寡作すぎて病弱と噂されるミステリ作家の名を、月岡紬という。
しかし、噂は噂。実際のところ、紬自身は至って健康体だった。不摂生がたたって倒れた前科は多々あれど、同居人兼敏腕マネージャーの登場により、現在は生活状態も執筆状況も大幅に改善されている。紬自身はもちろん、編集部も、彗星の如く現れた彼の登場をもろ手を挙げて歓迎していた。
そんな作家と同居人が非常に深く親しい仲であることを知るのは、限られた人物だけである。彼らの幼馴染と、それから。
「摂津君⁉︎」
「お、高橋さんおつー」
なんでここに! と目を丸くしたのは、紬の担当編集者、高橋だった。彼女もまた、ふたりの関係を知るひとりである。
とある大型書店の、サイン会会場。階段の方までずらりと並んだ行列の中に、担当作家の同居人兼敏腕マネージャー兼恋人である摂津万里の姿を発見して、高橋はつい声をあげた。
雑踏にいても人目を引く美形が、やたら着飾った女性だらけの列に並んでいるのだから、目立たないわけがない。しかし、周りの女性たちからの密やかな熱視線を一身に受けても、本人はいたって平静だった。万里は昔から見られることに慣れきっていて、すでに感覚が麻痺しているのかもしれない。
「なんでって、サインもらいに」
俺、月岡先生のファンなんで。そう言って、涼しい顔で藍色のハードカバーを翳してみせる。蛍光灯の光を受けて、タイトルをかたどった銀の箔がきらめいた。
彼の手にあるのは、紬の最新作だ。難事件に挑む探偵と助手のバディが話題になり、シリーズ化の後、本日めでたく単行本として刊行された。
今日は都内の書店を回り、サイン会を行なっている。どこも満員御礼の大盛況。予約部数も上々で、重版間違いなしと編集部も嬉しい悲鳴をあげているところだ。シリーズ誕生のきっかけが、紬と万里の出会いであり、助手のモデルが万里ということもあって、高橋はいよいよ万里に足を向けて眠れない。
「センセーには内緒な」
いつかと同じように、万里が口元に人差し指を立てて、高橋は内心ドキリとした。
この店が怒涛のサイン行脚の最終地点で、外はすっかり日が傾いている。朝からサインと握手に明け暮れ、紬の人当たりの良い笑顔にも、疲れが見え始めた頃だ。紬にとっても嬉しいサプライズになるだろう。高橋はコクリと頷いて、控室で待つ紬の元へ向かった。
「あ、高橋さん。お疲れ様です」
「月岡先生の方がお疲れですよ。一日連れ回してしまって、申し訳ありません」
コンビニで調達してきたミネラルウォーターを手渡せば、紬は疲労を丁寧に隠して、にこりと微笑んだ。この笑顔に値段をつけたら、給料何年ぶんになるだろうか。
「いえいえ。読者の方と直接お会いできる機会は貴重ですから。嬉しいし、俺自身も楽しんでますよ」
後光が見えるのは気のせいじゃない。菩薩か。いや、如来かと、思わず手を合わせたくなった。
そんな微笑みがマシュマロみたいなふわふわの笑顔に変わったのは、それから約三〇分後のこと。高橋は別の意味で、心の中でしっかり手を合わせた。
先生、摂津くん、今日もご馳走様です。
***
「もう、万里くん。来るなら教えてくれたら良かったのに」
乾杯のビールをひと口あおった後、ジョッキを端へ寄せながら紬が唇を尖らせた。店内には、懐メロといわれてもピンとこない古い歌謡曲が流れている。
「いーじゃん、たまには。月岡センセーやってる時の顔、見てみたかったし」
サプライズを成功させた万里は、上機嫌でだし巻き玉子を二つ紬の皿に取り分けた。
「高橋さんが妙にニコニコして控室に戻ってきた時点で、察しておくべきだった。恥ずかしい」
「なんで。格好良かったっすよ。新調したスーツも似合ってたし」
「え、そうかな」
おだてたわけではないが、紬は満更でもなさそうに、ふふっと笑う。それから、皿に盛られただし巻き玉子を小さな口に放り込んだ。
「あ、このたまご美味しい」
「チョロ……」
紬の向かいでやりとりを聞いていた至が、死んだ魚の目で呟いた。
「ちょっと丞、このふたりどうにかして」
「無理だ」
