この夜を越えて

「お義父さん、……息子さんを僕にくださいっ!」
 隣で勢いよく頭を下げた恋人に倣って、紬も頭を下げた。空になったお通しの皿と半分ほどに減ったビールを交互に見て、頭を上げるタイミングを探す。うぅん、と重苦しい声が頭上、正確には右斜め前方から降りかかった。
「お前にお義父さんと呼ばれる筋合いはない」
 少しだけ目線を上げると、服越しでも分かるほど鍛え上げられた、上腕三頭筋が見えた。低い声は家長の威厳を感じさせる。が、彼は実家暮らし。酒屋の次男坊だ。
「ついでに、……紬」
「は、はい!」
 ぼんやりしていたので、急に矛先がこちらに向いて、つい焦ってどもってしまった。
「お前を息子に持った覚えもない」
「たーちゃ……父さん、なんでそんな事言うの。今まで俺のこと、大事に育ててくれたじゃないか」
「育ててない」
「父さん!」
 思わず立ち上がった、悲壮感たっぷりの息子こと紬と、険しい顔で腕組みしている父こと丞をちらりと見遣った後、万里が遠慮がちに口を挟んだ。
「この茶番、いつまで続けるんすか。言い出しっぺはさっきから、呼吸困難になってっけど」
 確かに、視線を左前方に向けると、くの字に折り曲がった身体がふるふると震えている。最早笑い声すら発することが出来ず、たまに咳き込んでいた言い出しっぺこと至が、やっと顔を上げて涙を拭った。
「いや、三人ともなかなか緊迫感があって良かったよ。特に紬は名演だった」
 茅ヶ崎監督にはご満足いただけたらしい。
「紬、褒められて嬉しそうな顔するな」
 丞が呆れている。謎の達成感を味わっていた紬は頬を摘み、上がっていた口角をぐいと引き下げた。
 仕事で遅れるという丞を待つ間に、いつもよりハイペースで二杯目を空けた至から、両親への挨拶の練習をしておけというミッションを与えられたのは、三十分前。遅れて到着した矢先、でかい息子もどきから父呼ばわりされた丞にしてみれば、何が何だか分からない状況だろうが、彼はわりとノリが良い。酒の席での至の悪ノリにすっかり慣らされているからなのだが。
「……俺で予行演習するなよ」
「丞の方が迫力あるんじゃないの」
「そうかもね。うちの両親、のんびりしてるから」
 そのDNAを存分に感じさせる具合に、のんびりと紬も同意する。だったらやらせんなよと喉元まで出かかった言葉を、万里はなんとか呑み込んだ。
「丞は驚かないんだね、二人のこと。もっと反対するのかと思った」
 眉間に寄った皺を指で解している丞を、至が意外そうに覗き込んでいる。
「摂津に紬のことを頼んだ時には、こんなことになるとは思ってなかったから、正直ものすごく驚いてはいるんだが。まぁ、俺がとやかく言うことでもないしな」
 向けられた視線は過保護な幼馴染のもので、紬はなんだかむず痒くなる。育てられてはいないが、間違いなく一緒に育って来た家族のような存在だ。
「ただ、勝手に家に上がった俺も悪かったけどな、とりあえず鍵は掛けといてくれ」
 そんな幼馴染の苦言に、もちろん思い当たることがあって、危うくビールを吹き出すところだった。紬はなんとか堪えたものの、隣では堪えきれなかった万里が、盛大に咽せている。いたたまれない気持ちで、背中をさすってやった。
「あらやだ、ナニしてたの二人」
 嬉々とした声が一択問題の答え合せを強いてくるのを、万里が涙目で恨みがましく睨んだ。
「未遂だ未遂。まだなんもしてねーっすわ」
「マジか。お前なら勢いに任せて一発二発済ませてんのかと」
「これでもすっげー大事にしてるんで。風評被害なんで、やめてもらえます?」
「おぉ言うねぇ」
 二人目の当事者を他所に、旧知のゲーム仲間は際どい会話を続けようとする。青ざめて良いのか、赤くなれば良いのか分からず、紬は口元を引きつらせた。
「二人とも、その話題やめない?」
「俺も幼馴染の生々しい話は遠慮したい」
 話どころか、現場に出くわしてしまった気まずさを思い出しながら、丞が苦い声を出す。幼馴染の同意を得た心強さに助けられて、紬は至を睨んでみる。が、にやにやと楽しそうに笑うだけである。
「えー、俺は気になるけど。進展あったら連絡よろ。赤飯炊いてお祝いしなきゃ」
「アンタ料理できたんすか」
「は?お前が炊け」
「もう、ほんとやめて……」
 紬はいたたまれなさに両手で顔を覆って俯き、丞は渋い表情でビールを呷った。
「んで、今日の飲み会の趣旨は何なんすか?」
 流石にこれ以上続けると後が怖いと踏んだ万里が、話題を変える。ドリンクメニューを開きながら、至はさっきまでの生気あふれる表情はどこかへ置き去りにして、肩を落として盛大なため息をついた。
「俺の慰労会」
「……は?」
「俺を、慰めて、労って」
 はよはよ、と冗談だか本気だか分からない、低めのトーンについていけない三人は顔を見合わせる。誰が踏み込むか目線で譲り合った結果、折れたのは紬だった。
「至くん、何かあったの?」
「……忘年会の幹事になってしまった」
「なんだ」
「それだけか」
 呆れる万里と丞に、至が恨みがましい視線を向ける。
「まぁまぁ、二人とも。俺も参加させてもらったことがあるけど、MANKAI出版の忘年会は規模が大きいから、大変そうだよね」
「紬ー! 分かってくれるのはお前だけだよ」
 テーブル越しに紬に縋り付かんとする至を、万里がさっと牽制する。セコムが増えたと舌打ちする至に、隣からも冷たい視線が注がれた。
「でも、そういうのって、新人さんとか総務部の人が担当するものじゃないの?」
