ふたりぐらし - 3/3

3.今日も、明日も、明後日も 

 きんと冷えた空気を裂いて、万里は夜道を走っていた。時間は二十二時過ぎ。我ながら何をやっているのかと思うが、それでも足は止まらない。駅の反対側の目的地へ、最短ルートを取って駆け抜けていく。
 紬は預かった。返して欲しくば……というメッセージとともに、一枚の写真が送られてきたのは、ほんの数分前のことだ。
 斜め上のアングルから撮られた写真には、ビールジョッキ片手にテーブルに突っ伏している丸い後頭部が写っていた。それは紛れもなく彼のものであって、尚更なんでアンタからそんなLIMEが送られてくるんだと、万里の頭上に疑問符が飛び交った。
 送り主は、万里の幼馴染にしてゲーム仲間、強い姉に虐げられている同盟の茅ヶ崎至である。同居人が今日飲みに行くと言っていた相手が、旧知の仲の至であった驚きも、どういう関係なんだというモヤモヤも後回しにして、素早くフリックして、どこにいるのかと問う。
 すぐに、駅前にある居酒屋の位置情報が送られてきた。添えられたのは、「三十秒で支度しな」というメッセージ。どこぞの空賊より十秒早いじゃねぇか、鬼か。
 悪態をつきながらコートを羽織った万里は、鍵とスマホを掴んで、闇夜に飛び込んだのだった。

 紬とカフェに出かけてから、既に一月が過ぎようとしている。あの日以来、紬の態度はよそよそしい。
 最初こそ、頬を染めて目を逸らすなんていう、可愛いことこの上ない態度だったのだ。だから万里も、焦って詰め寄ることをしなかった。紬から向けられる感情が、自身が彼に対して抱いているものと同じだということは分かっているのだから、ゆっくりその態度をほぐしていけば良い。そんな風に高を括っていたのがまずかった。そしてまずいと気付くのも遅かった。
 じわじわとした変化は、万里の観察眼を鈍らせた。いや、柄にもなく浮かれていたのが敗因だ。まだ負けてねぇけど。とにかく、いつの間にか紬は殻に籠ってしまった。
 締め切りが近いと言って食事もろくに取らず、日がな一日書斎で原稿と格闘していて、ちゃんと眠れているのかも怪しい。締め切り前に原稿用紙にかじりついていることは、以前からあった。それでも、ふと空気が緩む瞬間があって、そこを狙っていけば休憩も、食事も、睡眠だって取ってくれていたのだ。
 それが今は、全く分からなくなってしまった。何かから逃げるように、白紙の原稿用紙を睨んで、ペンが走ることはあまりない。
 そう、あれは逃避のように見えた。話しかけても生返事が返ってくるだけで、とにかく寝かせようと、実力行使に及ぼうとしたら、今度は泣きそうな顔で放っておいてくれと拒まれてしまった。
 こんなに思い通りに事が進まなかったことはない。いっそのこと無理やり押し倒して、既成事実というやつを作って、すべて暴いてやろうかとも思ったが、辛そうに歪む紬の顔がチラついてしまえば、指一本触れることすら躊躇してしまう。そもそも人に拒まれたことなど初めてで、万里は途方に暮れていた。
 天岩戸の如き書斎から出てきた紬が、ちょっと飲みに行ってくるね、と言って出かけたのが今日のことだ。自分ではない誰かに頼るのかと思うと、嫉妬で血液が沸騰しそうだった。けれど、引き留める術を万里は知らなかった。

