ふたしか、たしか - 3/5

3.摂津万里の言い分

 締め切り破り常習者から抜け出した作家先生とはいえ、なかなか筆が乗らない時もある。庭の手入れをいつも以上に丁寧にする。豪華な夕飯を作ってみる。大掃除を始める。離れて暮らす愛犬の動画を繰り返し再生する。そんな現実逃避をやり尽くした紬さんは、この世の絶望をすべて背負ったような悲壮感を漂わせて机に向かっていた。
 しばらく静観していたが、深夜零時を過ぎても一向に進んでいる様子がない。今日はこれ以上成果なし。寧ろ逆効果だ。明日に持ち越すべしと、敏腕マネージャーこと俺はそう判断し、すっかり弱りきっている背中を押してなんとか風呂に入らせて、その後ベッドに引き摺り込んだ。
 別に下心があったわけじゃなくて、とにかく休ませようと思ったんだ。
「けどさ、抱きしめたら、同じシャンプーの匂いがするのってなんだかくすぐったいね、なんて可愛いこと言うわけ」
「万里」
「そりゃ俺のムスコも黙っちゃいらんねーってなって」
「万里、その話はもういい」
「いや、アンタが洗いざらい話せって言ったんだろ」
「前置きが長い上に赤裸々すぎるわ」
 三行で言えと罵りながら、至さんは大盛りの唐揚げ弁当を頬張った。酒の買い出しのついでに近所の弁当屋で見繕ったものだ。大盛りになったのは、たまたま高校時代のクラスメイトだった咲也がバイトしていて、サービスしてくれたからだ。
 特徴的な赤毛と元気百パーセントの笑顔は健在だった。溢れんばかりの唐揚げ弁当を受け取りながら、やさぐれていた俺の心もなんとなくほぐれていて、マンションのエレベーターに乗り込んだ頃には、まあ至さんに話してみてもいいかという気になっていた。
 夜に唐揚げ弁当なんて、アラサーの胃腸を労る気はないのか。至さんはそう罵っていたくせに、赤毛のバイトくんからのサービスだと伝えると俺から弁当を奪い取った。それから、大天使の加護は享受するのだと訳のわからない事を宣う。どうやら、至さんも咲也と面識があるらしい。
 ボロボロになった仕事帰りに、あまりに邪気のないキラキラした目で、お仕事頑張っていて格好良いですね、いつもお疲れ様です、なんて声をかけられてすっかり咲也推しになったとかなんとか。
 ていうかこの人、夜食はピザ一択なんだから、唐揚げも大差ないだろうが。
「最初は和やかなピロートークだったんすよ。子供の頃の将来の夢、とか」
「あーお前、小学校の卒業文集に総理大臣って書いたんだっけ」
「……アンタは本当にどうでもいい事ばっか覚えてやがんな」
 至さんは実に楽しそうに、ニヤニヤしている。こういう時に幼馴染というのはすこぶる厄介な存在だ。いつ紬さんに、あまり褒められたものではない過去のアレコレを暴露されるかと、気が気じゃない。
 缶ビールをぐいと呷った。これ以上思い出すには酒の力が必要だ。
 昔は酒に飲まれてる大人を軽蔑してたところもある。けど、こいつの力を借りないとどうにもならない時があるってのも、なんとなく分かってきた。そんで、今が残念ながらその時だ。
 ぼんやりと虚空を見つめながら、あの日の夜を回想する。

「万里くんももう三年生かぁ」
 間延びした声はとろりと蕩けていて甘い。行為の余韻がさざなみのように、心地よかった。
「卒業したらやりたいこと、なりたいもの、何かあるの?」
 まだ具体的にどうこう考えているわけでもなかった俺は、まあ大企業に入ってほどほどに働くんじゃねーのと適当に返しながら、第二ラウンドにどう持ち込もうかと、邪な画策をしていた。
 汗でしっとりと張り付いた髪をくすって、丸い額にキスを落とす。細い腰に腕を回して、下から上へ背骨をひとつひとつ撫で上げていくと、滑らかな肩の稜線がひくりと揺れる。お誘いへの反応は上々だ。
 機嫌良く、薄く開いた唇に吸い付こうとした時だ。