「うちは、各部署の有志が集まって実行委員作ってるんだよ。有志って言っても誰もやりたがらないから、部長のご指名で若手に決まるんだけどさ、今年の新人が、まぁ気がきくタイプじゃなくて。コイツだけじゃ心許ないからって、運悪く教育係任されてた俺まで捕まっちゃったんだよねぇ」
「乙ー。つか、アンタの教育の仕方が悪かったんだろ。自業自得じゃね?」
「……万里、後でボッコボコにしてやるから覚えとけよ」
「至くん、万里くん、喧嘩はダメだよ」
「ゲームの話だろ。じゃないと、ボコボコにされるのは確実に茅ヶ崎の方……」
「うん、否定できないけど腹立つからやめて、丞」
 いやゲームでもボコボコにされねーし、という抗議を華麗にスルーされた万里の肩を、紬がポンと叩いて慰めた。
「というわけで、万里。うちでバイトしない?」
「何が『というわけで』なのか、一切分かんねーっす」
 急に白羽の矢が立った万里は、話の繋がりが見えずに訝しげな声を上げる。
「地獄の年末進行に向けて、増員予定のトコがあんの。ついでに忘年会準備も手伝ってもらえば、一石二鳥」
「はぁ? なんで俺が」
「お前要領良いから、仕事はソツなくこなしそうだし、お前ならバンバンこき使っても、俺の良心が全く痛まないから」
「ほぼ後者の理由だな」
「至くん、お箸で人を指しちゃいけないよ」
 丞の冷静な分析と紬の的外れな指摘に、至がわざとらしく咳払いをして、斜向かいに座る万里に返事を促す。
「断る」
 返事はもちろんNOだ。何が悲しくて、知り合いにこき使わにゃならんのか。それに、この男の容赦のなさは、ゲームのプレイスタイルにエグいほど表れている。
「いいの? 万里。男女問わず、月岡先生狙ってる人多いよ? 忘年会なんてさ、ちょーっとお酒入って気が大きくなっちゃった不逞な輩が、何しでかすか分かったもんじゃないよ? 紬はこの通りぽやぽやしてるし、そっち方面の危機感ゼロだよ? あっという間にホテルの客室に連れて行かれちゃって」
「俺モテたことないし、流石にそこまで鈍くないと思うんだけど」
「いやいや、去年大御所先生がグイグイ来てたの覚えてないの? 俺が助けに入らなかったら、マジでヤバかったよ」
「嘘……」
 確かにちょっと距離が近かったけれど、パーソナルスペースが狭い人なんだな、くらいにしか思っていなかった。その表情を正しく読み取った万里が、大きなため息をつく。
「クッソ……わーったよ、やりますよ」
「ッシャァッッッ!!」
 狙っていたSSRを単発で引いたくらいのテンションで至がガッツポーズをし、万里は乗せられたと分かっていても乗っかるしかなく、ささやかな抵抗で、舌打ちをした。
「安心しろ、万里。お前のポテンシャルを最大限に活かせる仕事を紹介してやるから」
 なにも安心できないが、かくして万里のバイト生活が幕を開けたのである。

 案の定と言うべきか、至の人遣いの荒さはとんでもなかった。それは、仕事量とか、そういうレベルの話ではない。至に紹介され、ものの五分で終わった軽すぎる面接の末に配属されたのは、編集部。しかも、少女漫画部門だった。バイト自体は週に三日、授業のない日の午後から行くことが多い。電話取次や来客応対から、コピー取りといった雑用、それから。
「摂津くん、もっとガッときて! ガッッと!!」
「はぁ……こうっすか?」
 ガッッてなんだと内心思いながら、手のひらをついていた白い壁に腕まで預けると、キラキラした目がその分近付いて、頭が痛くなる。
「わあぁぁぁああ、すごい! 美しすぎる顔面の破壊力がすごいヤバい語彙力無くす」
 腕の中できゃーきゃー騒いでいるのは、MANKAI出版少女漫画編集部が誇る超売れっ子看板作家さまだ。母親くらいの年の女性に壁ドンする日が来るとは、露ほども思わなかった。しかも仕事で。
 内勤だけかと思っていたら、陣中見舞いだの原稿回収だのと、やたら作家宅に向かわされるのは、きっと至の差し金だ。
 行く先々で、資料にするからと恥ずかしいことを言わされたり、やらされたりするので、体力よりも精神の消耗がとにかく激しい。作品のクオリティが上がるなら、犯罪以外はなんでもやると宣う編集者たちの手前、あからさまに嫌がるのも憚られ、ある程度のことは対応するようにしている。
 さすがに真っ赤なロープを持ち出して、縛らせてくれと言われた時は、身の危険を感じて断ったが。最近の少女漫画に、そんな過激なシーンがあるのかは謎だ。
「ちょっとセンセー、真面目にやってくださいよ」
「真面目も真面目、大真面目よ。やっぱり体験してるとしてないとじゃ、説得力が違うもの。ああぁぁあすごい。これはすごい。みんな! ちゃんと写真撮っておいてよ」
 自身もスマホを構えながらアシスタントに指示すると、パシャパシャと四方からシャッター音が鳴る。アシスタントって、こんなこともアシストしてんのか。
 ひとしきり撮って、満足した先生のお許しが出てようやく離れると、どっと疲れが襲ってきた。
「摂津くん、次はこのセリフ言ってみて!」
「あーすんません、次の予定詰まってるんで、今日はこれで」
 心底残念がる先生から出来立ての原稿を受け取って、メッセンジャーバッグにしまう。
「あら残念。でも、おかげで良いのが描けそうだわ。また来てね」
「っす。あざっした」
 先生とアシスタントに見送られ、逃げるようにマンションを後にした。今日はこれからあと二軒回るのだが、一軒目ですでに予定時間を三十分オーバーしていて、先が思いやられた。

