chapter:4
暦の上ではとうに春。それでも朝方は特にまだ肌寒くて、花に触れた指先もかじかんだ。ベージュのカーディガンを羽織った紬は、店内で一人黙々と花を寄せ、束ねていく。
今日は近隣のいくつもの学校が卒業式を迎える。このシーズンは花屋の繁忙期でもあって、大通りから外れた小さな花屋も例外ではなかった。
予約を受けた花束を一つ一つ丁寧に作り上げていく。卒業生から恩師へ、在校生から卒業生へ。花を贈るという行為は、想いを伝えることに等しい。ありがとうや、おめでとうや、さようなら。あるいは。
ずっと好きだった先輩にどうしても渡したくて。そう頬を赤らめながら教えてくれたのは、常連さんのお孫さんだった。花言葉を思い浮かべながら、ケースに並ぶ切り花を見つめる。バラやアネモネ、チューリップ。彼女の気持ちに寄り添う花はどれだろう。たくさん悩んで、紫のフリージアを選んだ。
花き市場に赴いていた綴も合流し、準備もそこそこに店を開ける。予約客への受け渡しのために、いつもより早い開店となった。
昨日の雨はすっかり上がったようだ。まだ点々と残る水溜りには、白を混ぜた青色が映る。その縁は朝日を浴びてきらきらと煌めいていた。
先輩へ贈る花束を受け取りに来た女の子は、花学の制服を着ていた。先日会った時は私服だったから、どこの学校か知らなかったのだ。万里の後輩にあたるらしい。
卒業式にはちゃんと出てくれるかな。ふたりを隔てるものにも思えた制服も、今日でお別れとなると少し寂しい。あとで写真を送ってもらおう。女の子の胸に収まった紫色に、ハレの日を迎えた恋人を想った。
相手もまだ高校生だけれど、年上の男性へということで、花束は少し大人っぽく仕上げた。彼女ははにかみながら、これならきっと受け取ってくれると喜んでくれた。
軽い足取りで学校へ向かう後ろ姿を、手を振って見送る。どうか、素敵な一日を。眩しい背中にそっと呟いた。
夜まで客足は絶えず、万里からのLIMEに気付いたのは店じまいした後だった。
卒業式終わった。短い文に添えられた一枚の写真には、制服をきっちり着込んだ万里が写っている。いつも着崩していたのに、ネクタイまで締めて、胸元にはコサージュをつけて。手にはたくさんの花が抱えられていた。その中に、見覚えのあるものがひとつ。
「あ、これ……」
フリージアの花束。今朝、はにかんだ笑顔を見せてくれた女の子を思い出す。ずっと好きだった先輩っていうのは、君のことだったんだ。きっと凄く勇気を出したんだろう。頑張ったね。受け取ってくれて、良かったね。受け取ってくれて、ありがとう。
万里にとっても特別な一日になったみたいで、嬉しくて誇らしい。でも少しだけ、ほんの少しだけ、胸が苦しくて。なんだか無性に彼の声が聴きたくなった。
精算も終えて、店を出る。近くの駐輪場まで歩きながら、文字を打つのがもどかしくて、通話ボタンを押した。
『紬さん、おつ。仕事終わった?』
三コールを待たずに繋がった。電話越しだと、いつもより低くて落ち着いた声音をしていて、急いていた気持ちがゆっくり解けていく。
「こんばんは、万里くん。今終わったところだよ。写真ありがとうね。それから、卒業おめでとうございます」
『あざっす』
「制服、似合ってたね」
『あー。ねーちゃんに最後くらいちゃんと着とけって、蹴られた』
嫁いでったくせになんで居座ってんのかな。ぼやきに混じる気恥ずかしさに、つい頬が緩んだ。きっと家族総出で君を祝うためだよ。そんなこと、言わなくてもわかっているだろう。
「着崩してるのも格好良かったけど、今日のもすごく格好良かったよ」
『お、惚れ直しました?』
「あはは、うん。そうだね」
面と向かってだと言えないようなことも、電話越しなら言えてしまうから不思議だ。
