ホットチョコレート - 2/3

乱れたシャツを乱暴に剥ぎ取り、汗ばんだ背中に浮かび上がる背骨を、一つ一つなぞるように舌を這わせる。白磁の肌がじわじわと赤く染まっていく。後ろから貫いて、思いのまま揺さぶった。快楽に従順な身体がびくびくと震え、それでもまだ足りないと、自ら腰を揺らす。
間断なく漏れる声はどこまでも甘い。ぐずぐずにほぐれたそこは、難なく万里自身を呑み込んで、抽挿を繰り返す度に、くちゅくちゅと卑猥な水音が、焼けつくような温度で鼓膜を揺らした。
下生えに手を這わせると、立ち上がった先端からとぷんと先走りが滴り落ちる。それを屹立に塗りたくり性急に擦りあげると、一際高い嬌声が上がった。内側がうねり、絶頂が近いことを教える。
「ふぁっ…… ぁん、ばんりくん、俺……もう」
清純そのもののような透き通った碧い瞳が、蠱惑的な真っ赤な唇が、万里を居抜いた。

「っ紬さん!?」
ガバッと飛び起きたそこは、勝手知ったる己のロフトベッドだった。
心臓が、どくどくと早鐘を打っている。額に浮かんだ汗が一筋、眉間を通って高い鼻から伝い落ちた。荒い息を整えることもできないまま、恐る恐る下着に手をかける。はっきりと芯を持って頭をもたげているが、なんとか踏みとどまってくれたらしい。幸い人目を盗んで洗面所へ行く必要は無さそうで、安堵のため息をついた。しかし、危なかった。なんだあの生き物は。
「……エロすぎんだろ」
感度良すぎか。ああ、思い出したらヤバいことになる。なんとか気を紛らわせなければ。
素数を列挙したところで治まることもなく、不本意ながら十座がクリーム餡蜜をひたすら食べているところを想像し、なんとか落ち着かせた。代償の無駄なイラつきは、この際目を瞑ることにした。
その後に襲ってきたのは、とびきり大きな罪悪感だった。
本人には言わないが、役者としても、人としても結構尊敬している。そんな人に、夢の中でとは言え、とんでもないことをしてしまった。そんな目で見たことなどない、といえば嘘になってしまうが、先日のあれは、不可抗力だと声を大にして抗議したい。とはいえ、その抗議を聞き入れてくれる場所などないことも、充分わかっている万里である。
あぁ、どうしたもんか。寝癖がついた長めの髪を、ガシガシと乱暴にかき回し自答するが、答えなどなに一つ浮かんでこない。すがるように覗き込んだ枕元のスマホが、今日の予定を知らせていた。

「17時半に天鵞絨駅前で待合せしよう」
紬を助けた日、お礼がしたいという申し出に、万里は、おすすめのカフェを教えてくれと乞うた。
じゃあ今度、一緒に行こうか。紬はそう言ってスケジュール帳を取り出し、その場で日程を決めたのだった。また今度、なんて、体のいい断り文句かと思っていたが、彼の場合はそうでも無いらしい。ふと表情を和らげると、万里くんてそんな顔もするんだねと、紬は大きな目をさらに丸くする。どんな顔だ。微笑むばかりで答えては貰えなかった。

17時半、帰宅ラッシュが始まる天鵞絨駅前の雑踏に溶け込むように、彼は立っていた。
どこにでも居そうで、どこにも居ないような、誰でもなくて、誰にでもなれるような。独特の空気は天性のものなのか、努力で手に入れたものなのか、演技経験の浅い万里には、分かりようもない。
文庫本に落としていた目が不意に上がり、声をかけるより先に、こちらを捉えて柔らかく細められる。その視線に、夢の中で見た扇情的な色が絡まって、どきりと胸が波立った。どんな顔をして会えば良いか分からない。その解答を得ぬままやって来た万里は、やはり曖昧な表情にならざるを得なかった。
「待たせてすんません」
「ううん、全然。俺もさっき来たところだから」
押し花があしらわれた栞を挟んで本をパタンと閉じると、肩掛けのエコバッグに無造作に放り込む。この人、意外とガサツなのかもしれない。万里は紬の印象を今日もひとつ更新した。じゃあ行こうかと改札の方にさっさと歩き出した紬の背をため息混じりに見つめ、万里も後を追った。

