4.月岡紬の憂慮
喉の渇きを覚えて目を覚ました。薄ぼんやりとした暗がりを手で探って、ヘッドボードの目覚まし時計のライトを点ける。時刻は零時をとうに回って、深夜と早朝の間に差し掛かっていた。
丞と別れてなんとか家に辿り着き、着替えもしないままベッドにダイブして、気付けば日を跨いでいたらしい。
また君がいない一日が始まる。どんなに辛くたって、やっぱり君がいなくても俺は、生きている。
年明けに新調したダブルベッドは、やせ型とは言え、平均身長を越えた成人男子が一人で使ってもそれほど広く感じない。二人で使うには少し狭くて、クイーンサイズにしようかとも考えたけれど、ダブルにしておいてよかった。広いベッドでこんなふうに目覚めるのは、ひどく心細いだろう。
ちょっと飲みすぎただけでこんなに感傷的になっているのは、まだお酒が抜けてないからだ。鉛のように重い身体を叱咤して、ベッドから這いずり出た。
冷蔵庫に常備された麦茶で喉を潤した。ここ数日は俺が作っているから、味はちょっと濃いめだ。万里くんは絶妙なタイミングでパックを抜き取って、美味しい麦茶に仕上げてくれる。
軽くシャワーを浴びて、じんと熱が篭ったような身体をタオルでごしごし拭いた。柔軟剤が少なすぎたのか、ちょっとゴワゴワしている。なんでも洗濯機に適当に放り込んでしまう俺と違って、万里くんはモノによって洗剤や洗い方を変えて、タオルだってふわふわに仕上げてくれる。
小腹が空いて、昨日のお昼の残り物を温め直して食べた。野菜の切り方、やっぱり俺は下手っぴだ。万里くんは、スマホで検索したレシピを一瞥しただけでお店で出されるような綺麗で美味しいご飯を作ってくれる。
チクリ、チクリ、チクリ。日常のちょっとした不具合に足を止めて、その度にそれを優しく埋めてくれた万里くんを思い出して、胸が痛くなった。そんなに長く離れてるわけじゃないのに、なんだか既に美化されてるような気がして、そこは腹立たしくもある。
万里くんだって授業をサボろうとしたり、ゲームばかりしてたり、俺が納豆を食べるとちょっと嫌な顔したり、勝手に俺のプリン食べちゃったり、眠いのになかなか寝かせてくれなかったり、するんだ。
全然完璧でも優しいだけでも、ましてや大人でもない。不完全で青くて、そんなところが可愛くって、愛おしい。
変な意地張ってないでさっさと仲直りしろ。じゃないと、後悔するぞ。別れ際に苦言を呈した幼馴染の言葉は、もちろん俺の中でも何度か生まれては消えていった。そんなこと言われなくたって分かってるよ、丞。でも。
俺から迎えに行けないのは、まだ許せていないからだ。彼を、ではなくて、俺自身を。
万里くんの将来に気を揉んでいるのは、俺のエゴだってことは分かっている。けれど、可能性の塊みたいな彼が、俺といることでその選択肢を狭めようとしていることが怖かった。
もっと広い世界を見て、どこまでも高みを目指してほしい、なんて高尚なことを思っていたわけじゃなくて、もっと漠然とした不安だ。それと同時に、俺の側にいるとすっかり決め込んでいることが、どうしようもなく嬉しいと思う自分がいた。
養ってやれるくらい、なんて簡単に言われて少し腹が立った。人一人養うのってそんなに簡単じゃないよ。でも、器用で才気溢れる彼なら、本当に簡単にやってのけてしまうのかもしれないとも思う。そして正直なところ、それもいいかなぁと、ちょっとグラッと来てしまった。こんなに辛い思いをして筆を取るくらいならいっそのこと、なんて。
そんなことを少しでも思ってしまった俺を、俺は許せなかった。
自分の仕事に正面から向き合ってきたつもりだし、簡単に手放せるものじゃないのに。ちょっと上手くいってないからって、安易に捨てて彼に寄り掛かろうとしてしまった自分が、顔から火が出るほど恥ずかしくて、仕方がなかった。
だから、あれはほとんど八つ当たりに近かったのだ。こんなこと言ったら、呆れられてしまうだろうけど。
俺の方が年上で大人なんだから、君がいなくても俺はちゃんと一人で立っていられるって、証明しないといけない。なのに、実際そう出来てしまうことが悲しくもある。
万里くんと出会って、自分が思っていた以上に面倒臭い人間だと知った。万里くんが優しいから、すっかり我儘になってしまったんだ。なんて、また君を言い訳にして。身勝手で傲慢で、こんなのちっとも大人じゃない。なのに、君を知らなかった頃の俺に戻りたいとも思えないのだった。
考え事をしながら淹れたコーヒーは、当たり前のように二人分。マグカップになみなみと注いでも、少し余ってしまった。一口飲んでみれば、深いコクが口の中に広がって、豊かな香りが鼻に抜けていく。この出来なら、舌の肥えたあの子もきっと美味しいと言ってくれるだろう。
「あぁ、会いたいなぁ」
あれこれ考えていたのに、口から滑り落ちてしまったのはやっぱり子どもみたいな願望で、たった一言溢してしまったら、それがすべてになった。
ぐるぐると考え込んでしまうくせに、動き出すのはほんの一瞬の衝動だったりする。きっかけなんて、そんなもので良いのかもしれない。
始発はもう動き出している時間だ。相変わらず鈍い身体を玄関へ連れ出して、スニーカーに足を通した。不格好な結び目は、なんだか俺たちみたいだ。解けないようにうんときつく結んで、白み始めた街に躍り出た。
駅まであと少しの、線路沿いの交差点。人通りはほとんどない。
赤信号のその先に佇む長身を見とめて、思わず頬が綻んだ。始発で帰ってくるなんて、君もなかなか必死じゃないか。
あのね、万里くん。俺は君がいなくても生きていけるけど、君といた方がずっとままならなくて、大変で、可笑しくて、暖かくて、楽しくて。そんな日々を、心の底から愛おしいって思うんだ。
物書きなのにうまく伝えられそうにない俺を、万里くんは笑ったりしないだろう。だから、ゆっくり話そう。コーヒーを淹れ直して、クッキーを添えて、縁側に二人で並んで。
青信号がこんなに待ち遠しかったことは、ないかもしれない。ほらまた、新しい俺を発見できた。これからもっと知らない自分を知って、たまに嫌になったり、怖くなったりしながら、それでもやっぱり君がいいってその度に思い知るんだろう。
信号が変わると同時に駆け出せば、あっという間に万里くんの腕の中。あったかくて、ちょっとお酒臭くて、笑ってしまった。