「ま、アンタにそう言われんのは悪くねぇな」
だから、その声が電話越しじゃなくて前から聞こえて、飛び上がるほど驚いた。
「ばっ、万里くん⁉︎ なんで」
「ぶはっ。ビックリして飛び上がる奴、初めて見た。マンガみてー」
本当に飛び上がっていたらしい。私服姿の万里が、ガードレールに腰を預けて待っていた。驚く紬を他所に、軽やかに近付いたかと思うと、耳元に唇を寄せる。
「恋人に会いに来るのに理由いんの?」
電話口よりももっと低い声で囁くから、心臓も飛び上がった。元々大人びた子だったけれど、制服を脱いだ途端に、一気に七つの年の差を詰められたような気さえする。卒業式ってそんな凄い儀式だったっけ。
「いらない……デス」
つい変な敬語になってしまった。ちらりと伺えば、万里は馬鹿にするでもなく、ただ優しく微笑んだ。
「メシこれからだろ? なんか食いに行こ」
「うん。俺、オムライスが食べたいな」
「ふはっ、ガキみてぇ」
「そうだね」
ほんとうに。小さな嫉妬なんてしている方が、ずっと子どもみたいだ。
大通りに出るまでのほんの少しだけ、手を繋ぐ。絡ませた指先の暖かさが、宥めるようにゆっくり全身へと伝わっていく。少しだけ前を行く背中が、いつもより大きく見えた。
「クラスの集まりとか、ご家族との食事会とか、行かなくて大丈夫だった?」
今更、しかもこんな体勢で聞くのも狡いと、我ながら思う。ベッドで、万里に跨って、見下ろしながら。人間とは強欲なもので、腹を満たせば別の欲も満たしたくなった。
万里はパチパチと瞬いて、スウェットの裾から手を差し込んできた。
「……ん」
背骨をなぞる擽ったさに期待が混じって、ふるりと肩が揺れる。
「クラスのはちょっと顔出してきたし、家族は今度旅行連れて行かれるから、今日はお役御免」
「そっか」
上体を屈めて、唇を擦り合わせる。風呂上がりだからか、いつもよりぷっくりしていて気持ち良い。何度か啄むだけで、焦れた万里が舌で歯列を割った。
絡ませた舌のざらりとした感触に、肌が粟立つ。唾液をじゅるりと吸い取られた。脳に直接響く水音に、身体の中心から熱が灯り始める。
「ん、……っむ、んんっ」
後ろから頭を押さえられているから、逃げることも叶わない。そもそも、逃げるつもりもないのだけれど。
「は、……っぁ、あぁ」
背を這っていた手が下着の中に侵入して、中心に触れた。ゆるく二度三度と扱いただけで、あっという間に芯を持つ。先走りでぬめりを帯びた指先が絡みついて、恥ずかしいほど腰が揺れた。
「長風呂してると思ったら……。準備、ひとりでしてきた?」
後ろに指を埋めて、万里が喉を鳴らす。言葉にならなくて、こくこくと頷いた。
そこに彼を受け入れるのは、今日で三度目になる。最初も二度目も、焦れるほど丁寧に拓かれた。それなのに、戸惑いも、怖さも、痛みも全部、どれひとつうまく隠せなかった。でも、それで良いと言ってくれて、愛おしさばかりが募った。
こんなにままならない身体でも、欲しいと思ってくれることが嬉しい。そして、欲しいのは万里だけじゃないことを、伝えたかった。
指がずるりと抜けていく。紬の肩に額を押しつけて、万里ははぁとため息を吐いた。
「ごめ……引いちゃった……?」
積極的なのは好みじゃなかったのかな。途端に不安になって、声が不恰好に揺れる。
万里はもぞもぞと上体を起こして、八の字に下がりきった眉の端にキスを落した。青い目が欲情に揺らめいて、ごくりと喉が鳴る。
「熱烈過ぎてやべぇ。ほら」
ここ、と指差された場所は、服越しにもわかるほど膨らんでいる。その熱を知る身体の奥の方がきゅっと軋んだ。
「よかった……のかな」
「あんま煽んないでくださいよ。余裕無くな……おい」
