ラプソディ・イン・ディープブルー - 2/7

「いらっしゃい。最近真面目に授業受けてるって聞いたけど、噂は嘘だったのかな」
 欠伸を噛み殺しながら勝手知ったる保健室の引き戸を開けると、白衣の男が振り向いて微笑んだ。ゆるく一纏めにした銀色の長い髪を弄ぶ仕草には、艶かしさが滲む。
「何、その噂。東さんの情報源ってドコなんすか」
「ふふっ、ナイショ」
 雪白東は古株の保健医だ。その名に違わず雪のように白くきめの整った肌は、年齢と言う概念すら忘れるほどで、つまり、平たく言って年齢不詳である。男子校に男の保健医など生徒の士気を著しく下げる無用の長物だが、東に限っては、そのどこか浮世離れした端麗な容姿で、一部から熱烈な支持を受けている、らしい。
「……まぁいいけど。それより、ちょっと休憩させてもらっていーっすか」
 追求してもどうせ教える気は無さそうなので、さっさと本題に入る。一限に出るために早起きなんてしてしまったから、とにかく寝かせて欲しい。
「うん、どうぞ」
 東の人気については万里の興味の範疇外だが、サボりの口実などなくても快適な空間を提供してくれる点に於いて、彼の存在には好意的だった。
「添い寝してあげようか?」
「間に合ってマス」
 いつものやりとりをあっさり躱して、窓際のベッドに身を投げる。枕に顔を埋めると、洗剤と薬品の混ざった香りが眠気を誘った。
「そっか、残念。紬だったら良かった?」
「はぁ!? なんでそこでその名前が出るんすか」
 突然出された名前に、すぐそこまで来ていた眠気は一瞬で去ってしまった。がばっと起き上がってあからさまにたじろいだ万里を見て、東がクスクスと笑っている。本当に、この人の情報網は侮れない。
 随分フランクに彼の名を口にすることから、二人が親しい間柄であることが伺えた。臨採と古株の保健医、どういうつながりかと訝しんだが、答えは呆気なく晒される。
「紬はここのOBで、保健室の常連だったんだよ」
 なんでもお見通しと言わんばかりの余裕の笑みに、万里は肩を落とすしかなかった。ちなみに、保健医がいつからこの学校にいるのか、年齢不詳銀髪美魔女の素性を知るものはいない。東の身辺調査を試みた新聞部員が、数日後に心神喪失状態で発見されたとかされてないとか。真相は闇の中だ。
「どうなるか心配してたけど、うまくやってるみたいで良かった。万里も随分懐いてるみたいだし」
 懐いているというのは大いに異論があるが、深みにはまりそうなので、今はそこを主張すべきではない。
「心配? 余裕で立ち回ってるように見えましたけど」
「そう見えたなら、紬の勝ちだね」
 どうも核心を避けるような物言いに、万里は眉を顰め、立ち上がった。いつどこから勝負になったのか知らないが、訳も分からず負けと決め付けられるのは許しがたい。
「あれ、休んでいかないの?」
「やっぱ今日はやめときます」
「そう。――ねぇ、万里」
 廊下へ足を踏み出そうとした万里を、東が呼び止めた。穏やかな声音には、真摯な響きが混じる。振り返ればいつもの飄々とした表情は鳴りを潜め、少しの躊躇いと強い意志を帯びた目がこちらを見つめていた。
「ボクはね、万里には期待してるんだ」
「どういう意味っすか」
「……紬のことが、もっと知りたい?」
 銀糸の向こう、ぼんやりと視線を彷徨わせた先で流れる雲が紫煙のようで、またあの日の影が過ぎる。全く、どこまで付いて来る気かと文句の一つでも言ってやりたくなった。

「今日の放課後、講堂へ行ってみろって、ワケ分かんねぇ」
 ゲーセンへ行く予定を変更してまで、言われた通り来てしまった自分もどうかしている、とは思う。かといって、ここで引き返すのも癪だ。万里は太い円柱が支えるコンクリートの建物に足を踏み入れた。
 すり鉢状のホールは、集会や演奏会で使われることが多く、普段は吹奏楽部が練習場所に使うくらいのものだが、今日は使っていないようだ。ひやりとした廊下を通り、人気のないえんじ色の絨毯の階段を降りた先にある、分厚い扉を開いた。
『迎えに来てくれたのかい、ラファエル』
