高揚感のむず痒さには、慣れそうもない。開いたまま固まっていた掌の鍵の上に、今度は雑な地図が描かれた正方形の付箋がぽすんと載った。漸く顔を上げると、澄ました顔の口元が歪んでいる。
「何すか」
堪えきれない、というように紬がくふくふ笑った。
「いや、髪ボサボサでも格好良いのって、狡いなって思っただけ」
「……アンタがやったんだろ」
鍵と付箋を尻ポケットに収めると、ガシガシと頭を掻きながら万里は立ち上がって、それから身を乗り出した。頬杖をついて楽しげに見ている紬の耳元に顔を寄せて息を吹き込むと、ビクッと身体が面白いほど揺れた。本当に耳が弱いらしい。
「……っ万……摂津くん……!」
「じゃ、また後で。月岡センセ」
ちょっとした意趣返しは成功ということにしておいて、踵を返してひらりと手を振った。
メモを頼りにたどり着いた紬の住まいは、学校の隣駅から徒歩10分ほどにある、3階建てマンションの3階、外階段に一番近い角部屋だった。雑過ぎる地図のおかげで、思いのほか時間がかかってしまったが、家主はまだ帰っていないらしい。
10畳ほどのワンルームは、簡素な備え付けの家具と、少ない荷物しかなくて、いかにも仮の住まいといった佇まいだ。特に主張のない部屋を、ぐるりと見渡してみる。
作り付けのデスクに積まれた参考書の横。いつか万里から奪った煙草のパッケージと、それから、一枚のチラシと、チケットが置いてあった。演劇に明るくない万里でも名前くらいは知っている、GOD座という劇団の公演のものだ。豪華絢爛とはこのことかというほど細部まで金糸や石で飾られた衣装に身を包んだ青年が、衣装に負けない爽やかな笑顔をこちらに向けている。
主演の文字の横に並ぶのは、長年主役を張っていた有名な役者のものではなく、「高遠丞」という、聞いたことのない名だった。世代交代があったのだろうか。まだ若そうだが、その堂々とした佇まいは、煌びやかな装衣を纏って舞台に立ち、観客の熱い視線を一身に集めても揺らがないような、圧倒的な華やかさがあった。
ふと、先日講堂で見た紬の姿を思い出す。観客のいない客席と薄暗いステージ、華やかな世界とはほど遠い場所で、一筋のライトが注がれる華奢な肩は、儚さすら纏っていた。けれど、指先から髪の毛一本まで何者かの魂で満たされた彼の横顔は、決して弱くも脆くもなく、ただうつくしかったのだ。
チラシには触れずに、煙草の方を拾い上げた。二人の秘密の始まりだ。甘い匂いはもうすっかり飛んでしまっているのに、内緒だよと不敵に笑った顔も、押し付けられた唇も晴れた空に昇った紫煙も、ひとつだって忘れられずにいる。
思えば随分、芝居がかったやりとりだった。日々を無為に過ごす不良生徒の元に現れた、臨採教員。共有した秘密。交わした熱と、放課後の逢瀬。使い古されたシナリオだ。だとしたら。
「法律違反で校則違反だよ、摂津万里くん」
あの日と同じセリフに振り返れば、コンビニの茶色い袋を提げた紬が、玄関に佇んでいた。
「なんてね」
だとしたら、アンタが望む結末はなんだ。
ただいまもおかえりもなく、ジャケット越しにも分かる細い腕を取る。素直な身体を引き寄せて、ベッドに縺れ込んだ。