常夜のアルカディア - 2/2

 紬に新しい父親とはじめての弟ができたのは、高校三年の秋だった。周りが当たり前のように受験に本腰を入れる中、就職するつもりでいた紬は、なんとなく教室に身の置き場を見つけられずにいた。そんな折、母は改まって「会わせたい人がいる」と切り出したのだった。
 実父は幼い頃に他界している。女手ひとつで育ててくれた母に、就職すればやっと恩返しができると思っていた矢先の再婚話だったから、肩透かしを食らったような気持ちになったのは事実だけれど。それ以上に、大事な人ができたのだと、緊張の中に幸福を滲ませた母を見て、紬は純粋に嬉しかった。もちろん、反対なんてするはずもない。その数日後には、義父と義弟と顔を合わせていた。
 身体が弱く、穏やかで控えめだった父と正反対の義父に会って、ああ、母は今度は健康で闊達な人を選んだんだなと、妙にほっとしたのを覚えている。
 それから、君の弟だよと紹介された男の子は、いかにも無理矢理連れて来られましたという佇まいで、そっぽを向いて突っ立っていた。
「よろしくね、万里くん」
 少し屈んで差し出した手は振り払われ、万里はくるりと背を向けると、あっという間に走り去ってしまった。紅葉にはまだ早い、穏やかな緑の庭園。柔らかそうなミルクティ色の髪を靡かせて去っていく少年の背中は、出来過ぎた物語のプロローグのようで、つい見入ってしまう。
 まだ気持ちの整理がついていないのだと、申し訳なさそうに謝罪する義父に笑みを返して、彼を追った。
 程なくして、つまらなそうに花壇の前にしゃがみ込んだ後ろ姿を見つけた。視線の先で、宇宙の名を持つ黄色い花々が揺れる。そっと歩み寄って、隣に腰を下ろした。
「コスモスってね、色によっていろんな花言葉があるんだよ」
「……」
 こちらを振り返りはしないけれど、逃げるつもりもないと分かって安堵した。走るのは早い方ではないから、追いかけっこなら勝てそうもなかったからだ。
「ピンクは乙女の純血、白は優美。黒は恋の終わり、なんてちょっと悲しいのもあって」
「黒いコスモス?」
「そう。チョコレートコスモスっていうんだ。その名前の通り、チョコレートみたいな香りがするんだよ」
「ここの黄色いのは?」
「これはキバナコスモス。花言葉は野性的な美しさ。花、興味ある?」
「べつに。そんな楽しそうに花の話する奴、初めて見たから」
「あ、ごめんね、うるさかったかな」
「そんなことは……ない。アンタの声、なんか落ち着くし」
「そう? そう言ってもらえると嬉しいな。花のことはね、お父さんから教えてもらったんだ」
「お父さん」
「うん。もう随分前に、病気で死んじゃったんだけど」
「……俺の母さんは、死んでない」
「うん」
 大人びた話し方をする子だなと思った。けれど、まだ十一歳の男の子だ。幼い頃に父と死別した紬と違って、両親が健在でまだ離婚してそれほど経っていなかった万里にとって、今回の縁談がなかなか受け入れられないのは、仕方のないことだろう。ただ反抗期真っ盛りだっただけだと、のちに万里は語ったけれど。
「急に新しい家族だなんて言われても困っちゃうよね」
 俯いた万里の背中を出来るだけ優しく撫でた。
「俺のこと、無理に兄弟だなんて思わなくても良い。でも、俺は話を聞いてくれた万里くんのことが好きになったし、もっと好きになりたいって思ったよ。俺たち、きっと仲良くなれると思うんだ。だからね、俺たちなりの関係を築いていこうよ」
 そうして差し出した手は、今度こそ握り返されたのだった。
「改めてよろしくね、万里くん」
「よろしく。……紬さん。さっき、手ぇ叩いてごめん」
「あれくらいなんてことないよ。俺、そんなにやわじゃないし」
「本当かよ。すげー弱そうなんだけど」
「えぇ……?」
「ははっ」
 漸くこちらに向けられた目は、初秋の晴天を写したみたいな綺麗な青だった。

 勿論、兄弟だと思わなくても良いと言いながらも、当時の紬に芽生えたのは家族の情に他ならなかった。