 丸く迫り出したステージの中央先端。儚いライトが、ただひとりに注がれている。降り注ぐ光は白い羽根のように、濃紺の前髪に、華奢な肩に、それから足元にはらはら落ちた。
 ここ1週間耳に張り付いて離れない、あの人の声であるはずなのに、どこか違う。大きくはないけれど、良く通る真っ白な声。
『僕は不幸にはならなかったよ』
 穢れを知らない幼子のような澄んだ瞳が、ここにはいない誰かを見上げて、柔く微笑んだ。それから、虚空に伸びた手がはたと止まる。
「……」
 瞬きの音すらも響きそうな、静寂。淡い青の瞳に影が落ちて、顰めた眉には切迫感が孕む。今にも叫び出しそうに開いた口は、何も発することなくひき結ばれた。
 一瞬の空白。
 ぎゅっと閉じられた目が開いた時には、先程の穏やかな笑みがもうすっかり貼り付けられていた。それから、もう一度ゆっくりと伸ばされた手が誰かの頬を撫で、涙を拭う。
『それでも、初めて愛した人を守れて、親友の君に魂を送ってもらえるんだから、僕は幸せだよ』
 左手が、ゆるりゆるりと遅くなっていく心音を確かめるように、胸を撫でた。
『ありがとう。永遠に君と共に……』
 静かに瞼が落ちて、すうっと吸い込んだ息は、もう吐き出されることがない。男の命が今、世界から消えたのだ。
 時間にして二呼吸ほどの間を置いて、紬がほうと息を吐いた。
 ピンと張りつめた空気が弛緩して、万里は漸く自分も息を止めていたことを知る。早鐘を打つ心臓の音があまりにも五月蠅くて、あの人まで届いてしまうのではないかと思った。
「摂津くん?」
 どんな言葉を掛ければいいか分からず、この場を離れようと踵を返したが、敢え無く濃紺の声音に呼び止められてしまった。気付かなかったことにできるわけもない。とにかく、たまたまここに来た風を装って、軽く拍手をしながらステージへと近づいた。
「すげー。アンタ役者だったんすか」
「全然……、こんなのアマチュアレベルだよ。俺はただの演劇部OBで、今はただの、キミの先生だ」
 謙遜というより自嘲に近い物言いに、先ほどの一瞬の空白に似た違和感を覚える。腰の高さほどのステージに登って相対したのは、淡い光の中で生き絶えた儚い命ではなく、確かに今朝教壇に立っていた男だった。
「うちに演劇部なんてありましたっけ」
「何年か前に、部員が集まらなくて、なくなっちゃったみたい。寂しいね」
 言葉と裏腹に、その横顔はどこかほっとしているようにも見える。いよいよ募る違和感を探るように注いだ視線は、緩い微笑にあっさりと躱されてしまった。
「さっきやってたの、何てヤツ?」
「天使を憐れむ歌。三年生の時にここで演じた、演劇部オリジナルの演目だよ。人間の女性に恋をした、天使のお話。天使は自分の命と引き換えに彼女を救い、迎えに来た親友に身を預けて、そのまま息絶えてしまうんだ。結ばれることもなく、ただ消えていく」
 紬の視線は、天使の名残を探すように、そっと手の平に落ちる。
「悲恋に見えるかもしれないけど、それでも彼にとっては幸せな最期だったんだよ」
 しあわせなさいごという言葉が妙に引っかかって、先程の天使を思い浮かべてみる。ほんの一瞬、垣間見えた躊躇。何かに蓋をして、自分は幸せなのだと自身に言い聞かせたような、空白。綻びの正体に、少し近付いたような気がした。
「なあ、その天使ってさ、本当に幸せだって思ってんの? さっきのアンタ、なんかすげー未練タラタラって感じだったけど」
「……もう閉めるから、出てくれるかな」
 口元が少しだけ歪んだのを、万里は見逃さなかった。
 上手の舞台袖にはけていく背を追って、細い腕をぐいと引き寄せる。抵抗は、力の差でねじ伏せた。頤を掴んで、俯いた顔を強引に上向かせると、丸眼鏡の奥で大きな目がグラグラと揺れている。
「言ったよね。俺はキミの先生だって」
 溢れそうな水の膜が、柔らかい照明に照らされて、青い虹彩に黄金色が差す。それがとんでもなく綺麗で。
「先に仕掛けてきたのは、アンタだろ」
 吸い寄せられるように覗き込んでしまえばもう、後戻りは出来なくなっていた。