Later story:もっとみらいのはなし
あ、万里くんの色だ。ダンボールからまとめて取り出した文庫本の束の間に、恋人の瞳の色によく似た藍紫のリボンを見つけて手を止めた。辿ってページを開くと、あとがきに挟まっていたのは黄色いコスモスがあしらわれた栞だった。
「わぁ、懐かしい」
雨と、コーヒーの香りと、黄色い花束、雨上がりの空の色や水溜りの淵の太陽が反射した煌めきまで。大事な記憶は失くしたわけじゃなくて、ずっと奥に仕舞ってあっただけだから、こんな鍵があればいつでも開くことができるのだ。思わず上げた声は、我ながら恥ずかしいほど弾んでいた。
雨宿りのお礼。そう素っ気なく渡してくれた花束を栞に綴じ込めたのはずいぶん前のこと。鮮やかな黄色はすっかり退色して、今は四角い紙の中でくすんだ土みたいな色になっていた。
それでも溢れ出た記憶は鮮やかで、つい頬が緩む。あの頃はまだ高校生だったあの子もすっかり大人になって、「あの子」なんてもう言えないくらいだ。けれど、思い返せば昔の方が大人びた印象が強い。それはきっと、彼なりに背伸びしてくれていたからなのだろう。年の差なんて関係ないと嘯きながら、それでも純然と存在する隔たりを無視できるほど盲目でもなかった。もしかしたら無理をさせていたのかもしれない、なんて今更申し訳ない気持ちもあるけれど。
そう思い至ったのは今日の彼が俺を俺として受け入れ、無防備を晒し、甘えることを恐れなくなったからだ。彼の好むコーヒーがブラックから砂糖一匙に変化したように。そう思えば、漸くお互いがお互いとして向き合っていられるようになったのだから、嬉しくも誇らしくもあった。まぁ時々甘えん坊すぎて困ってしまうけれど。
まだ熱を持つ頸をひと撫でした。見えないけれど、きっと跡が付いている。
たくさん注がれたあいの言葉は甘い疼きと共に身体に残って、気怠さと幸福がないまぜになって日常にとろりと溶けていく。
しあわせだなぁ。栞を指でなぞれば、表面のでこぼこが白く毛羽立つ。それさえもひどく愛おしく思えた。
「紬さん、終わったか……って、全然片付いてねーじゃん」
軽いノック音とともにひょこりと現れた万里くんは、精悍な眉をくしゃりと歪めて盛大にため息を吐いた。思い出よりも体格は一回り大きくて、目元には落ち着きと色気が絶妙に混ざり合っている。長い前髪をかき上げる仕草ひとつでも、相変わらずどきりとしてしまう。
「ごめんごめん」
「ったく日が暮れちまうぞ」
呆れ声にへらりと笑えば、藍紫色がぱたぱたと瞬いて、よっこらせ俺の隣にしゃがみ込んだ。すっかり大人に、なんて思ったけどそれはおじさんみたいだ。
「万里く……っん」
それからあっという間に綺麗な顔が近づいて、次の瞬間には唇を奪われていた。いつもよりもふわふわと柔らかく感じるのは、多分きっと、昨日たくさんしたせいだ。
って、そうじゃなくて。
「っぷは! なんで今?」
そんなタイミングじゃなかったよね?
「いや、キスして欲しそうな顔してたんで」
「そんな顔してないよ」
「いーや、してたね」
ふふんと得意げに宣うところはなんだか子どもみたい。鼻先を擦り寄せてもう一度と強請るところも。
しょうがないなぁと苦笑しながら、今度は俺から口付けた。軽く触れるだけでも、昨晩のことを思い出した腰がじりりと疼く。けれど、本格的に火がつく前に万里くんはするりと身を離した。そうそう、今日はこのダンボールを片付けてしまわないとね。
「コーヒー淹れたから、休憩しよーぜ」
「うん」
立ち上がって、早く来いよと去り際にひらひら振った左手。その薬指には真新しい銀色が光っている。軽く挙げた俺の左手薬指にも、サイズ違いの同じもの。あぁ、そうだ。俺たちはもう「恋人」じゃないのだった。
ふたりの関係性に別の名前なんていらないと思っていたけれど、万里くんはそれを俺に与えたがった。たぶん独占欲とかそういうのじゃなくて、ある種の覚悟のような。ふたりで生きていくこと。幸いを育み分かち合うこと。戸惑いや不安は思ったより湧いてこなかったから、それがそのまま、これまでふたりで重ねた時間の重みや深みなのだろう。
必ず守るから、なんて格好つけるからつい笑ってしまったのは、意地悪がしたかったわけじゃなくて、俺も同じ気持ちだったからだ。けれど、不貞腐れた顔が可愛くて教えてあげるのはやめておいた。
昨日からふたりの棲家になった2LDK。荷物を片付けて落ちつけるのは少し先になるけれど、日当たりが良いところとベランダが広いところが気に入っている。
ライトグレーのカーテンが閃いて、初夏の香りを纏った風が吹き込んだ。つむぎさぁん。リビングから急かすような声が聞こえて、はぁいと間延びした返事をする。パタンと閉じた本を本棚に挿せば、藍紫のリボンは柔らかな陽を吸い込んで、輪郭が薄水青に光っていた。