天鵞絨駅から15分、降り立ったのは、急行が止まらず、商店街もない小さな駅だ。そこから徒歩5分、細長いビルの狭い階段を上った先は、思いのほか解放感のある空間だった。ナチュラルな木目を基調とした調度品は、柔らかな統一感がありつつも、ひとつひとつにこだわりが感じられる。緑が多く、BGMは絞られていた。
席の間隔が広めにとられているので、ゆったり寛げそうだ。カウンターの奥には焙煎機が備え付けられていて、店内で豆の量り売りも行っているようだった。
ブレンドがおすすめなんだけど、玉子サンドもすごく美味しいんだよ。メニューをこちらに向けながら、とっておきの内緒話でもするように、向かいの大人は嬉しそうに目を細めた。
ブレンド二つと玉子サンドを一つ注文した後は、自然と旗揚公演を控えた冬組の話題になる。
衣装合わせで羽が重すぎて立っていられなかったと、恥ずかしそうに語る姿はどこか頼りなげで、本当にこの人が、あの個性派揃いのメンバーをまとめあげるリーダーなのかと疑わしくもある。
緊張しないのかと問うと、一瞬空色の瞳に雲がかかる。意地悪な質問だったかもしれない。
「緊張するよ。するに決まってる。失敗する夢を見て怖くなるときもあるし、震えが止まらなくなることだってある。特に今回はカンパニーの進退を決する、大事な公演だしね。でも、俺はもう逃げないって決めたから。俺は俺の芝居で、冬組らしい芝居で、お客さんに選んでもらいたい。あのメンバーと、カンパニーの仲間と、ずっと板の上に立っていたい。だから、そのために出来ることは全部やりたいんだ」
伏し目がちの、柔らかい表情とは裏腹に、不安すらも飲み込んで舞台で咲こうとするその強さは、目が眩むほどの輝きと熱さを持って、万里の心臓を撃ち抜いた。
「なんてね。ちょっと格好付けすぎちゃったな」
「いや、紬さんは格好良いっすよ。悔しいくらい」
ほろりと解けた言葉は、心の底からの感嘆の声だった。
万里くんの方が格好良いよ~とへにゃりと笑う。あぁ、この人にはかなわない。負けず嫌いの万里は、その日初めて白旗を挙げた。
知りたい。もっと。この人の深淵に、その熱源に触れてみたい。同じ景色を見てみたい。同じ空気を感じたい。
なぜ、俺はもっと早く生まれなかったのか、もっと早く芝居に触れなかったのか、もっと早くこの人に出会わなかったのか。どうしようもない思いは澱のように腹の底に沈んで行った。