丞は、黙々と枝豆に手を伸ばした。ビールはすでに半分以下になっている。いろんな感情と一緒に、さっさと胃袋に収めてしまったらしい。
「ていうか万里さぁ、あんまり身内感出すとご希望の書籍編集部に回してもらえなくなるかもよ?」
それでも周りを牽制しておきたいという、健気で青臭い独占欲は可愛らしくもある。恋人になって二年経っても、相変わらず万里は紬に対して一途だし、紬は周りからの好意にすこぶる鈍感だった。
「ご忠告ドーモ、茅ヶ崎センパイ」
万里は来春、大学を卒業してMANKAI出版で働く予定だ。二年の年末バイトと三年のインターンを通じて、社内でもちょっとした有名人になっている。正式配属先は新人研修を終えて決定となるが、すでに内部では熾烈な争奪戦が繰り広げられていた。
至としては、年末バイトのときの働きっぷりを見るに、少女漫画部門が最適解と踏んでいるが、美容雑誌部門の雪白編集長や、経理部の古市部長の目にも留まっていると聞く。そういえばシステム部の卯木課長も、うちに欲しいと眼鏡を光らせていたとか、いないとか。
まぁ、ジョブローテーションが盛んな会社だから、希望を出し続けていれば、いずれは紬の担当編集者になる夢も叶うかもしれない。
「万里くんもいよいよ社会人になるんだね。しかもMANKAI出版なんて、なんだか感慨深いや」
至は、ふわふわ笑い合うふたりを交互に見つめて、それからレモンがかかっていない端の方の唐揚げに手を伸ばした。一口かじって、小さく息を吐く。いつから唐揚げに郷愁を抱くようになったのか。残念な記憶が芋づる式に発掘されそうなので、考えるのはやめておく。
紬のサイン会の話を肴に酒を飲み、三杯目のジョッキが乾き始めた頃、何気なくスマホをいじっていた至が「へ」と気の抜けた声を上げた。
「紬の新刊て、ドラマ化すんの?」
「え? そんな話は出てないと思うけど。どうして?」
「ネットニュースになってSNSがザワついてる」
ほら、と見せられたのは、普段紬が見ないタイプの、真偽もソースも不明の芸能記事だった。人気ミステリ小説、来春にもドラマ放送か。そんな煽り文には、確かに本日晴れて刊行された新刊のタイトルが添えられている。
「至くん。こういうのって、作者に後で伝えられたりするもの?」
「いや、ないでしょ」
顎に手を当てて眉間にシワを寄せた紬に、至が顔の前でひらひらと手を振る。「全文を読む」のボタンをクリックしたところで、今度は紬の隣でスマホを手にした万里が声をあげた。
「……あ」
「万里。あ、ってなに」
「あー、……いや」
明らかに言葉を濁した。なにかを察知した至は、記事全文に目を落とし、要旨を読み上げていく。
「えーと。サイン会会場に現れたワンレンの長身イケメンが関係者や作家と親しげに会話。メインキャラクターであるバディの探偵助手に雰囲気が似ていることから、キャストではないかとの噂。デビューを控えた新人俳優か。来年にもドラマ化されると予想」
あまりにも雑な考察と未来予想から、思い当たる人物が絞り込まれていく。紬の隣、丞の向かい、そして至の斜向いに座る男に。
「万里くん」
「摂津」
「万里」
「……うす」
三人分の視線を一身に受けた万里が、ジョッキに残ったビールを飲み干す。それから視線をぐるりと彷徨わせ、諦めたようにはははと乾いた笑いを零した。
「君だ」
「お前か」
「お前じゃん」
「俺っすね」
サーセン。とんだご迷惑を。バツが悪そうに頭を下げる万里に、紬は柔らかに微笑む。
「あはは、大丈夫だよ。来てくれて、本当に嬉しかったし」
「まぁただのネットニュースだろ。すぐに落ち着くんじゃないか」
「むしろ宣伝効果で有難がられるんじゃない?」
「だと良いっすけど」
実際、このニュースで話題になったおかげで、もともと好調だった売れ行きはさらに加速したらしい。完売店舗が続出し、晴れて重版出来となったと、後に高橋が菓子折りを持って万里を訪ねて来ることになる。
「ふふ。万里くんが役者さんかぁ」
「全然違和感ないよね」
「うん。すごく舞台映えしそう」
「あー、昔やらされたことはあんな。セリフ覚えんの早いし、結構向いてるかも」
