ふたしか、たしか - 2/5

2.幼馴染の受難 —高遠丞の場合—

「つむ。……おい、つむ。それ何杯目か分かってるか? キャパオーバーだ。そろそろやめておけ」
 向かいに座る幼馴染からジョッキを取り上げようとしたが、どこにそんな力があるのか強引に奪い返され、三分の一ほど残っていたビールは、あっという間にその細っこい身体に吸い込まれて行ってしまった。
 これはアレだ。学生時代に何度か見たことがあるマズい飲み方の、いわゆるヤケ酒というやつだ。何が原因だったかは覚えてないが、とにかく面倒臭かったことだけは鮮明に覚えている。
 そして今は原因が原因だけに、余計に面倒臭いことになっている。
「うっ……ぐすっ、万里くん、怒っ……出て行っちゃった」
 泣きはらして真っ赤になった目から、またぽろぽろと涙が溢れてくる。テーブルの隅にあったナプキンを数枚取り出して差し出すと、律儀に礼を言って紬は目元をごしごしと拭った。
 金曜日の夕方、得意先への配達を終えて店に戻ると、蒼白な顔の幼馴染が奥の座敷で正座して待っていた。その只ならぬ様子に慌てた両親にせっつかれて、店番を家族に任せてこうして近所の居酒屋に連れ出したわけだが。
 ここは得意先で、俺自身も紬も馴染みの常連客だ。当然面は割れているわけで。さっきから周りの視線が痛いのは気のせいじゃない。気の良い大将なんてさっきからずっとそわそわしていて、紬が頼んだ厚焼き玉子は、サービスだと言って倍のサイズになって出てきた。
 酒屋の末っ子が幼馴染の作家先生を泣かせていた、なんて近所で噂になったらどうしてくれる。いや、たぶん確実になる。完全に入る店を間違えたと思っても、遅かった。
 紬が重い口を開いたのは四杯目のビールが空になった頃。
 曰く、摂津と喧嘩したらしい。なんだそんなことかと言ったら物凄く悲しそうな顔で見られて、こっちが悪かったと謝った。理不尽すぎるが、こいつは俺の罪悪感を的確に突いてくる表情を、絶妙なタイミングで繰り出してくるのだ。
 紬が摂津と付き合いだして半年くらいだろうか。まさか同性の、七つも年下の居候とそういう仲になろうとは一ミリも思ってなかったわけだが、側から見た限りではうまくいっているように見えた。
「まぁ、待ってればそのうち帰ってくるだろう。摂津だって本気でお前と別れたいわけじゃないだろうし」
 何度目かわからない慰めの言葉は酔っ払いには響かなかったようで、紬は深いため息をついて頭をふった。ため息をつきたいのはこっちなんだが、傷心の男にそこまで非情にもなれず、ぐっと堪えた。
「ううん、もう帰ってきてくれないかもしれない。俺、言っちゃったんだ。万里くんが居なくても俺は全然大丈夫だし、一人でも生きていけるって」
「そりゃまあ、お前の方が年上で仕事もしてるんだから、実際そうだろう」
 あまりに危なっかしい上に不摂生して倒れた前科もあるから、全然大丈夫とは思えないが。
「摂津だって、君がいないと生きていけないなんて言葉を喜ぶタイプにも見えないけどな」
 歳の差こそあれ、家主と居候という関係であれ、二人は対等に見えた。七歳下でまだ学生とはいえ摂津は成熟した振る舞いをするし、あまり束縛し合うような間柄にも見えない。
「そうなんだけど、そうじゃなくて」
 なんで俺がそんな恨めしげに睨まれなきゃならないんだ。抗議よりも先に、今度は顔を真っ赤にして俯いてしまった。
「その……ぷ……ぷろぽーず……みたいなものを断ってしまったというか」
「はぁ? プロポーズ⁉︎」
「ちょっ、声が大きいよ、丞」
 思ったよりも幼馴染と居候の関係は進んでいたらしい。
 あの赤飯事件(酔っぱらった茅ヶ崎のからかいを真に受けた紬が、摂津との関係が進展した証に重箱に入った赤飯を持って現れた事件だ。何も知らない両親が美味そうに食べている姿がいたたまれなかった)以来の衝撃につい声が出てしまった。ああ、周りの目が……。
「いや、正確には違うんだけど。万里くんも三回生になったし、そろそろ進路のことも考え始める頃でしょう。それで将来の話をしてたんだけど、ちょっとその中で意見の相違が出てきたというか。話してても平行線でさ、だんだんヒートアップしていって、口喧嘩みたいになっちゃって、それで万里くん……うぅっ」
 思い出したらまた泣けてきたらしい。史上最高に面倒臭い泣き上戸になってしまった幼馴染の頭頂部に、ため息を落とした。
「帰ってきて欲しいんだったら、お前から謝りに行けば良いだろ。茅ヶ崎のところにいるって分かってるんだから」
「……それは無理」
 何言ってるの丞と言わんばかりの、据わった目で睨まれた。なんなんだもう! 勝手にしろ‼︎ と、怒鳴り散らかさなかった俺を誰か褒めてくれ。
 ここは得意先。ここは得意先。おい、大将、そんな目で俺を見ないでくれ。
「俺、まだ許せてないんだ」
「摂津にそんなに酷いこと言われたのか?」
 柔和な見た目に反して頑固なこの男、納得いかないことはどこまでも突き詰めるたちではある。とはいえ、ここまで拗れるのは珍しい。
「ううん、違うよ。俺が許せないのは……」
 おいおい、そこで黙りこくってくれるな。もう訳がわからなすぎて、面倒臭さが限界を超えてきた。トイレに行くフリをして、摂津を呼び出そうとスマホを持ったが、酔っ払いは目敏くそれを察知したらしい。
「万里くんに連絡したら絶交だからね、たーちゃん」
 絶交って……、お前は小学生か。
「じゃあ俺にどうしろと」
 恋愛に淡白な印象だった幼馴染のこんな姿を目にする日が来ようとは思ってなかった。恋とはかくも恐ろしいものかと思う反面、その変化は好ましくも思える。ただし、俺に害が及ばなければの話だ。
 敗因は酒か。誰だこいつに酒を飲ませた奴は。俺か。俺のせいか。いやいや、断じて違う。おい、摂津。紬のことはお前に任せたはずだぞ、分かってるのか。早く戻ってきてこいつをなんとかしてくれ。
 無力な俺は、このタイミングで日本酒を追加した浮かれたヤツを前に項垂れ、ここにいない方の当事者に届かないSOSを送ることしかできなかった。