運ばれてきたコーヒーは、優しい口当たりで万里には少し物足りなかったけれど、玉子サンドは確かに美味しかった。紬がそれはそれは幸せそうに頬張るものだから、三割増しで美味しく感じたのかもしれない。素直にうまいと感想を伝えると、口の端にパンくずをつけたまま、満足そうに目を細める。しばらく指摘しないでにやにやしていたら、口元を拭いながら早く言ってよと怒られた。
「アンタ、怒っても全然怖くねぇのな」
「俺が本気で怒ったら、すっごく恐いんだから。万里くんだって泣いちゃうよ、きっと」
泣かねぇよ。そんな他愛ないやりとりが、なんだかくすぐったい。さっきまで落ちていた気持ちが、今度は急浮上する。アンタはこんなに穏やかなのに、俺だけジェットコースターに乗ってるみたいで悔しい。そんなこと、絶対に言わないけれど。
「そういえばさっき、なんで声掛ける前に、俺が来たって分かったんすか?」
待ち合わせた時に気になったことを、ふと尋ねてみた。
「ふふふ、実は俺、エスパーなんだ」
んなわけあるかと万里が呆れて眉を潜めても、勿体ぶってなかなか教えてくれない。さっきの仕返しのつもりか、意外とガキっぽいことをする。
「教えてほしい?」
頬杖をついて、小首を傾げられては、万里は全面降伏するしかない。
教エテクダサイと棒読みで答えると、紬がにやりと笑った。そんな顔もするんだなと思っていたら、万里くんの真似だよと更に悪ガキっぽい顔をした。
なんで口に出してないのに考えてたことがバレたのか。この人、やっぱりエスパーかもしれない。
「全然似てねぇ」
「えぇ、結構自信あったんだけどなぁ。もっと練習しておこう」
「しなくて良い。で、なんでなんすか?」
「あぁ、回りの女子高生が、カッコイイって急に騒ぎ始めたからさ。なんだろうと思って顔を上げたら、たまたま万里くんと目があっただけだよ」
勿体ぶったわりに、何ということのないお粗末な理由だったので、万里はあからさまにがっかりした。
現実なんて、そんなものだよ万里くん。意地悪なリアリストが、ものすごく上から目線で諭すものだから、さらりと降りた前髪を捲りあげて、晒された額にデコピンを食らわせてやった。そんな泣きそうな顔しても騙されねーぞ。めちゃくちゃ手加減してるし、俺の好奇心を弄んだ罰だ。

今日の夕飯当番は臣で、寮では貴重なカレー以外にありつける日だった。お相伴に預かりたいから20時には寮に帰ろうと、早々に席を立った。玉子サンドを一人分にしたのもその為だ。
「今日のメニューはなんだろうね。玉子焼きかなぁ」
たまごたまごと、調子外れな自作の歌を歌いながら、ご機嫌な足取りで駅に向かう後ろ姿に飽きれる。まだ食べるつもりらしい。紬のコレステロール値が心配になる万里だったが、数年前に厚労省がコレステロールの摂取制限を廃止したんだと得意げに教えてくれた。そのニュースを見た時の紬を想像して、知らず万里の頬が緩む。それをどう解釈したのか、紬は振り返るとにこにこ笑って、カリフォルニアロールもあると良いねと、慈悲の心を見せた。
「そーっすね。紬さん、危ないからちゃんと前向いて歩いてください」
「大丈夫だよ。俺も大人だ……わっ!」
紬が、ぐらりとバランスを崩した。だから危なっかしいというのだ。反射的に腕を伸ばし、自身の胸に引き寄せると、抱き込むような恰好になった。
「ほーら、言わんこっちゃない」
「ありがとう。申し訳ない……」
腕の中にすっぽりと納まってしまう華奢な身体は、思いのほか温かい。離れがたくて、腕に力を込める。細い首筋に鼻を埋めると、うひゃと色気のない声が漏れた。夢の中では、あんなに色気が駄々漏れていたくせに。
「ちょっ、万里くん。くすぐったいよ、もう……万里くん?」
透き通った声は、どこまでも綺麗だ。滲むのは戸惑いの色だけで。
すっと息を吸うと、仄かなコーヒーの香りが肺を満たしていく。ぴたりと触れ合った先から、二人分の心音が加速する。そのどれもが心地良くて、苦しい。
遮断機のけたたましい音と、赤い点滅。
電車が、二人を待たずに通り過ぎていく。もう少し、あと少し、このままでいたい。
万里が顔を上げるまで、紬はじっとされるがままになっていた。青白い街灯の下、目元に差した朱に眩暈を覚える。
「電車、行っちゃったね」
どうしたのなんて聞かないこの人に、持て余す衝動の名前を教えて貰いたかった。
「紬さん」
「帰ろう、万里くん。玉子焼き無くなっちゃうかも」
乞うように伸ばした手は、柔らかな頬を捕らえる前に、絡め取られてしまった。
手を引かれ、紬に一歩遅れて歩き出した。少し汗ばんだ手が、じりりと万里の炎を揺らす。
踏切を渡って小さなエレベーターに乗り改札を通るまで、その手は繋いだままだった。