 会社に戻り、各担当に原稿を渡し終えた万里は、重い足を引きずって休憩室に赴き、先客の姿にがっくりと肩を落とした。
「万里おつおつ。遅かったな」
 至から投げ渡された缶コーヒーをありがたく頂戴する。プルタブを引くと、コポンと間の抜けた音がした。
「あざっす。つーか、アンタまたここに居んのかよ。仕事しろ、仕事」
 営業部と編集部はフロアが分かれていて、各階に休憩室があるので、他部署の人間とかち合うことはあまりない。つまり、至は編集部フロアにわざわざ来ているという事になる。暇人かと突っ込めば、ひょろひょろした拳が襲ってきた。
「作家とアシさんのHPとMP全回復かつ、バーサク状態にするチート魔法で、原稿回収率爆上がりだって編集長が喜んでるらしいじゃん。やっぱり、なんとかとハサミとイケメンは使いようって言うもんね」
「馬鹿と同列にすんなっすよ」
「……イケメンは否定しないのな」
 可哀想な目で見てくるのはやめて欲しい。アンタだって、その外面を存分に活かしてるんだろうに。貰ったコーヒーをぐいと流し込んだ。甘すぎるが、今はそれが有難い。
「消耗がひどすぎて、俺の回復が追っ付かないんすけど」
「まぁ、そこは家で紬に癒してもらってよ」
 今朝、早朝から庭仕事に精を出していた恋人を思い出すと、じわっと温かくなる。さっさと帰って、ぎゅうぎゅう抱きしめたい。もう万里くん、なんて言いながら、ちょっと恥ずかしそうに背中に腕を回してくれるのが、それはもう可愛いのだ。
「うわ……お前、すっごくだらしない顔してるよ」
 自分で話を振っておいて嫌そうな顔をするのが解せないし、キモイとまで言われるのは、さすがに怒って良い気がする。が、抗議の言葉を吐く前に、至はするりと立ち上がった。
「さて、そろそろ休憩終わりー。今日十八時からミーティングな。よろ」
「うっす」
 あぁ、働かずにゲームだけして生きていきたいと、嘘のような本気をぼやきながら出ていく至を見送って、毒気を抜かれた万里は、スマホを取り出した。LIMEを起動して、紬に遅くなる連絡を入れておく。
「お?」
 すぐに既読がつくのは珍しい。紬のスマホは、鞄に入れっぱなしだったり、ダイニングテーブルに置きっぱなしだったりで、大抵携帯されていないのだ。手がブルブルと一瞬動いて、メッセージの受信を知らせる。
「わかった。おしごとがんばってね。……か」
 すぐに返信が来ることもすこぶる珍しかった。ひらがなだけのメッセージに、頬が緩む。遅れて添えられた、ピンクの鳥が厨二ポーズを決めているスタンプは、先日至からもらったものらしい。明らかに使い処が違う気がするが、本人はやたら気に入っているようなので、特に突っ込む気はない。
「うっし。仕事すっか」
 コーヒーを飲み干して立ち上がり、先ほどよりも軽い足取りで休憩室を後にした。

 忘年会実行委員の会議は、基本的に週一回定時後に行われる。定時と言う概念が薄い職場だが、バイトにも残業手当がきっちり払われるので良しとした。各部から上がった招待客リストのとりまとめから招待状作成、会場となるホテルと宿泊用客室の手配、ビンゴ大会の景品手配などなど、やることはたくさんあって、有志という名の寄せ集め集団には、とにかく荷が重い。ただでさえ、どこの部も人手不足で自身の仕事だけで手一杯なので、例年会議の出席率だって高くはないのだが。今年の実行委員、特に女性陣は、何やらやる気が満ち溢れていた。
 理由は言わずもがなである。
「この後、みんなでご飯に行くんですけど、茅ケ崎さんと摂津くんもどうですか?」
「俺たちこの後予定あるから、ごめんね。楽しんできてね」
 爽やかな笑顔を振りまかれた女性陣から黄色い声が上がり、万里は引き攣った口元を咄嗟に隠した。「キラキラ爽やか、でもちょっとミステリアスな王子様」キャラを完璧に演じる姿に、ゲーム廃人の影は一切見えない。
 社内一のイケメンが、タイプの違うモデルのようなイケメンを連れてきただけでも相当ザワついていたのに、休憩室で親し気に会話し、週一の会議の後はいつも一緒に帰って行く。しかもモデルのようなイケメンは、あの人気作家、月岡紬の同居人らしい。三人の関係はいったい何だと憶測と妄想が飛び交い、社内には有志による極秘調査チームが発足したとかしないとか。
 夜の街へと消えてゆく同僚を見送って、駐車場へ連れ立って歩く。もちろん予定があるというのは方便で、万里を自宅に送り届けると至はゲームをするためにさっさと帰るのが通例となっている。
「はぁーつっっかれた。ビンゴ大会の景品なんて、全部りんごカードでいいっての」
 車に乗り込むと、ネクタイを緩めていつもの干物モードが顔を出す。こっちの方が見慣れているのでいいけれど、社内とのギャップはいつ見ても凄すぎる。
「まぁ俺もそれで良いっすけど」
「とか言いつつ、植物園のペアチケットやら高級卵プリンなんて紬が喜びそうなもんをちゃっかりリストに入れてんだから、恐れ入るわ」
 イカサマするわけでもないし、それくらいの特権行使は問題ないだろう。万里は肩をすくめ、呆れる至を他所にシートベルトを掛けた。
 車は街に滑り出て、等間隔に並ぶ街灯を同じリズムで追い越しながら、夜道を走る。線になって後ろへ解けていく光を眺めて、助手席のシートに深く身を預けた。

「万里くん、おかえりなさい」