とはいえ、人並み以上に器用にこなせるのは、なにも演劇に限ったことではない。その中で演劇を選ぶには相当大きなきっかけか、もしくは強引な勧誘か、運命的な出会いでもなければ難しく思える。
そう考えると、就職先に出版社を選んだこともまた偶然と必然と小さな選択と大きな転機の積み重ねなわけで、人生というのはなかなかに面白い。深夜の公園で紬に拾われたことを思い出し、万里は密かに胸が熱くなるのを感じていた。
「至くんも格好良くて、役者さんみたいだよ」
「たしかに、アンタ、顔だけは良いもんな」
「ありがとうね、紬。万里、お前は後でボコす」
「は? 今日も返り討ちにしてやんよ」
旧知のゲーム仲間による物騒なやりとりにもすっかり慣れた紬は、仲が良いなぁとのんびり言い放って、一瞬にしてふたりの毒気を抜いた。
時々繰り出されるこの紬の技が、大天使ツムエルの福音と一部界隈で呼ばれていることを、本人は知らない。
「芝居に特に興味はないけど、三食と寝床が用意された寮がある劇団とかなら、入ってみても良いかも」
食費と家賃が浮いた分、課金できるし。ブレない男に、万里と丞が同時にため息を吐いた。
「紬さんと丞さんは? アンタらも結構似合いそうじゃん」
特に丞は恵まれた体躯と迫力があって、舞台でも目を引きそうだ。幼馴染はふたりで顔を見合わせ、それから苦笑する。同じことを思い出したらしい。
「芝居との接点なんて、小学生のときの学芸会くらいか」
「クラスでお芝居をすることになってね。俺は昔から物語を空想したり文章を書くのが好きだったから、当たり前みたいに脚本担当だったし、丞は大道具だったよね」
「酒屋の子どもだから力持ちだろって、わけのわからないレッテルをはられて大道具になったことは覚えてるな」
黙々とトンカチを握る丞を想像して、万里と至は「あぁ」と納得の声を漏らす。
「まぁ実際、あの頃から丞は体格良かったし、力持ちだったからね。あの時舞台に立ってたら、人生変わってたかもしれないなぁ」
作家の本分で、紬は役者になった世界線を空想し始める。初めて立った舞台の楽しさが忘れられず、幼馴染とどんどん芝居にのめり込んで、ふたりして演劇バカと呼ばれるのだ。
中学、高校、大学。卒業したら天鵞絨町の有名劇団にふたりで入ったり。ちょっと順風満帆すぎるから、どこかで大きな挫折を味わったりするのかもしれない。それもまた糧にして、役者街道を邁進していく。なかなかドラマチックなストーリーだが、圧倒的に足りないものがあって、途中で考えることをやめた。
「でも俺が役者だったら、万里くんとは会えてなかったのかな。それは寂しいから、やっぱり俺、物書きで良かったかも」
なんてね。と冗談めかしながらも、自らの想像で丁寧に傷付いているのが見て取れる。万里はそっと手を伸ばし、艶のある藍色の髪をくしゃりとかき混ぜた。
「大丈夫だって。アンタが役者やってたら、俺も役者やってるって。アンタがどんな人生歩んでようが、絶対アンタに出会って、捕まえて、恋人んなってっから」
「万里くん」
「紬さん」
場末の居酒屋が突然甘ったるい空気に包まれて、至が呻く。
「ちょっとー、ねー、たーちゃぁん」
助けてくれと隣に視線を送れば、丞はいつの間にか注文していた四杯目のビールを、渋い顔で流し込んでいる。この酒屋の次男坊は、酒がなんでも流してくれると過信しているふしがあった。
「気持ち悪い声出すな、茅ヶ崎。あと、たーちゃんて呼ぶな」
「いいじゃん減るもんじゃないし」
「減る。確実に、何かが」
「えー、ケチ」
「アンタらも大概仲良いよな」
「うるさい爆ぜろリア充が」
悪態をつきながら、至は極限まで魚卵を避けた海鮮サラダをむしゃむしゃと頬張った。二人の世界は家でやれ。縁側じゃなくて、ちゃんと部屋で、玄関に鍵もかけて、窓も閉めておいてくれ。
「爆発するときも一緒っすよ、紬さん」
万里が見せつけるように紬の肩を抱く。
「あはは。あ、うずらの卵フライ頼もう。すみませーん」
それを振り払うでもなく、さも当たり前のように受け止めながら店員を呼ぶ紬の声が、懐メロを軽やかに越えていった。