 共働きの忙しい両親と、性格も見た目も似ていない、歳の離れた兄弟。始めは辿々しかった家族ごっこのようなものも、紬が義父の勧めで大学に進学し、万里が中学に上がる頃にはすっかり日常に馴染んでいた。家族という箱に、ぴったりではないにしろ、はみ出さずに収まったのだ。
 中学二年で、あっという間に身長を追い抜かれたこと。三年生に上がる頃には、夜遅くまで出歩くようになって、ときどき知らない匂いを纏って帰ってくるようになったこと。ひとつまたひとつと、耳元のピアスが増えたこと。彼の変化に気付かなかったわけではない。向けられる視線に孕む温度の意味だって、きっと正しく理解できていた。けれど。
 この安寧が崩れるわけがない。そう、たかを括っていたところがあった。少し歪ではあっても、あるべき家族の形に収まっていると信じていた。だから、いつしか輪郭を持ってしまった感情を、コバルトブルーの熱に晒されるたびに疼く情動を、捨てることを躊躇った。
 それがいけなかった。
 俺はアンタのこと、兄貴だなんて思ってない。初めて会った日のセリフをなぞるように、十七歳の万里に抱き竦められた。その時胸に湧き上がったのは、困惑なんかじゃなくて、間違いなく歓喜だった。
 身のうちに飼っていた欲は肥大して、もう手に負えなくなっていたのだと、気付いた時には遅かった。
 なぁ、紬さん。切実な響きを持って甘く囁かれては、もう堪らない。強張っていた身体の力を抜いて、少し顔を上げた。何も言わなかったけれど、目を合わせればそれで全部伝わった。
 万里くん。呼んだはずの名前は彼の口腔に溶けて消えていく。軽く触れ合わせただけで離れた唇に追いすがったのは、紬の方だった。
 それから、両親の目を盗んでは互いに溺れていった。唇を重ねるだけで満足できるはずもなく、隠しようもない昂りを擦り付けあった。いけないことをしている。そんな自覚はただの興奮材料として、エスカレートしていく行為の中で消費され続けたのだ。
 二人分の白濁が大きな手の中で混ざり合う様に息を飲み、その手が後ろに伸ばされるのを期待に震えて待ち構える。最初は中指一本だけ。次に薬指、その次に人差し指。焦れるほど丁寧に時間をかけて拓かれた身体は、いずれ彼自身に貫かれることを期待して腰を揺らし、また浅ましく欲を吐き出した。
 そうやって、いよいよ一線を越えるのも、時間は掛からなかった。
 両親が揃って一週間ほど不在にした時だ。その日は朝から雨だった。玄関先で二人を見送って、パタンと扉が閉まった時にはもう、お互いの唇を貪っていた。絡ませた舌先から電流が流れたような心地がして、堪らず縋り付いた背中は、もう少年のそれではなくて。ごつごつと隆起した背骨をなぞりながら、今更、もう後戻りできないことを思い知る。
 縺れるように雪崩れ込んだベッドは、万里の匂いがした。内に灯った熱があっという間に胸を焼いて、息が荒くなる。万里は、自分のシャツを乱暴に脱ぎ捨てたくせに、紬の服はひどく丁寧に剥いだ。
 押し入れられた痛みと、ひりひりするほどの快楽の渦。頬に落ちた一雫の汗と、生理的に流れた涙を舐めとった舌のザラついた感触まで。すべてが余すことなく紬を煽り、追い立てた。
 激しく腰を打ち付けられて、陸にあげられた魚のように跳ね狂う。理性なんてすっかり抜け落ちて、はくはくとわななく口から溢れるのは、言葉になりきれなかった甘い嬌声と愛おしい名前ばかりだった。
 少し眠って、食事もベッドの上でおざなりに済ませて、身体を清めるつもりで入った浴室でまた飽きることなく抱き合った。
 外はいつの間にか真っ暗になっていた。深い深い夜の淵。窓をしたたかに打つ雨の音。世界でふたりきりになってしまったみたいで、心細さを埋め合うようにまた身体を重ね、何度も貪りあったせいで赤く輪郭がぼやけた唇を見て、笑い合う。可笑しくて、愛おしくて、泣きたくなるほど幸せだった。

 そんな微睡のような逢瀬は、万里の高校卒業までずるずると続いた。
 あの、夢から覚めた瞬間を、今でもはっきり覚えている。
 忙しい両親の代わりに保護者席に座って、気怠げに卒業証書を受け取る背中を写真に収めた日。滞りなく終わった式の後、卒業生と在校生がごった返すエントランスの、一際賑やかなグループの中心に、彼を見つけた。