 リビングのドアを開けると、奥のダイニングテーブルでコーヒーを淹れていた紬が振り返って、ふわりと微笑んだ。ガウンの下に着ているぶかぶかのTシャツは、万里のおさがりだ。元々捨てようと思っていたものだから、すでに首元もヨレてきているのに、肌触りが好みらしく部屋着として愛用されている。そのサイズ感はいわゆる彼Tというヤツで、見るたびに万里がムラムラした気分を持て余していることを、紬は知る由もない。
「ただいまっす」
 肩に掛けたリュックをソファに下ろして、足早にリビングを抜ける。目の前にあるもこもこのガウンを抱き寄せると、ほろ苦い香りが、ささくれ立つ心もすんなりと受け止めてくれた。
「おつかれさま」
 穏やかな声が、耳朶を柔く撫でる。紬の声こそチート魔法のようで、すり減った万里の気力がぐんぐん回復していく。
 あやすようにポンポンと頭を撫でられて、頬にちゅっと軽い音をたててキスされた。嬉しいけれど、頬では物足りない。
「口にして」
「ふふっ、いいよ」
 両側から頬を押さえられて、首を傾けて赤く熟れた唇が近付いてくる。吸い寄せられるように、万里もそれを受け入れた。
「元気出た?」
「すっげー出た」
 紬は頬を染めながら、満足そうに目を細めた。
「ご飯温め直すから、手洗っておいで」
「自分でやるんでいーっすよ。アンタも締め切り抱えてんだろ」
「ふふふ、実は今一本上がったところなんだ」
 自慢げに胸を張る姿があまりに子供っぽくて、つい笑ってしまった。
 作家ゆえに、紬も地獄の年末進行とやらに踊らされている一人なのだが、小説の連載は季刊誌だけで、月の連載はエッセイが主なので、それほど切羽詰まった様子はない。今日は、趣味と実益を兼ねて園芸雑誌に寄稿しているエッセイが書き上がって、一息ついたところだ。
 万里はお言葉に甘えて、紬が用意してくれたロールキャベツとコールスロー、キャベツの味噌汁を腹に収めた。
 いつの間にか万里の存在は高遠家に知れる事となり、救援物資の頻度と量が倍増している。食べ物を粗末にできないからと紬が律儀にそれらを消費するので、単一品目づくしになることが多いのだ。今は絶賛キャベツ週間中で、万里特製ザワークラウトが冷蔵庫でかなり幅を利かせていたりする。
「今日は何させられたの」
 向かいでコーヒーを飲みながら、紬が好奇心を隠しもせずに問いかける。万里のバイトの様子を知りたいらしい。後学のためだとか言っていたが、清廉な文体が持ち味の月岡紬のミステリ小説で陽の目を見ることがないのは確実だ。
「壁ドン、顎クイ、あと跪いて王子様のセリフ言わされたり、いろいろ」
「あごくい……」
 新種の生物か何かを想像していそうな顔で、紬が鸚鵡返しに呟いた。
「忘年会の方はまぁ順調。紬さんも参加するんすよね」
「うん。万里くんは当日もお手伝いに入ってるんでしょ。頑張って働いてるところが見られるの、楽しみだな」
「最初の受付だけな。それが終わったら、後はテキトーに飲み食いして帰っていいらしいんすけど。アンタが来るとか、ちょっと参観日の気分……」
 え、俺お父さん? と紬がぼやく。そこはオニーサンで良いだろう。いや、恋人として来てくれるのが一番良い。このぽやぽやした男は、どうやら過去に不逞行為を働かれそうになったことがあるらしいので、牽制はいくらでもかけておきたいのだ。
「紬さん、飲み過ぎ注意な」
「俺そんなに酷い酔い方しないんだけどなぁ」
 ほら、やっぱり分かってない。万里はずいと身を乗り出した。
「顔赤くなって目うるうるさせるし、ちょっと舌ったらずになるから、エロいんすよ」
「え……、えろいの」
「そーそー。自覚して欲しい。頼むから、マジで」
 紬は後退って、椅子の背もたれにぴたりと張り付いた。
「大いに異論はあるけど、気をつけます」
「ん、そうしてください」
「あ、でも危なくなったら、きっと万里くんが助けに来てくれるんでしょ。それこそ少女マンガの王子様みたいな……って、あはは、ごめん。流石に二十六歳の男が少女マンガは無理が……」
 名案を思いついたとばかりに、背もたれから上体を起こして前のめりで話し始めたかと思うと、終着点を見誤って、声がどんどん小さくなっていく。
「そりゃ、アンタのピンチには即行で駆けつけますよ」
 存外真面目な響きに、俯いていた紬はいよいよテーブルに突っ伏した。濃紺の髪から、ちらりと覗く耳が赤い。
「それはその……、ありがとうございます」
 頭だけ持ち上げて万里を見上げた紬は、照れ隠しに盛大に失敗して、不貞腐れたような表情を作っている。
「ふはっ、なんで敬語だよ」
「なんとなく。……万里くんも、気をつけてね」
「俺は大丈夫っすよ。喧嘩強ぇし、よゆーよゆー」
「そっちじゃなくて。そんなに格好良くて優しいと、みんな君のこと好きになっちゃうでしょ。……なんで笑ってるの」
 万里は、ついニヤけてしまう口元を隠して咳払いをした後、ナンデモナイデスと棒読みで答えた。嫉妬深いと自称していたが、こんなに可愛い嫉妬ならいくらでもしてくれて良い。
「ま、俺のは紬さん限定なんで、問題無いっす」
 紬はソウデスカと片言で返すと、再びテーブルに同化し、物言わぬ貝となってしまった。
 丸い頭頂部をさらりと撫でて、ツヤのある濃紺の髪を一房すくう。手になじむ柔らかい髪が、同じシャンプーの香りをさせていることを知っている。小さく身動ぎした細い身体が、同じ食べ物でてきていることも。
「紬さん」
 呼びかける声が、堪らず熱っぽくなる。纏わりつく劣情を読み取って、紬の肩がぴくりと揺れ、また少しだけ顔を上げた。
「万里くん、あの、俺……」