「万里、遅い」
「無茶言うなよ」
 店に駆け込んだ万里を見つけて、至は楽しそうに手招きした。向かいには完全に潰れている紬が、ぴくりとも動かずに、さっきの写真と同じ体勢で突っ伏している。
 紬の隣の席に座って、相変わらず手に持っていたらしいビールジョッキを取り上げて避難させる。
「おぉ、過保護が一人増えた。いいなぁ、俺もお世話してくれる要員を公園で拾いたい人生だったわ」
「アンタ、どこまで知って……。そもそもなんで至さんと紬さんが一緒にいるんすか」
 紬に触れることに内心どきどきしてしまったのだが、向かいの男にだけは絶対にバレたくないので、全力でポーカーフェイスを作った。
「お前、俺がどこで働いてるか知らないの」
「なんかの営業、くらいしか」
「俺に興味なさすぎじゃない、それ。うわ、引くわー」
 いや興味あったらもっと引くだろ。
 焦らすなと続きを促すと、無造作に椅子に掛けられたジャケットの内ポケットからパスケースを取り出し、手慣れた様子で一枚引き抜いた名刺を万里に寄越した。
「MANKAI出版……営業部」
「そういうこと。いやぁ、ビックリした。丞にお迎え頼んだら、『そういうことは摂津に任せてる』って言われてさ。まさか紬が言ってた、格好良くて、背が高くて、優しくて、笑うと年相応に可愛くなる大学二年生のバンリクンが、お前だったとは」
 至が少しだけ残ったビールを飲み干す。あまりのいたたまれなさに、万里も紬が残したジョッキをひっつかんで、炭酸の抜けたビールをぐいと呷った。
「そういえば、合法的に酒飲めるようになったんだっけ。おめ。俺もうちょっと飲みたい気分だからさ、付き合ってよ」
「いいっすけど、法犯して飲んでたみたいな言い方、やめてもらえます?」
 ちらりと丸い後頭部に目をやる。濡れ衣とはいえ、あまり聞かれたい話ではない。
「はは、見かけによらず変なとこ真面目だよね、万里は。流石、天下のT大生様だわ」
「それ関係なくね」
 ただ興味が湧かなかっただけで、別に真面目というわけでもない。高校時代も、暇を持て余しては喧嘩に明け暮れていたわけだし。
 幼少期から、勉強も運動も、人一倍どころか人の五倍くらいできたものだから、何に対しても手ごたえを感じられずに日々過ごしてきた。今の大学に入ったのも、自分の学力で狙える最上位を狙ったにすぎず、将来何をやりたいとかどうなりたいなんて、考えたこともない。単調な毎日は、けれど悲観するほど酷いわけでもなく、ただ万里の心に隙間を作っていくだけだった。
 その隙間は、埋まらないと思っていた。ずっと抱えて生きていくのだと、思っていたのだ。あの夜までは。
 街灯が照らし出した、遠浅の海のような温かい青碧の瞳が、万里の日常を変えてくれた。今は固く閉ざされた青を思い描く。
 紬はいつも優しく笑うから、その瞳に映る万里も優しい顔をしているのだと気付いた時、じわりと心を満たした暖かさは、恋と呼ぶには穏やかすぎる感情かもしれない。
「はい、おつ」
「っす」
 ビールとレモンサワーで乾杯して、残った串をつまんでいると、至がしげしげとこちらを見つめてくるので、居心地が悪いったらない。
「なんすか」
「いや、コレが月岡先生のミューズかと思って」
「ミューズ?」
 似つかわしくない単語に眉を顰めた。
「紬が今取り掛かってる小説、新境地だーって高橋さんが息巻いてた。で、その主要キャラのモデルが万里、お前ってワケ」
「はぁ!?」
 危うく取り落としそうになったジョッキを、慌てて左手で支えた。そんな話聞いてない。平常心、平常心、と呪文のように脳内で唱えてみても、まるで効果がない。
「しかも本人は無自覚だったらしくて。指摘されて真っ赤になってる顔が、それはそれは可愛らしかったんだとさ。動画に撮らなかった己を恨んだとは、高橋女史の談」
 なんだそれ、俺も見たかったわ。インステに上がってたら、百万ええなでも足りない。いや、他人に見せたくはないから、言い値で買い取りたい案件だ。平常心は、その単語ごとどこかに置き去りにしてしまった。
「あのガード固い紬がそんな事になってるとさ、是が非でも、その同居人とやらを拝みたくなるのが人情ってもんでしょ」
「……随分、下衆い人情っすね」