 純粋な好意だけではない、羨望や嫉妬、憧憬、崇拝。綺麗なだけではないあらゆる感情のベクトルが向かう先。そこで万里は凛と立ち、圧倒的な存在感で燦然と輝いていた。
 同級生に見せる少し澄ましたような表情に、胸が締め付けられる。彼には彼の世界がある。明るく照らされるべき世界だ。当たり前のことに漸く気付く。
 別れを惜しむ友人や第二ボタンを求める女の子たちの輪をさらりと躱した万里は、紬を見留めて微笑んだ。早咲きの桜が、まだ肌寒い空へ舞い踊る。淡い光の中で手を振る彼は、あまりに綺麗で。
 ああ、もう、終わりにしよう。そう、決めた。
「やっぱりこんな関係、続けられない。もうこれで最後にしよう」
 いつものように縺れ込んだベッドの上で、そう告げた。乱れたシャツの中を這い回っていた手がひたりと止まる。
「だから今日は、君の好きにしていいよ」
 だらりと投げ出した身体。それくらいしか、紬にはなかった。
 餞別のつもりかと憤った彼の言う通りだ。でもそれは万里へではなく、紬自身への、だった。どこまでも利己的で嗤ってしまうけれど、彼に愛された証を、痛みでも何でも良いからこの身体に刻み込みたかったのだ。
 出来れば、癒えない傷が良い。そんなことまで思っていたのに、万里は紬を手酷く抱いたりはしなかった。いつもと同じくらい、それ以上に丁寧にくまなく紬を愛してくれた。
 あの時流した涙の意味を、聡い彼は理解していたのだ。だから、苛立ちをぶつけたり、泣き叫んだりしなかった。あいしてる、つむぎさん。そんなこと、言われなくたって、この身体と心全部で分かっているのに。何も返してあげられる言葉がない。それでも彼は、ただ拙く、何度もそう繰り返した。

 良いお兄ちゃんになれなくて、ごめんね、万里くん。誰よりも、君を愛しているよ。こんな弱い俺を、どうか赦さないで。

 
[newpage] 
 唇が触れ合う寸前で、万里はぴたりと止まった。それから大きく息を吐いて、がしがし頭をかく。
「悪ぃ、がっつき過ぎた。アンタを前にすると、やっぱ余裕ねーわ」
 そう自嘲しながら、コンロの火を止めた。警笛が鳴り止んで、部屋は一気に静寂に押し戻される。余裕がないなんて、嘘でしょう。胸の高鳴りが漏れ聞こえそうで、紬は咳払いをして、それを誤魔化した。
「コーヒー、俺が淹れるから。アンタは座って待ってて」
 自分の部屋なのに、どうにも落ち着かない。結局立ち尽くしたまま、万里の背中を見守った。手慣れた様子でケトルを傾ける後ろ姿は、いよいよ知らない人みたいだ。昔から大人びていたけれど、今は。もうガキじゃないと言った、その通りなのだろう。
「いつまで、こっちにいるの」
「いつまでも」
 緊張の糸をほぐしたくて、声をかけたつもりだったのに、それは叶わなかった。含みのある言い方に、訝しげな視線を投げる。
「事務所辞めて、こっち戻ってきたんだ」
 万里はこちらを振り返りもせず、さもなんでもないことのように、そう言った。
「モデル、辞めちゃったの?」
「いや、個人事務所立ち上げたんだよ。これからはもっと活動の幅を広げてみてーって思ってる。例えば芝居とかさ」
 舞台上に立つ彼を想像してみれば、それは驚くほどしっくりきた。
「もともと、大学卒業したら独立するつもりだった。事務所には世話になったし、勉強もさせてもらったけど」
 疼く胸の奥がチリチリと音を立てる。
「俺は俺の責任で、仕事を勝ち取って全うしたいし、プライベートまで口出しされたくないんで」
 本当に大きくなった。鼻の奥がツンと痛んで、目頭が熱くなる。
 その広い背中に、縋り付きたくて堪らない。衝動のままに伸ばした手は、簡単に万里に届いてしまった。動じるでもなく、ドリッパーから落ちる茶色い液体を見つめながら、万里がぽつりと呟いた。
「俺、アンタと兄弟で良かったと思ってる」
「……」
 見た目よりもがっしりとした背中。その背骨のラインを指でなぞる。
「アンタになんかあった時にも駆け付けられるし、兄弟だからって言い張って、アンタの隣にずっと居られる」
 同じ墓に入れんのも良いな。軽やかな声で、なかなか激情を秘めたことを言う。