間もなく冬組公演が始まり、今回は裏方の万里も慌ただしい毎日を送っていた。
滑り出しは順調だった。紬と丞の二人が、舞台をぐいぐいと引っ張っていく。公演を重ねる毎に研ぎ澄まされていく芝居は、己ではまだ到達できない高みに思えて、万里は歯噛みした。
大道具の準備をしながら、舞台袖から見る清廉な横顔に、繊細な指先に、髪の毛一本一本に及ぶまで全身で演じるその姿に、抱く感情は憧れだけではない。
万里のスマホには、自身の趣味だけではない新たなカフェのリストができていた。冬組の公演が落ち着いたら、二人で一軒ずつ巡る約束は取りつけてある。味と品揃えは妥協せずに、緑が多く雰囲気の良い店を見つけるのは、なかなか難しい。さらにあの意外と我儘な男はこだわりが強そうだから、他にも注文が付きそうだ。二人の好みが合致する貴重な店を、いくつ開拓できるか、ガラにもなく万里は浮足立っていた。
そんな中、紬の芝居が大きく崩れた。前楽、MANKAI劇場での最後の公演のことである。
迷いは周囲に伝染していく。さすがに丞が絶妙にフォローしてなんとか最後までやりきったが、到底満足のいくものではなかっただろう。終演後の舞台を呆然と見つめるその横顔に、かける言葉はひとつも見つけられなかった。
劇場を出ていく紬の後ろ姿を、監督に促されて追いかける丞を、どうすることも出来ずにただ見送るだけだ。
こんな時に隣に居られない。それが万里はひどく悔しかった。
それは、嫉妬だ。

近付きたい。
隣にいたい。
頼られたい。
選んで欲しい。
触りたい。
笑顔も泣き顔も、どんなアンタも見せてほしい。
抱きしめて、全部、飲み込んでしまいたい。

うっすらと開いたカーテンのすき間からは、まだ暗闇が這い寄るばかりだ。枕元のスマホは午前4時を示す。
頭を冷やそうと中庭に出ると、レッスン室の明かりが目についた。予感のようなものに突き動かされ、窓からこっそりなかを伺うと、案の定、スウェット姿で佇む彼の後ろ姿がある。右手には台本、左手は虚空へと伸ばされ、何も掴むものがないと悟ったように、またゆっくりと下ろされる。張りつめた空気は、防音ガラス越しにも伝わってくる。そこはひどく冷たく淋しい場所に思えた。
踏み込むべきか、答えはもう決まっていた。

万里は部屋へ戻り、大判のストールと一昨日学校帰りに手に入れたチョコレートを持ち出すと、中庭を迂回してキッチンに向かった。さすがにこの時間に行き交う者もいない。
しんと静まり返った談話室の先、キッチンはひんやりしていた。
小ぶりな片手鍋に牛乳を注ぎ、時折かき混ぜながら、弱火で温める。暖まったところに、刻んだチョコレートと、インスタントコーヒーを少し入れてさらにかき混ぜた。甘い香りが、キッチンを満たしていく。十分に混ぜ合わさったら、マグカップに注ぎ入れ、シナモンパウダーを少しふりかけて完成だ。
少しビターなホットチョコレートが、彼をあの檻から連れ戻してくれたら良い。