そこに手を伸ばして、触れてみる。ゆっくりと撫でながら、少し赤みが差した耳元に囁いた。
「無くしてよ」
少しばかり長く生きていても、ちっとも備わっていないそれを。君からも奪ってしまいたい、なんて。
「は……っ」
手の中でビクビクと震える屹立を、下から上へ、形を確かめるように指を這わす。理性が崩れるまで、あとひと押し、かな。
「おねがい、万里くん。君が欲しいんだ」
「……クソ」
「っぁ!」
はかりごとは思いのほかうまくいってしまった。あっという間に視界が反転して、天井が見える。それから、苦し気に眉を顰めた万里の顔が近付いてきた。
「ん……、ぁ、はぁ……っむ」
荒っぽい口付けに、身を捩る。でも圧し掛かる身体と、両側についた手に阻まれて、ほとんど動くことはできなかった。それどころか、大きくなった中心を自身に摺り寄せられて、力がくったりと抜けていく。
下着ごとずり下げられた服が、足首に撓んだ。自ら足を割って、秘部を晒す。両側から手を添えて左右に広げると、中に仕込んだローションがぐぷっと卑猥な水音をたてた。
注がれる視線に、身を焼かれそうだ。腰を浮かせて誘うように揺らせば、中から重い液体が溢れ出し、背中の方まで伝う。
「ん、……ばんりく」
余裕が無いなんて言いながら、実際、余裕は無さそうなのに、それでも万里は律儀に正方形の包装を破いた。手早くスキンをつけ、乱雑にローションを振りかけて二度扱くと、戦慄く後孔にそれを宛てがう。
「ぁっ、あんっ……う、ふぁ」
「は、……っ」
ゆっくりと、万里が入ってくる。その優しさが、今日はひどくもどかしい。
「ちょっ、つむぎさ……っ!」
「あぁっ、……ん、ふっ」
焦れて足を絡め、ぐいと引き寄せれば、杭はぬかるみにずぶずぶ埋め込まれていく。衝動的に目を閉じた。
「く……っ!」
奥まで達した肉がふるりと震えたかと思うと、薄膜越しにどくどくと脈打つのがわかった。
「ぁ、あ……れ?」
これはもしかして。驚いて目を開けると、目の前にはものすごく悔しそうな万里の顔がある。
「出ちゃっ……た?」
耳が赤い。余裕、本当に無かったんだ。それはなんだかとっても。
「何で嬉しそうなんすか」
「いや、あの。……ふふ、ごめん。万里くんが可愛くて」
「くっそダセェ……」
「そんなことないよ」
だってこんなに嬉しい。ぎゅっと抱きついて、サラサラの髪を撫でた。それも、今の彼には不服だったようだ。
「ひぁっ!」
紬を穿っていたものが、ずるりと出て行く。一度果てたとは思えない質量に、浅ましく喉が鳴った。浅く深く口付けを交わしながら、万里は器用にもう一度スキンを被せる。
「乗って」
手を引かれるまま、身体を起こして万里に跨った。自ら腰を沈め、屹立を受け入れていく。腹の側を先端で擦るように侵入してくる熱に、背筋を甘い痺れが駆け上がった。
思わず目を閉じれば、中にあるものがよりはっきりとわかってしまう。これまでよりもずっと深くに、君を感じる。
絡め合った指先が、じんと痺れた。
「これ、深っ……ぁン、万里くん。ばんりく……」
下から緩く突かれて、背が弓なりにしなる。薄く開いた口からは、愛おしい名前がぽろぽろ零れ落ちた。
「っは、つむぎさん……」
抽挿はだんだん激しさを増す。真っ赤に染まった身体は、万里の上で魚のように跳ねた。肌がぶつかるたび、ぱちゅぱちゅといやらしい水音が鳴る。紬も自ら腰を振って、より深く、より激しく、万里を求めた。
「あ! や、そこっ……ぅぁ、あ! んァッ!」
ふたりの間で先走りを撒き散らす性器を、万里がぐりと握り込んだ。突き上げる動きは少しも緩められないのに、その上激しく扱かれてはたまらない。紬は白い喉を晒して、嬌声を溢れさせた。