 俺の健気な男心をすっかり無視して、紬さんは、この選択が人生を決めるんだからしっかり考えないとね、と進路指導のオッサンみたいなことを真剣な顔で言い出した。
 人生なんて大げさだ。新卒で入った会社で定年まで働く時代はとうに終わっているわけだし。
 ていうか正直、この話もう終わりで良くね? と思っていた。来年の話より、目の前の恋人と睦み合う時間の方が何倍も大切だ。俺、まだ若いんで。
「どんな仕事してっか分かんねーけど、とりあえずここから通えて、めちゃめちゃ稼げるとこっすかね。アンタを養えるくらいにはすぐになってやっからさ」
 だから今は安心して俺に身を任せてくれと、すっかりその気になっている中心をぐいと押し付ける。可愛い声を漏らした紬さんの、柔らかな唇を今度こそ奪おうとして近付くと、にゅっと伸びて来た掌に口を塞がれてしまった。
 明確な拒否。これはキツい。身体的にも、精神的にもだ。さらに追い討ちをかけるように、紬さんは宣った。
「君の将来の話に俺は関係ないでしょう。そりゃ俺は今日一行も……一文字も捻り出せなかった、作家というにもおこがましいポンコツだけど」
 流石に三行くらいは書いていると思ったが、まさか一文字も進んでいないとは思っていなかった。とはいえ、締め切りはそこそこ先なわけだし、そこまで卑下しなくてもいいだろうに。シャワーで落としきれなかった絶望が、背中から這い上がって来たのだろうか。
 それよりも聞き捨てならないのは紬さんが関係ないって話だった。
「関係ないわけねーだろ。俺はアンタの側を離れるつもりなんてねーし、もうアンタ含めて俺の人生なんすよ。これ、決定事項っす」
 勢いにまかせて、なかなか恥ずかしいことをさらっと言ってしまった。しかしこの際、羞恥は他所に置いておく。また変な虫が、この人の中で暴れまわっていると思ったからだ。
「君にはたくさん選択肢があって、これからいくらでも良い出会いだってあるよ。だから、一時の感情で安易にそんなこと言っちゃいけない」
 ほら、また訳のわからないことを言い出した。勝手に一時の感情とか、安易とか。
「アンタとの先のこと考えちゃダメだっての?」
「そうじゃないけど。君には君の人生がある。だからしっかり自分に向き合って……」
「ちゃんと向き合ってる。俺は」
「向き合ってない」
 食い気味に真っ向から否定されて、結局ここから平行線だ。だんだん口喧嘩みたいになってきて、仕舞いにあの人はベッドから飛び出してしまった。捨て台詞を残して。

「万里くんが居なくても、俺は全然大丈夫だし一人でも生きていける……ねぇ。まあ、紬の方が年上で仕事もしてるんだから、その通りでしょ」
 半分残った唐揚げを寄越しながら、至さんは半目でこっちを見た。
「いやまあ、そうなんすけど、そーじゃねーっつか」
 アルコールに侵食されつつある頭をガシガシかき混ぜる。
「あの人が俺とのこと刹那的に考えてるってのは、納得してねーけど、一応理解はしてるつもりなんですよ。それがあの人なりの逃げ道っていうか、落とし所なんだとしたら、それを崩してくのが俺がやるべき事で、できる事だとも思ってるんで。んで、俺らわりといー感じにやってきたと思うんですよ。だから、紬さんもちょっとは絆されてくれてんじゃないかと、楽観的に考えてたわけで」
「けど紬から、面と向かって突き付けられたと」
「っす。浮かれてた俺って、すげーダサいじゃないすか。なんならプロポーズ紛いのことまで口走った後でさ。腹が立つっつーか、とにかく恥ずかしくなってきて」
 ダイニングに紬さんの気配を残したまま、俺は何も言わずに家を飛び出していた。
「で、今に至ると」
「そゆこと」
 ビールを何本か空にして、今手にあるのは日本酒だ。意識的にではなかったが、ここに居ない人の好きそうなサッパリした飲み口のものを選んでしまったのが悔しい。
 やっぱり俺の生活に、あの人はもうすっかり溶け込んでいる。
