この雨が上がっても。 - 3/8

chapter:2

 緑に囲まれた店内に、ごうごうと焙煎機の音が鳴る。ゆったりとしたソファに深く腰掛けて、窓の外に目をやれば、いよいよ本降りになった雨が、店頭に所狭しと並んだ植物たちに降り注いでいた。最近は晴天続きだったから、雨雫に濡れる彼らは皆、どこか嬉しそうだ。
 照明を落とした店内に、雨雲の隙間から漏れる淡い光が差し込んで、テーブルにはグラスが作る水面が緩く踊る。コーヒーの芳ばしい香りを吸い込んで、紬は頬を緩めた。
 天鵞絨駅から二駅隣にあるこのカフェは、紬のお気に入りで、お得意先でもある。店内の装花を任されていて、今日も新しい鉢と、季節の切り花を納品したところだ。
 仕事を終えた後は、オーナーの好意に甘えて、窓辺のソファ席で一息つくのが恒例だった。一杯飲んで慌ただしく仕事に戻ることもあれば、開店してからしばらく居座ることもある。今日は次の予定まで時間があるから、ゆっくりさせてもらうことにして、バッグから文庫本を取り出した。
 藍紫のリボンを手繰って、ページを開く。コスモスの栞が現れたところで、はたと手を止めた。
 そういえば、あの日も雨だったな。いつかの邂逅を思い出して、脳裏に浮かんだミルクティ色に目尻を下げた。
「万里くん。……元気かなぁ」
 一月ほど前のほんの数時間、共に過ごしただけの、七歳年下の男の子の名前を呼んでみる。男の子というには随分大人びていて、でも焦ったところや笑った顔は年相応で可愛らしかった。雨宿りのお礼と称して紬に花束を手渡し、颯爽去っていく後ろ姿は、さながら映画のワンシーンのようで。高揚した気持ちを思い出してしまえば、なんだか気恥ずかしくなって、コスモスのでこぼこした表面を一撫でした。
 これは万里に貰った花だ。枯らせてしまうのが勿体なくて、押し花にして栞に閉じ込めた。散っていくことも含めて、愛おしい植物たち。それを、独りよがりな感傷で、こうして日常に忍ばせていることに、紬自身も少なからず驚いていた。
「月岡さん、お店開けるけどゆっくりして行ってね」
「あ、はい。ありがとうございます」
 馴染みのスタッフの声掛けに、笑みを返す。店内はいくらか明るくなって、緩やかなBGMが流れ始めた。
 壁掛けの寄せ植えを指差して、談笑する老夫婦。テーブルの一輪挿しに、少し眉間のシワを緩くするサラリーマン。それから、おしゃべりに夢中な女性グループも、スマホを握って、せっせと親指を動かす男の子も。心を込めて彩った空間で、心地よく過ごす人を見るのが好きだ。
 その寄せ植え、今日納品した俺の自信作なんですよ。と、心の中で声を掛けたり、次はどんな子を仲間に入れようか構想したり。一方通行になりがちな仕事柄、この時間は貴重で、純粋に嬉しかった。
 でも今日は、そこにどうも落ち着かないような、そわそわした心地が混じってしまう。
 あの時振る舞ったのは、このお店のコーヒーだった。優しい雰囲気があると評してくれた君も、ここで穏やかに過ごせただろうか。もしかしたら、ここに居れば、また会えるかもしれないな、なんて。さすがにちょっと出来過ぎたシナリオかな。
 あの日からずっと、気付けば彼のことばかり考えてしまう。これじゃあ、まるで。
 経験値が低いとはいえ、このむず痒い感覚は初めてではないわけで。でも確定するには、いろいろ整理がつかなくて。 持て余す気持ちを、コーヒーと一緒に飲み下した。

「オニーサン、相席良いっすか」
 カップの底が見えてきた頃、本を読み耽っていた手元に、影が落ちた。はっとして仰ぎ見た先で、桔梗の瞳が大人っぽく眇められる。
「へ……?あ、ば……んりくん?」
「っす。紬さん、久しぶり」
「学校は、行かなくて大丈夫なの」
 まさか本当に会えるとは思ってもみなかったから、つい変な声が出てしまって、取り繕うように、一番触れて欲しくなさそうな事を聞いてしまった。
「いや、ソコかよ」
 平日の午前中だ。高校生が私服で目の前に立っていたら、気になるのは当然なのだけれど。
 案の定、万里は少し気まずそうにガシガシと頭をかきながら、向かいに腰を下ろした。
「出席日数は、ちゃんと計算してるんで」
 いかにも要領良さそうに笑うから、ほどほどにねと大人として及第点の返事をするに留める。
「それにしても、偶然だね。このお店、好きって言ってたから、もしかしたら会えるかななんて思ってたんだけど。本当に会えたから、びっくりしちゃった」
「へーえ、俺に会いたかった?」
 頬杖を付いてちらりと寄越す挑戦的な視線に、頬がかあっと熱くなる。
 この子は、自分の魅せ方をよく知っていると思う。だからこそ、どう答えるのが正解なのか、分からなくなってしまった。
「えーと……」
 逡巡している間に、いつ注文したのかコーヒーが運ばれてくる。
 大きくて綺麗な手が、窓辺のポットを引き寄せて、ブラウンシュガーを一匙カップへ落とした。カップを傾けて一口、それから口角が完璧な角度ですいっと上がる。
 流れるような洗練された動きは、やはり映画のようで。晒したはずの視線は、いとも簡単に捕らえられる。
 目眩がするほど、熱くて。
 灼けついてしまいそうな喉の渇きを覚えて、助けを求めるように、カップを引き寄せた。
「ふはっ。顔、すっげー赤いっすよ」
「もう、万里くん」
 けらけらと笑う姿は、外の雨空が嘘のように眩しい。その後ふと真剣な顔なんてするものだから、たまらなくなって。
「会いたかったよ」
「……あー、そ……っすか」
 するりと溢れた偽りのない言葉は、想像以上にちゃんと届いてしまったようで、切れ長の目がまん丸になる。今度は、紬が笑う番だった。
「君、そんな顔もするんだ」
「どんな顔だよ」
「ふふ、内緒」
 呆けた顔と、少し赤くなった耳が可愛いなんて言ったら、機嫌を損ねてしまいそうだから、これは秘密にしておこう。
 雨垂れと戯れる葉っぱのように、にわかに心が弾む。火照った頬を治めたくて、二杯目はアイスコーヒーにしようと決めた。