目の奥にチカチカと星が飛ぶ。身体がガクガク震えて、奥から出口を求めて熱いうねりがせり上がってくるのがわかった。
「やぁ、もうっ、……イっちゃ……!」
「く……、はっ、俺も」
汗だくの身体をぶつけ合って、ふたりで絶頂へと駆け上がっていく。
「は、はッ、ぁ、んっ……アッ! ぁあッッ!」
ぎりぎりまで引き抜いた昂ぶりを二度強く叩き込まれて、紬は先端からごぷりと白い液体を吐き出した。万里も間を置かず、低く呻いて吐精する。力強い脈動を感じながら、強く、背を抱いた。
「お花、たくさん貰ってたね」
事後の気怠さを纏った声は、少し掠れている。布団を被ったまま、甲斐甲斐しく渡されたミネラルウォーターで喉を湿らせた。
ベッドに腰掛けた万里は、はな、と繰り返して、視線を巡らせる。写真の。そう付け加えると、合点がいったようだ。
「あぁ、めんどくせーから全部断るつもりだったんだけどさ」
くしゃりと笑って、万里は顛末を話してくれた。
式が終わって外に出たところで、名前も知らない後輩に呼び止められたこと。呼び止めておいて、一向に話を切り出さない。ただ真っ赤な顔で突っ立って、胸に抱えた紫の花束をぎゅっと握っていた。力を込め過ぎて、ぐしゃぐしゃになっていく花を見かねて、受け取ってしまったらしい。
「花屋の彼氏としては無下にできねーじゃん?」
はなやのかれし。なんだかむず痒い響きだ。もぞもぞと擦り寄れば、シーツごとぎゅうと抱き込まれた。
「そういうもの?」
「そういうもんだろ。例えばアンタが作ったもんだったらって考えたら、やっぱ大事にしてーと思うし」
つまり、紬のことを想って受け取ってくれたらしい。我ながら単純なもので、頭上に薄っすらかかっていた靄が、すっきりと晴れていく。
「ひとり受け取っちまったら、もう後は雪崩みたいなもんで。どこに隠れてたのかわかんねーヤツらが、わらわら押し寄せて来てさ。断る暇もなく、気付いたらああなってた。やっぱ断っときゃ良かったな」
「ううん。受け取ってくれて、ありがとう」
「アンタに礼言われんのは、変な感じだな」
「そこは、ほら。花屋代表として」
その紫の花束を作った者として、というのは、内緒にしておこう。
「丞もね、卒業式は大変だったんだよ。花も凄かったけど、うちは学ランだったから、ボタンも全部むしり取られちゃって……万里くん?」
腰に回った腕が、ぎゅうぎゅうと締め付けてくる。すこし、いや、かなり痛いんだけど。どうしたのかと俯いた顔を上げさせれば、口がへの字に曲がっていた。
「はぁ、今他の男の話します?」
ほかのおとこって。
「丞はただの幼馴染だよ? 家族みたいものだし」
「そりゃわかってっけど。……笑うな」
これでも少しは我慢したつもりだけど。やっぱり堪えきれなくて、吹き出してしまった。
「ごめん」
「全然ごめんの顔じゃねぇ……」
「だって、……あは、ははっ、ふふっ」
お腹がむずむずして、溢れでてしまった笑いは、収まるどころかどんどん膨れ上がっていく。
「卒業したって何も変わんねぇな。制服脱げば、多少はアンタに追いつけると思ってたけど」
いつも余裕で、スマートで、格好良くて、大人っぽい。それはもしかしたら、彼なりの背伸びだったのかもしれない。ようやくそんなことに気がついて、胸が熱くなった。
背中をゆっくり撫でる。大きくて広くて、けれど少しの幼さを宿していて。そんなところが、愛おしい。
「ゆっくりで良いからね」
じゃないと、心臓がもたないよ。揶揄ったわけではないのに、万里はいかにも悔しそうに眉を寄せる。
「ぜっってーソッコーで追いつく」
だから、覚悟しとけよ。そう言って見せた笑みは、どこか穏やかで清々しくもあって、春の陽に似ている。
眩しくて目を閉じれば、ふわりと優しいキスが落ちてきた。