 こぽこぽと、サーバーからカップにコーヒーが注がれる。カップの淵に潜んだあの日の決意が、ゆるりゆるり解けていくようだ。
「ずっと?」
「そ、ずーっと」
 子どもみたいな曖昧な言葉が、じわりと心の割れ目から染み込んでくる。
「俺は、君の世界にただ影を落とすだけの、いらない人間だよ。邪魔になりたくないんだ」
 ただ少しの綻びとして、存在していたかった。なんて、強欲すぎて笑える。そして今、それ以上を求めて、手を伸ばしてしまった。
「ひとりで勝手に決めんなっつーの。いるかいらないか、決めるのは俺だ。そんで俺には、どう考えても、絶対、アンタが必要なん……どわ! っぶねー」
 どかっと、勢いよく飛び付いた。ぐりぐり頭を押しつけると、擽ったそうに万里が笑う。
「俺なんかに捕まって……かわいそうな子」
「ははっ、自惚れんなよ。俺がアンタを捕まえたんだ」
「頼もしいなぁ」
「当然」
 くるりと振り返った万里に、正面から抱きこまれた。大人っぽい香水と、ほろ苦いコーヒーの香り。厚い胸板は、紬ひとりくらい、簡単に受け止めてくれる。恐る恐る背に腕を回せば、鍵をかけて大切にしまっておいた感情が、一気に溢れ出した。

 頼りない月明かりの隙間から、夜が落ちてくる。心許なさを言い訳にして、暗がりにうっすらと浮き上がる白い喉の稜線をなぞった。こくりと上下するそこに少しだけ滲む緊張が愛おしい。
「紬さん」
 掠れた声が名前を呼ぶ。指先を通して伝わる振動が、全身を電流のように駆け巡った。揺れた腰が昂りに触れて、思わず声が漏れる。これじゃあ、ただ煽ってるだけじゃないか。
 迷いのない手が、優しく優しく、身体中を這った。彼は紬の溶かしかたをよく知っていたのだと、思い出さずにはいられない。触れられたそばから熱くなって、抗うことなんてできなくて。
「あッ、ア、……はぁ、ああッ、んむ、ん、っ」
 ぬかるみに差し込まれた長い指が、中をかき混ぜた。自分のものとは思えない甘ったるい声がこぼれ落ちて、羞恥に頬が染まる。せめてこれ以上聞かせないようにと、口元を覆った手さえ。
「声、もっと聞かせて」
 耳元でそう囁かれただけで、あっさりシーツの海に投げ出してしまった。
「ひぁ、ア、ああっ、あッ」
 堰を失って、言葉になりきれなかった母音がぽろぽろと溢れ出る。満足そうに笑う男っぽい美貌に奥がきゅんと疼いて、万里の指を絞り上げた。
 三本に増やされた指が中を行き来する。的確に前立腺を擦り上げ、その往来の度に、壊れたように先端から先走りが蕩け出した。
「見てて、紬さん」
 濡れそぼった屹立を、下から上へ真っ赤な舌がなぞる。後ろと前、両方から責め立てられて、ビクビクと浅ましく震えるそれを、万里は美味そうにしゃぶって見せた。見ていられないのに、目が離せない。
「あ、や……ソコだめ、きたな……」
 ぱくりと咥えられた亀頭が、じゅぷじゅぷ卑猥な水音を立てて吸い上げられ、腰が跳ねる。尖らせた舌先が鈴口を抉る度に、後ろが切なく疼いた。
 股ぐらに埋まる淡い茶色に指を絡めて、止めようとしているのか、もっとと誘っているのか、自分でも分からなくなる。込み上げる絶頂感に溺れて、もがく足がシーツに深い皺を作った。
 強い力で押さえつけられているわけじゃない。抵抗なんていくらでも出来るはずなのに。駆け上がる快感に身を委ねて、万里が与えた逃げ道を、自ら塞いでいく。
「あ、ア、や、だめッ! イく……ッ!」
 背をしならせながら、暖かい口の中に欲を打ち付けた。
 万里が愛し方を知っているのと同じくらい、愛され方を知っている身体だ。それは紬の頭よりもはるかに素直で、快楽に従順だった。
 こくりと喉が上下する。呑み下しきれなかった精液が溢れた口元を拭って、万里が不敵に笑った。それだけで、果てたばかりの性器がにわかに首をもたげる。
「——アッ」
 指が引き抜かれ、喪失感に後孔がヒクヒクわなないた。早く君で埋めて欲しいなんて、言葉にしなくたって、伝わってしまったのだろう。