 少しずつお互いの話をして、連絡先を交換して、アイスコーヒーを飲んだ。彼は今日も突然現れて、お湯で溶かしたインスタントコーヒーのように、紬の日常にさらりと馴染んでしまう。
 白昼夢みたいな心地良さと、少しの心許なさに、胸の奥が疼いてくすぐったい。スマホを弄るその大きな手に触れたら、この夢はどんな風に色付くだろう。
 そんなことをぼんやりと考えているうちに、次の仕事の時間があっという間に近付いてしまう。名残惜しさを隠して帰り支度を始めると、向かいの万里も席を立った。

「ねぇ、俺やっぱり走っていくよ? 駐車場はすぐ近くだし」
「ダメ。アンタ足遅そうだから、すげー濡れるし、絶対風邪ひく」
 そりゃ足は遅いし、身体も、屈強な幼馴染ほど頑丈には出来ていないけれど。
 青い傘は、ふたりで使うには少し小さくて、雨粒が万里の右肩を叩いては湿らせていく。車の中に傘を置いて来てしまった自分が悪いのだから、それで万里が濡れてしまうのは申し訳ないし、風邪などひかせてしまった日には、年上としてあまりに不甲斐ない。
 紬の逡巡を他所に、万里はさらにこちらに傘を傾けてくれる。右にやっても強引に押し戻されてしまうから、せめてと寄り添えば、万里はそれはそれは優しく微笑んだ。
 そんな顔されたら、それ以上固辞することも憚られる。三軒隣の駐車場への道すがら、交わす言葉は少なくて。あるのは雨音と、くっついた右腕の熱さだけだ。
「偶然じゃねーから」
 車まであと数メートル、というところで、万里がぽつりと呟いた。
「……え?」
 聞き返したのは、聞こえなかったからではなくて、都合良く聞き間違えてしまったと思ったからだ。
「今日、俺は、アンタに、会いに来たってこと。アンタさ、店行っても全然いねーじゃん。あと会えそうなトコっつったら、ここくらいしか知らねーから」
「なんで……」
 わざわざ店まで来てくれていたのかとか、カフェにも何度も足を運んでくれたのかもしれないとか。それはつまり。俺に会いたかったから、ということでしょうか。
 紬が口を開く前に、俺まわりくどいことは苦手なんでと前置きして、少し下にある紬の目を覗き込んだ。
「俺も、アンタに会いたかった」
 菫が散る藍紫の虹彩は、とろりと溶けてしまいそうなほどの熱を持って、紬を射抜く。
 ここが青い傘の中で良かった。そうじゃなかったらきっと、また笑われてしまうくらい、真っ赤になってしまっているんだろう。
「万里くん、あのね」
 それを誤魔化すように、つい早口になってしまう。
「俺、基本買い付けと業務店回りしてるから、あんまりお店に居ないんだけど、土曜日は事務所に居るし、水曜日はお休みなんだ。だから次は」
 ふに。話の途中なのに、なんで今。
 唇に触れた柔らかな温もりは、すぐに離れていく。
 空よりも鮮やかな青の中、綺麗に笑う彼の頬が、少し赤く見えて。なんだ君も同じじゃないかと思ったら、身体は勝手に動いていた。
 二度目のキスは、コーヒーの香りがした。
「次はもーちょいゆっくりしてーな」
「そうだね」
「LIMEするんで、ちゃんと見てくださいよ」
「もちろん」
「それじゃ、また」
「またね」
「運転、気ぃつけて」
「うん、ありがとう」
 LINEを見逃しがちなことから、運転が得手でないことまで、なんで分かったんだろう。これじゃあ全部、見抜かれていてもおかしくないじゃないか。なんだか悔しくて、でもすこしも嫌じゃない。
 運転席に滑り込んで、手を振る。今度は名残惜しさを隠さなかった。
 フロントガラスを彩る水滴が、規則的に拭い去られては端に落ちていく。角を曲がれば、見送る長身がバックミラーから消えて、いよいよ鼓動が早くなった。
 安全運転、安全運転。心の中で唱えながら紬はハンドルを握り直した。