 その先は聞かなくても分かる。もう少し待って、と言ったあの時と、同じ顔をしたからだ。咄嗟に伸ばしていた手を引っ込めた。
 一つ屋根の下に恋人同士で暮らしていれば当然訪れる、良い雰囲気というやつに待ったをかけたのは、紬だった。乱れた着衣を整えながらベッドの上で改まって正座した紬に倣って、万里も膝を突き合わせる。それから意を決したように紬が口を開き、遠回しに何度も口籠りながら、平たく言うと「俺は抱かれる側なんだよね」という確認をした。
 完全にそのつもりでいた万里は、その時やっと気付かされたのだった。お互いこれまで恋愛対象は異性だったから、どっちが上だ下だみたいな話にはなりようもなかったのだが、今回はそこに意思のすり合わせが必要なのだということに。
 アンタを抱きたいという万里の正直な返答に、紬はやっぱりそうだよねぇと困ったように笑った。それから、少し待って欲しいと申し出られて今に至っている。少しってどれくらいだと思いつつ、別に急かすつもりもなかったので、その申し出に頷いたのだけれど。
 そもそも、紬がどっちのつもりだったのかを、先に聞いておくべきだった。大人しく待てば待つほど、紬は年上だから折れてくれているんじゃないかという不安めいたものが、万里の中でむくむくと大きくなっていく。けれど、今更紬の本心を聞こうとしても難しい。まして、繁忙期中の作家に余計な気を遣わせるのも、本意ではなかった。
「ごめんね」
「謝んなくて良いっす」
「うん」
 紬が頬を緩めて拙く笑った。

「俺すっごくモテないんだよって、……やっぱ嘘だよな」
 黄色い声の方に目をやれば、着飾った妙齢の女性陣に囲まれている男が、人好きのする穏やかな笑顔を振りまいていた。着慣れてないんだよね、なんて笑っていたくせに、ダークスーツをさらりと着こなした痩身は洗練されている。普段カジュアルな格好が多いので、これは所謂ギャップ萌えというヤツだが、今はそれどころではない。
 紬に待ったをかけられたまま迎えた今日は、MANKAI出版の忘年会当日である。開始十分前に会場入りして受付を済ませた紬は、入り口付近で早々に女性陣に囲まれ、長ったらしい会長挨拶が終わった今も、ちらほらと顔ぶれを変えながら同じ状況が続いている。間に入りたいものの、万里はすっかり人の出入りが疎らになった受付に、未だ張り付いていた。こちらも入学式以来の着慣れないスーツ姿だ。
「別に嘘じゃないでしょ。人からの好意に鈍感なだけで」
 独り言を拾われて、万里は聞こえるように舌打ちした。クライアントとの挨拶がひと段落ついたらしい至が、いつの間にか隣に立っている。あんなにあからさまなのに気付いてないとか、鈍感にも程がある。
「おー怖っ。そんな余裕ないカレシだと愛想つかされちゃうよ?」
 ケラケラと笑う至を睨みつけても、独占欲丸出しだの、若いねぇだの、好き放題言われる始末だ。しかし、こればかりはどうしようもない。有象無象に取り囲まれたあの人は、紛れもなく。
「……男なんだよな」
 紬の横顔を見ながら、ついほろりと零してしまった。儚げな雰囲気すら纏う姿は、万里の隣に居ると華奢さが先に立つけれど、成人男性の平均以上の上背はあるし、筋張った手は明らかに男のそれである。
「何を今更。あ、未遂で終わったのって、いざって時に萎えちゃったからとか?」
「いや全然。俺のオカズは最早紬さんだけだし」
「そこまで聞いてないんだけど」
 おっしゃる通り。答えなくても良いことまで口走ってしまったのは、実際余裕がないからだった。
「俺は男で、あの人も男なんだよなーと改めて実感してるとこなんっす。やっぱ男に抱かれんのって、抵抗あるよな」
「え、紬が拒否してんの?」
「いや、拒否っつーか。ちょっと待って欲しいって言われて……」
 至は目を丸くして、紬と万里を交互に見て、それからはぁと大きなため息をついた。
「それで大人しく待ってんの。お前、時々びっくりするほど馬鹿で、引くほど真面目だよね」
「はぁ? 喧嘩売ってんすか」
 至が盛大に二度目のため息をついて、万里をいなす。
「意外と、待ってるのは紬の方かもよ?」
「根拠は? どぎメモ以外で」
「ない」
「んな適当な……」
 あまりに無情な言葉に万里は肩を落とした。まぁ頑張れよと、緩い声援を送って去っていく至の後ろ姿を恨めしげに睨んで、万里もなんとか仕事モードに切り替える。
 そう、とりあえず仕事、仕事。紬の前でサボってる姿など、見せるわけにはいかない。エレベーターから降りてきた新たな客を迎え入れるべく、背筋を伸ばした。

 早々にお役御免となったはずが、会場に入った途端、やたら話しかけてくる老若男女をあしらうのに忙しく、一息ついたのはビンゴ大会をつつがなく終えて、会場の雰囲気が一気に緩くなった頃だった。この後は暫く歓談が続き、お偉方の挨拶から一本締めでお開きとなる。
 そんな中、きょろきょろ辺りを伺うが、探し人が見当たらない。さっきまで上機嫌でビンゴ大会で引き当てた高級卵プリンを眺めていたのに、酔っ払いに絡まれている間に見失ってしまった。
 なんとなく胸騒ぎがして会場の外へ出たところで、尻ポケットに収めたスマホが震えた。紬からの着信だ。
「紬さん‼︎」
「あ、万里くん? あのね」
「今どこ?」
「えっと……」
 もごもごと口ごもる紬に先を促すと、このホテルの客室の部屋番号を伝えてくる。
「は? なんでそんなトコ居んの。アンタ泊まる予定じゃなかったよな。誰と一緒?」
 つい険しくなる声に、電話口の声が詰まった。
「とにかく、そっち行くから! 待ってろ」