 獣みたいに四つん這いの姿勢になって、すぐに宛てがわれた屹立を、浅ましく蠢く肉襞に誘い入れた。内臓が押し上げられるような圧迫感に、眉を寄せる。ずぶ、ずぶ、指とは比べ物にならない質量が、紬の中の敏感な部分を余すことなく辿った。
「あ、はぁ、……ん」
 一度奥まで達した性器がずるりと引き抜かれ、また奥へと押し入ってくる。緩慢なピストンに焦らされて、腰が否応なく揺れた。
「は、腰すげー揺れてる。かわい」
「ん、はぁ、ア! ああぁッ」
 抜き差しがだんだん激しくなっていく。ばちゅん、じゅぶ、肌と肌がぶつかる音と水音が混ざりあって、耳を犯した。結合部から泡立ったローションが蕩け出して、太腿を伝っていく。それにすら感じて、後ろが万里をぐいぐいと締め付けた。
「く、きっつ…」
「あ、はッ、アァ! 万里くん、ばんりく…っ」
「ん、コッチ向いて」
「ひ、あぁ!」
 中に怒張を突き入れられたまま、ぐるりと身体が反転して、向かい合う形になった。額に張り付いた前髪を掻き上げて、現れた藤青の瞳に誘われるまま、キスをする。上唇を食み、下唇を吸い、舌を絡ませた。唾液が混ざり合って、喉を伝い落ちていく。
「動いていいっすか」
 良いに決まってる。わざわざ聞かないでと非難の目を向けると、万里は満足そうに口角を上げた。
 イくときは正常位が良い。君の顔、見たいから。いつかそう言ったことを、きっと覚えているのだろう。
 また律動が激しくなって、考え事をしている余裕なんてあっという間になくなってしまった。
「は、は、あ、っあッ!」
 思う存分揺さぶられて、ただ愛されるだけの身体に還っていく。堪らず縋り付くと、記憶よりも少しだけ大きな手が、後頭部をくしゃりと撫でた。それから耳元に低くて甘ったる声が注ぎ込まれる。
「一緒に、イこ」
 腰をぐっと掴んで、最奥を勢いよく穿たれる。
「ん、ア、や、あああッ!」
 二度、三度。四度目で背をしならせながら、先端から白濁を吐き出した。
「——っ!」
 少し遅れて、蠢くナカで薄膜越しに熱い飛沫が飛び散った。どくり、どくり。すべて注ぎ込むように、昂りが痙攣する。それも性感として受け取ってしまって、紬の性器からは緩くなった精液がまた溢れ出た。
 荒い息を整える間も無く、深く口づけを交わす。足りない。もっと。君でいっぱいになりたい。そんな我儘も、容易に受け止めてくれる頼もしい背中を、強く強く抱きしめた。

 けたたましい電子音に引きずられて、微睡から意識が浮上する。重い瞼を開けば、ブラインドの隙間から眩しい光が漏れていた。身動ぎすると、シーツが纏わりついてくる。服、何処へやったんだっけ。ぼんやりした頭で昨日の事を思い出すこと数秒。
「…………!」
 がばっと起き上がった。つもりだったけれど、実際は少しも身体が動かなかった。腰のあたりが重たくって、手もなんだか力が入らない。喉だってカラカラだ。夢かうつつか曖昧な境界に放り出された心許なさの中で、身体の倦怠感だけがやけにリアルだった。
 なんだか怖くなって、助けを求めるように、なんとか頭だけ巡らせた。
 そして、キッチンに立つ愛おしい背中を見つける。
 換気扇の横にある小さな窓から細い光が差し込んで、柔らかな髪に艶のある輪っかが浮かんでいる。
 ばんりくん。カスカスに乾いた声は、それでも彼に届いたようだ。振り向いた万里は、いつかの幼さを少しも見せないで、穏やかに微笑む。
「おはよ、紬さん」
「おはよう、万里くん」
 重い身体をなんとか起こして、ひやりと冷たいフローリングを踏み締めた。一歩一歩、近づいて、広げてくれた腕の中にぽすりと飛び込んだ。深く息を吸えば、万里の香りが肺を満たす。身体の中の淀んだものが綺麗に書き換えられていくような心地がして、目を閉じた。
「おーい、寝るな」
「んー」
「つーかパンツ履けよ、パンツ。襲っちまうぞ」
「んー」
「いや、んーじゃなくてさ」
「いいよ、襲われても」
「……相変わらず煽るのが上手ぇ」
 困った顔は変わってない。あんまり可愛いから、わざと困らせたこともあった、なんて。昔のことをするりと思い出せたのが、不思議で可笑しくて、笑ってしまう。
 ああ、新しい朝だ。への字に曲がった唇に自分のものを重ねながら、そんなことを思った。