「てかさ、紬に俺が養ってやるって言ったの? そっちの方が問題じゃない?」
 至さんが日本酒の瓶を持って、判決を下すように、裁判官の小槌よろしくドンと机を叩く。
「はあ? そこ?」
 思ってもみないところから責められて、飲みかけたグラスを置いた。
 別に、額面通り紬さんを養ってやろうと、強い意志があったわけではない。彼が辛い時に安心して寄り掛かれるくらい、経済的な面も含めて社会的に自立したいとは思っている。というのは後付けで、あの時の俺の本音は、「なんでもいいから続きしよう」に他ならなかった。
「紬はいつも必死で戦ってんの。原稿とか締め切りとか、期待とか評価とか、自分自身ともね。少しも手なんか抜かない真剣勝負。それに、それでお金もらってる。だってそうやって生計立ててきたプロだから」
 確かに紬さんはいつだって真摯に原稿に向かって居る。その姿勢は純粋に尊敬しているし、格好良いとも思っていた。
「それがさ、ちょっと上手くいってないときに、モラトリアム真っ最中の若造に適当にそんなこと言われてみ。こんな子供に庇護対象として見られるなんて、プライドだってズタズタだろうよ」
「そんなつもりは」
 紬さんの仕事を軽くみていたとか、蔑ろにしてたとか、そういうことは断じてない。……けど。
「しかもさ、さっさと話終わらせて二回目に持ち込もうとかしてたんじゃないの。紬が真剣に向き合ってる自分の仕事のことも、お前自身のことも軽んじられてるみたいで、そっちが許せなかったとか」
 どっと汗が噴き出した。つまり俺は紬さんの地雷を踏み抜いたのか。しかも、邪極まりない画策にうつつを抜かしながら。
「……ま、これは俺の勝手な想像だから。ほんとにお前の将来を憂えてるだけかもしれないし、全然違うとこに地雷が隠れてるのかもしれないし」
 痛すぎるところを突かれてフリーズしていた俺の肩をぽんと叩いて、至さんは胡散臭いほどの爽やかな笑顔を見せた。そんな顔されても全然嬉しくないし、なんの気休めにもならない。
 腰を上げてスマホを見れば、時刻は既に深夜。終電はとっくに終わっていた。
 歩いて帰るには流石に遠いし、向かいに座る運転手は既に飲酒済み。タクシーを拾おうとした俺をやんわりと至さんが止めた。
「今帰ったって、紬だって寝てるでしょ。とりあえず一晩頭冷やしてから帰れば。あと一泊くらい許してやるからさ」
 至さんは、俺ってば優しすぎる、と自己評価高めの賛辞を自らに送っている。渋々腰を下ろして、空になったグラスに日本酒を注いだ。
 明日、始発で帰ろう。傲慢で浅はかな暴言を詫びて、赦されるならもう一度、手を取って欲しい。てらいなく向けられる笑顔が見たい。雨音のように穏やかで、春の日差しのように暖かい声が聴きたい。細っこくて柔らかくない、けれどどこまでも愛おしい身体を抱きしめさせて欲しい。
 こんなに欲しいばかりで、あの人の優しさに甘えてるだけで、ちっとも格好がつかない。ダサくてバカみたいにままならなくて、なんて不格好な恋だろう。
 もっとスマートにやれると思っていた。こんな自分、知らなかった。けれど、知らなければ良かったとは少しも思えない。
 それもこれも全部紬さんのせいで、紬さんのおかげだ。やっぱり俺はあの人が良い。土下座でも泣き落としでも、この際いくらでもしてやる。
「さっきのさ、万里くんがいなくてもってやつ。それでも紬がお前と居たのはなんでだと思う?」
 格好悪い覚悟を腹にしまったところで、至さんがまた裁判官みたいな顔をしてこちらを見やった。
「あの人が優しいからっすか」
 証言台に立たされた被告の供述を、裁判官はそれはそれは冷ややかな視線で一蹴する。
「…お前、小学生からやり直して来い」
「義務教育で習いそびれたことってなんだよ」
「答え合わせは、明日本人として」
 がっくり肩を落としたまま、至さんは頭を振って、こちらに寄越したはずの唐揚げを一つ摘み上げて、口に放り込んだのだった。