 電話を切って、通りかかった至に抜ける旨を伝えると、丁度降りてきた客室フロアへ向かうエレベーターに飛び乗った。
 何度か止まるエレベーターにイライラしながら思案する。酩酊している様子はなかったから、知らずに連れ込まれたわけではなさそうだ。去年言い寄って来た大御所とやらか、さっき取り囲まれていた中の誰かか。
 人の好い彼の事だ。断り切れずに客室に連れ込まれてしまうことは十分にあり得る。だから気をつけろと言ったのに、と今更そんなことを言っても仕方がない。
 とにかく第一に、彼の貞操を守ることが最優先事項だ。
 チン、と軽い音を立てて止まったエレベーターのドアが、ゆっくりと開くのを待つのももどかしい。隙間から滑り出て、目的の客室へ急いだ。
 絨毯敷きの広い廊下の突き当り、先ほど紬が告げた部屋番号を確認してから、インターホンの存在も忘れて思いきりドアを叩いた。
「紬さん! 紬さん‼︎ つむ……っうわ!」
 オートロックの扉は間もなく内側から開き、中からにゅっと出てきた手に腕を掴まれたかと思うと、強い力で引きずり込まれる。
 ドアがパタンと閉まり、廊下はつい今しがたの騒動などなかったように、しんと静まり返った。
 ドアを隔てた内側では、万里が濃厚な口付けによって黙らされていた。首に巻きついた腕に強く引き寄せられ、喋ろうとしても絡みついてくる舌がそうさせない。
「つむっ、んんっ……っ」
 細い腰を抱いて反転させた身体を壁に貼り付けると、ようやく唇が離れていく。
「万里くん、落ち着いて」
 言い聞かせるような声音に、はたと周りを見渡せば、ダブルベッドが置かれた部屋には、ほかに人の気配がない。
 それから、やっと目の前の青い瞳に行き着いた。
「紬さん、何……」
「ここ、俺がさっき自分で取った部屋だから」
「……は?」
「ツインは全部予約で埋まっちゃってて、ダブルしか取れなかったんだよね」
 いやそういうことではなく。力を無くした腕から紬がすり抜けて、ベッドに腰掛けた。
「万里くん、忙しそうだったから。落ち着いたら来て欲しいって、言おうとしてたんだけど」
「そ……っすか」
 よろよろと隣に腰を下ろすと、紬がくすくす笑い始めて、頬が熱くなる。
「助けに来てくれたんだ?」
「うっせーっすよ」
「俺、嬉しかったよ?」
 とんだ勘違いで、また無駄に恥ずかしい思いをしてしまった。こんな関係になる前から、どうにも紬のことになると思慮が浅くなっていけない。
 投げ出した右手に紬の左手が乗り、親指が甲をゆるゆると撫でていく。その手を掴んで引き倒すと、薄い身体はあっさりとベッドに沈んだ。
 濃紺の髪がシーツに散らばって、間接照明が青い目にオレンジ色を映す。誘われるままに唇を塞ぐと、背が微かに戦慄いた。
「俺はもう、待たなくて良いってことでいーんすか?」
「……うん」
 白いシャツの裾から手を差し入れる。適温に保たれた部屋とは裏腹に、焼け付くほどに熱くて、これが夢なのか現実なのか分からなくなってくる。
 小さく漏らす声すらも欲しくなって、また唇を重ねた。何度もキスをしながらベルトに手をかけたところで、あからさまにびくんと身体が震え、万里は思わず手を止めた。
 どうしても、拭えない違和感がある。
「なぁ、どういう心境の変化があったのか教えて」
「なんで」
「俺、今アンタが何考えてんのか全然わかんねぇから」
 両手を引っ張って、紬を起こした。上気した頬と乱れたシャツから覗く鎖骨のラインが艶かしい。
「万里くん、スーツ似合うね」
 何か言おうとしては口を噤む。それを何度か繰り返して、ようやく紬の口から出た言葉は、あまりに脈絡がなかった。
「そりゃどーも。アンタもイイ感じっすよ」
 会話にはとりあえず乗っかった。何か大事なことを言う時、彼はゆっくり遠回りをしながら話したがることを知っている。
「あはは、ありがとう。みんな噂してたよ。あの素敵な人、誰だろうって。こんなに格好良い子が俺の恋人なんだなって、誇らしくて嬉しくなっちゃった。けど、同時にすごく怖くなったんだ。たくさんの人を惹きつける魅力的な君を、俺はいつまで繋ぎとめておけるのかなって。それで」
「それでアンタは、俺を繋ぎとめるために無理して身を投げ打つ気になったってこと」
 さっき話をゆっくり聞こうと決めたばかりなのに、つい先を急いでしまう。
 余裕の無さが露見して勝手に居心地が悪くなる万里を、紬は笑ったりしなかった。違うよ、と静かに首を左右に振る。
「俺はこの先、万里くんとずっと一緒にはいられないのかもしれないんだって考えたら、今が堪らなく大切に思えたんだ。そうしたら、今すぐ君に触れたくなった」
 刹那的な恋を思って、紬が静かに目を閉じる。その目が写す未来を、万里は見ることができない。
「なんだよ……それ」
「別に悲観してるわけじゃないんだよ。俺は万里くんのことが好きだし、君が俺を欲しいと思ってくれるなら、全部あげたいってずっと思ってた」
 とん、と胸を押されて、今度は万里がベッドに沈んだ。馬乗りになった紬を見上げる。弧を描いた唇も、少し眇められた目も、悲壮感はなく、ただただ凪いでいる。
 長い指が万里の頬の輪郭をなぞり、唇に触れ、首筋に落ちた。ネクタイを緩めながらキスが降ってくる。
「でも、いざとなると、俺なんかで万里くんは満足できるのかとか、やっぱり男は無理だなって思われたらどうしようとか考えちゃって。万里くんは優しくて無理強いなんてしないから、それならこのままでいいかなって思ってたんだけど、やっぱりそれじゃ足りないや。もっと触りたい。もっと触ってほしい。それから、君と繋がりたい。俺だって、君が欲しくて堪らないんだ」