「休憩、しませんか?」
振り返った紬は、向こう側からまだ完全に帰ってこられていないようだった。ぼんやりとした青碧の瞳が光を取り戻すまで、万里は辛抱強く待った。
「万里くん、なんで」
目が覚めちまって、と当たり障りないことを言い、壁際に腰を下ろす。隣に座るよう促すと、思いのほか素直にそれに従ってくれて、安堵する。マグカップを両手で受け取った紬が、良い薫りだと口許を綻ばせた。
ちびちびと口に運ぶうちに、背は無防備に丸まっていく。ストールを掛けてやると、マグカップに注がれていた瞳が、万里を眩しそうに振り仰いだ。
「甘過ぎなくておいしい。あったかい。至れり尽くせりだ。どうしよう、万里くんのホスピタリティがすごい。すぱだりっていうんだっけ」
「……至さんから変な言葉ばっか教わんないでくださいよ」
「万里くんは本当に良い子だね」
「子供扱いすんなよ」
「できないよ」
しないではなく、できないという言葉を選ぶ心理が知りたい。
今、触れそうなほど近くにいるこの人に、触れたら、少しは理解できるだろうか。伸ばした手が核心を掴む前に、ぽすんと万里の肩口に温もりが重なった。
「重い?」
「……鍛えてっからこれくらいヨユー。それ、溢さないようにちゃんと持っててくださいよ」
「ふふ、頼もしいなぁ」
心臓が、止まるかと思った。いや、一瞬くらいは止まったかもしれない。今、万里の胸で早鐘が鳴っているのは、恐らくその反動なのだ。
こんなにおいしいもの、勿体なくて溢せないよ。頭をこちらに預けたまま、紬がホットチョコレートを啜る。変なところで器用な人だ。
「ねぇ。前にさ、待ち合わせした時、なんで声かける前に万里くんが来たか分かったのかって、聞いたじゃない。女子高生が騒いでたっていうのは嘘じゃないんだけど、本当は俺、その前から分かってたんだ」
「なに、やっぱりアンタ、エスパーだったわけ?」
「万里くんて、意外と可愛いこと言うよね」
紬が目を丸くして笑う。馬鹿にされている気がする。
「万里くんが近くにいるとね、空気が変わるんだ」
「空気?」
「そう。背が高いとか、格好良いとか、お洒落だとか、そういうのだけじゃなくて、万里くんそのものが強い光みたいな、抗いがたい存在感を持ってる。華があるっていう言葉では足りないくらい」
触れあった場所から、優しい声が振動して染み込んでくる。斜め上から見下ろした長い睫毛がふわりと瞬いて、チョコレートの甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「君はすごく器用だから、どんな役でもこなせると思うけど、それとは別の次元で唯一無二なんだよね。誰にでもなれるのに、他の誰でもない、万里くんなんだ。そんな君が眩しくて、誇らしくて、羨ましくて、……悔しいなぁ」
渦巻く感情に不釣り合いな、今まで見た中で一番穏やかな表情だった。
「俺は俺の芝居でって、そう思いたいのに。お客さんのたった一言でまた自信がなくなって、確信も持てなくなって、もっと良くしなくちゃって思っても、どうしていいか分からなくて。昨日はみんなに、すごく迷惑かけちゃったな」
この人が目指す場所は、万里の想像を遥かに越えた高みにあるのだろうか。
「まぁ、アンタにはそれくらい悩んで立ち止まっててもらわねーとな」
「万里くん?」
「俺は、紬さんの芝居が好きっすよ。俺にはできない繊細な動きとか、緻密な目線とか、混じりっけない透明な声とか、ずっと芝居に向き合ってきたからこそ出せる説得力とか。俺は、アンタから芝居の底なし沼みてぇな奥深さと、怖さと、楽しさを教えてもらったと思ってる。今はまだ、一つも返せないのがすげーの悔しいけど。でもすぐに追いついて、絶対倍にして返してやる。だから。……なんで笑ってんですか」
「ううん、なんでもない」
なんでもなかったら、なんでにやにや笑っているのだ。人の心の機微には聡い方だと自負している万里だが、どうも紬の考えていることは分からなかった。
「すきだなぁって、思っただけ」
「は?」
聞き間違い、ではないはずだ。
「ちょっ、紬さん、いま」
「万里くん。俺、悔いがないように、全力でやりきるよ。だから、俺のこと、ちゃんと見ててね」
よし、と気合を入れて、勢いよく紬が立ち上がる。肩に掛けたストールは、へなへなと床に落ちた。
「稽古の続き、付き合ってくれるんでしょ」
「……お安いご用っすよ」
本当に、狡い人だ。