 シャツのボタンを自ら外して、ベッドに張り付いたままの万里の手を取ると、露わになった素肌に導いた。肌の熱さがじわじわと手に馴染んでいく。さわりと撫でると、紬は擽ったそうに身をよじった。
「万里くん、お願い」
 きて。淡い願いは互いの口腔に消えていく。身体を反転させて、もう一度紬をベッドに縫い付けると、物欲しそうに開いた薄い唇を貪った。
「言っとくけど、俺はアンタを離すつもりなんてさらさらねぇからな。アンタが勝手に想像した未来なんて来ないんだってこと、俺が証明し続けてやる」
「……うん」
 それは誓いのようでもあり、呪いのようでもあった。耳に注ぎ込んだ言葉に、紬の頬に雨が降る。
 掠れた声が名前を呼んだ。今にも消えてしまいそうな儚さと裏腹に、背に回された腕が強く万里を抱く。もう、言葉はいらなかった。
 キスを繰り返しながら、互いの服を剥ぎ取っていく。スーツが皺になる前に吊るしておかないと。そんな理性も全部、まとめてベッドの外へぞんざいに投げ出した。
「ん……」
 あらわになった肌に吸い付けば、首元に赤い花が咲く。すぐに消えてしまうこんなものが嬉しくて仕方くて、可笑しい。支配したいとか、所有したいとか、そういうわけじゃないのに。彼に赦されたという密やかな証が、ひどく愛おしかった。
 ベルトに手を掛けて下着ごとスラックスを引き剥がすと、中心は確かに首をもたげ始めていた。
「良かった、勃ってる」
「言ったでしょう。俺だって、君が欲しいって」
 心底ほっとする万里に、紬は呆れた声を返した。それから片膝を浮かせて、太腿で万里の屹立をぐいと押し上げる。それだけでもキツいのに、侵入してきた掌が竿をそろりと撫で上げて、思わず声を上げた。
「ちょ……つむぎさっ、はぁ」
「君も、一緒だ」
 うれしい。そう溢すいじらしさに堪らなくなって、万里も慌ただしく下衣を脱ぎ捨てた。
 互いの性器を擦り寄せて、柔く扱き上げる。組み敷いた細い腰が妖艶に揺れた。
 こんな風に誘っておきながら、無垢な瞳は助けを求めるように万里を映すのだ。そのコントラストにくらくらと目眩がした。
 すっかり立ち上がった先端からは、とぷりと先走りが溢れる。滑りが良くなって一層速さを増せば、快感が背筋を駆け上がり、限界は一気に近付いてきた。
「やべーかも。すぐイきそ」
「ん、……はッ、お、れも……」
 縋る腕に抱かれて、オレンジに染まった虹彩に導かれるようにまた唇を合わせる。くぐもった声すらも、必死で貪りあった。
「あ、ぁ、はっ、……ばんりく、…あ! イく、……あァ‼︎」
「くっ……!」
 細い身体をがくがく震わせて、紬の欲が弾けた。それから後を追うように万里も果て、二人分の白濁が紬の腹を汚す。
 激しく上下する胸に頭を預けて、万里は深く息を吐いた。とくとくとく、早鐘を打つ心音に急かされるように、果てたばかりの自身がまた芯を持ち始める。最近忙しくて抜いてなかったとはいえ、あまりに落ち着きがない。鎮まれ、と念じながら、数度深呼吸を繰り返す。
 そんな苦労を知ってか知らずか、背に回っていた腕が解かれ、万里の両頬を挟んだかと思うと、強引にぐいと引っ張り上げられた。
「ねぇ、万里くん」
 さいごまで、しようね。
 耳元に届いた囁きは、甘さよりも強さが滲んでいた。清々しいほどの、アンタの覚悟。
「はは、男前すぎて泣けてくるわ」
「え? 嫌だった」
 本来、受け入れるように作られた身体ではないから、身体的にも精神的にも、受け入れる側の負担が大きすぎる。だからこの行為が、本当に恋人の営みになり得るのか、この人や、この人との関係を壊してしまうんじゃないかと、どこかで怖さを感じていたのかもしれない。万里自身も気付かなかった躊躇。それすらも受け入れてくれると言うなら。
「ンなわけねーだろ。惚れ直した」 
 覗き込んだ目は潤み、清廉な中に明らかな色が滲む。そんな目で俺を見てくれるのかと、感動すら覚えた。言葉で、身体で、求められる喜びを初めて知って、心が震えた。
「万里くん、……すき」
「俺も、好きだ。紬さん」
 アンタでよかった。アンタがいい。アンタじゃないと、だめなんだ。それが伝わるように、もう何度目か分からないキスに、拙い想いを込めた。
 欲望の残骸を塗り込めて、少しずつ身体を開いていく。すぐに快感を拾えるわけもなく、ならばせめて傷付けないようにと、丁寧に時間をかけた。
 思ったほど痛くないよ。三本の指が出入りするのを見ながら嘯いていた紬も、万里を受け入れる時はそう言っていられなかった。きつくシーツを握りしめ、額に汗を滲ませて、目尻には堪えきれなかった涙が滲む。それでも、嫌だとも止めてとも言わなかった。
「あ、……はいっ……た?」
「ん。全部、アンタの中」
 漸く辿り着いた最奥。肉襞が絡み付いて、万里をぎちぎち締め上げてくる。浅い呼吸のたびに蠢いて、搾り取るような動きが万里を性急に追い詰めた。
「万里くん。ちゃんと、気持ち良い?」
 溢れた涙がこめかみを通って深い藍色に溶けた。滑らかな頬に指を這わせば、健気に擦り寄ってくる。
「すげー気持ち良い」
 紬は、万里の形を確かめるように、下腹あたりを優しく撫でた。
「良かった。……君が、気持ち良くなれる俺で」
 ほっと息を吐いたこの人も、赦されたかったのかもしれない。誰にともなく。
 堪らなくなって、華奢な身体をきつく抱きしめた。
「アンタのこと世界一気持ち良くしてやれんのも、俺なんで」
「あは、負けず嫌いだなぁ」
 当然だ。だってこれは二人のセックスだろう。そうじゃなくちゃ、意味がない。
 すっかり縮こまった下肢に手を伸ばすと、紬が小さく喘いだ。やわやわ扱いてやれば、素直な中心は芯を持ち始める。
「……ぁ、あ、はぁ、……ん」
 もっと確信的な刺激を求めて、腰が妖艶にくねった。その艶やかな動きに合わせて、後ろも少しずつ抽挿の幅を広げていく。先走りを潤滑剤にして滑りが良くなった内側から、卑猥な水音が溢れては部屋の隅へはたはたと落ちていく。
「あ、……はぁ、は、ァ、……ッ」
 次第に荒くなる息遣いと、早鐘を打つ心音、肌と肌がぶつかる音。額から落ちた汗が紬の頬を伝う。とろとろに潤みきった目は、抱えきれないほどの情を携えていた。
 あぁ、繋がっている。身体だけじゃなくて、たぶん、心も。目の裏がじんと熱くなって、鼻の奥がツンと痛んだ。
「は、ぁ、……きもちいいね、ばんりくん」
「ん、さいこー。しばらくここから出たくねーかも」
 それは困る、なんてガチトーンで急に言うから、笑ってしまう。ムード返せよ。キスを強請れば、めちゃくちゃエロいのを返してくれた。そういうとこも、好きだ。
 抽挿を再開すれば、背中をびりびりと快感が駆け抜ける。追い立てられるように、ほどなくして昂る熱が中で爆ぜた。
「……っ! はぁ」
「あ、ぁッ! 中、出て……っひァ!」
 びゅ、びゅく、最後まで絞る出すように腰を打ち付ける。穿たれて揺れる屹立を扱き上げ、先を促すように先端を指先でぐりぐりと刺激する。
「あ、や、……ぁあ! は、……ん、アッ!!」
 性急に昂められて、紬もやがて絶頂を迎えた。
「……ッ!! あ、……は、はぁ、はぁ」
 しばらくは甘く痺れる余韻に身を任せて、互いを確かめるように抱きしめ合った。
「紬さん、ごめん。中に出すつもりなかったのに、つい」
 紬が万里の頭をぽんぽんと撫でる。顔を上げれば、すっかり蕩けた青い目が三日月の形を作った。
「俺に夢中で?」
「……カッコ悪りぃ」
「そんなことない。結構、嬉しい」
 物凄く恥ずかしくなって、紬の細い髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜた。うわぁ、と頓狂な声には色気の欠片もなくて。だから余計に、羞恥が募る。
「腹壊しちまうから、早く出そ」
 腰を引こうとした万里を、紬が引き止めた。
「うん。でも、もうちょっとだけ、こうしていたいな」
 なんでそういう事言うかな。そんなんだから、アンタに夢中になってしまうんだ。
「くっそ、狡ぃ……」
「ん、ごめんね」
 ちっとも反省する気のない言葉を吐いた口を塞いだ。薄く開いた唇からちろりと差し出された舌を吸い上げる。思いの外濃厚に絡み合って、上擦った声が溢れて、落ち着いていた火種がまたちりちりと燃え始めた。
「万里くんの、おっきくなってる」
「実況やめろ。ちょっと落ち着くまで、待って」
「いいよ、万里くん」
「……」
 耳に直接流し込まれた許容。そのあまりの甘ったるさに、意図を見失う。
「このまま、もう一回しよっか」
 これには負けた。完敗。万里は白旗を振って、どこかへ飛んでいく理性を見送った。
 すっかり固さを取り戻した自身で、ぐるりと内壁を抉る。これが俺の形。そうやって、教え込む。漏れる声は、喘ぎというより呻きに近くて、まだそこにあるのは異物感とか、圧迫感ばかりなんだろう。
 いつか後ろだけでイかせてやる。そんな邪で前向きな決意をして、戦慄く唇を親指の腹でなぞる。ハードモード上等。攻略は始まったばかりだ。二人で取りかかるには、それくらいで丁度良い。
 唇がふやけるほどキスをして、重ねた肌の熱さに汗だくで笑いあって、どろどろに溶けてしまうほど求めあって、二人で長い夜を越えていく。
 その青い目が映すのはどんな未来でもなく、ここにいる万里だけなのだ。
 今はもう、それだけでよかった。

 動き出した都心の喧騒を眼下に眺めながら、万里はインスタントコーヒーを啜った。気怠さを纏った身体は、まだ夜の中にいるようだ。
 ホテルのモーニングは諦めて、近場のカフェでブランチにしようかとスマホを見ていると、シーツにくるまって寝息を立てていた愛おしい塊が、もぞもぞと動いた。
 少し声をかけたくらいでは目を覚まさないだろうと思っていたが、どうやらお目覚めらしい。むくりと上半身を起こし、半分ほども開いていない目で万里を捉えると、へにゃへにゃと笑った。
「おはよう、万里くん」
「はよっす。身体大丈夫っすか? どっか痛いとことかない?」
「コンタクト外し忘れてたから目がゴロゴロする。他は……大丈夫だよ」
 まだ万里くんが中にいるみたいだけどね、と言って頬を染める。朝からなかなか下半身を刺激してくるじゃないか。
「なぁ、紬さん」
 ベッドサイドに腰掛けて、剥き出しの肩を抱く。色めく声を敏感に感じ取った紬は、やんわりと万里の手を解いてしまう。
「だーめ。俺、ここのモーニング食べてみたかったんだから」
「マジかよ。モーニングに負けた」
 天を仰いだ万里に、このホテルのモーニングは今しかないのですと、紬がいたずらっ子のように笑う。
「だって、万里くんはいつだって一緒にいてくれるんでしょ?」
「……とーぜん」
 そう言われてしまえば、他に言えることは何もない。
 満足げな微笑は、朝の光を浴びて凛と咲く花のようだった。