 万里がやっと絞り出したコメントをあっさり無視して、至は続けた。
「アポ取ろうとしたら、その日はデートだからって……まあ、そこまでは言ってないけど。とにかくなんだか凄いことになってるってことは察して、続報を待ってたんだよ」
 そういえば二人で出かけた日に、先二週間の予定を聞かれたような気がする。口を挟むことを諦めた万里は、視線で先を促した。
「でも、待てど暮らせど返事が来ない。痺れを切らして連絡したら、死にそうな声で至くん助けてなんて言うから、何事かと思って話を聞いてたのが、今ね」
「で、紬さんは何て……」
「気になる?」
 当たり前だろう。面倒臭い大人は、ニヤニヤしながら存分に勿体ぶって、万里の眉間に深い皺を刻ませた後、やっと口を開いた。
「好きになってはいけない人を好きになってしまった。どうやったら諦められるか、教えて欲しい。だって」
「はぁ、なーんでそっち行っちまうかなぁ」
 背もたれに身体を預けて、ガシガシと頭をかきながら、大げさにため息をつく。
「分からない?」
「……俺が男で、年下で、学生だから?」
「なんだ、分かってんじゃん」
「分かんねっすよ。なんで、この人がこんなになっちまってんのか、全然分かんねぇ。お互い好きだって思ってんだからそれで良くないっすか」
 おぉ、とよく分からない感嘆の声をあげた後、あやすように至が笑う。ガキ臭いことを言っている自覚はあるだけに、いっそ意地悪く嘲笑われた方がまだマシだった。
「万里、大人はいろいろ大変なんだよ。出会いも別れも沢山経験するとさ、終わりを知ってる分だけ始まりが怖くなってくる」
 終わらせる気は一ミリもねぇけど。そうぼやくと、若いねぇとでも言いたげに、至が目を細めた。
「とくに二人とも、元々恋愛対象は女の子でしょ。パートナーシップ条例だとか、制度ができても、まだ世間の目は冷たいのが分かってて、わざわざ道を踏み外す必要もないんじゃないかって、そりゃ思っちゃうよね。自分はともかく、前途ある若者を茨の道に誘い込むなんて、紬にはなかなか決断できないんじゃないの。だから身を引かなければ、でもそれも出来ない。ああ、八方塞がり。まぁ、こんなとこかな」
「俺の為なんて、勝手に思って欲しくねぇんだけど」
「それだけ、お前のこと真剣に考えてるってことでしょ。愛されてるねぇ」
「でもそれって、紬さんが一人で抱えることじゃねぇだろ」
 そりゃごもっともだね、と軽く返した至が、レモンサワーを飲み下して一息ついた。
「以上、どぎメモ全キャラコンプした恋愛マスター至さんの分析終わり。あとは二人でなんとかして」
「どぎめも?」
「『どぎまぎ! メモリーズ』だよ。今巷を賑わせてるBLゲーム、知らないの?」
 ゲームに貴賎はないと豪語する男の守備範囲の広さに、万里は脱力した
「BLと侮るなかれ、シナリオがめちゃくちゃ良くて泣けるんだよ。万里もやる?」
「……やんねーよ」
 食わず嫌いは良くないよと、好き嫌いが多い大人に言われるのもまた癪に障った。イクラが端に寄せられた皿を一瞥する。食わねぇなら、海鮮サラダじゃなくてシーザーサラダにしとけよ。
「ま、なーんも興味なさそうにぼやぼや生きてたお前の、切羽詰まったところが見られて、おにーさんは嬉しいよ。健闘を祈る。頑張りたまえ、バンリクン」
 面白がりやがって。万里は本日何度目かのため息をついた。

 至と駅で別れ、相変わらず動く気配のない紬を背負って、夜道を来た時の三倍の時間をかけて歩く。成人男性の平均身長より上背はあるはずなのに、華奢さに違わず、心配になるほど軽い。腕なんて細すぎて、乱暴に扱ったら壊れてしまいそうで、それが余計に万里を臆病にさせていたのだ。けれど。万里は深呼吸をして、一歩を踏み出した。
「んで、紬さん。いつまで狸寝入りしてるつもりっすか」
 確信があったわけではないが、首に回った腕がぴくりと動いて、やっぱりなと苦笑する。
「万里くんには敵わないなぁ」
 だったらさっさと降参して、俺のモンになってくんねーかなぁ。そんなぼやきは、ため息に混じって消えた。背中の温もりが、もぞもぞと身動ぎする。
「ごめんね、自分で歩けるから降ろして」
「ダメ。降ろしたら、アンタまた逃げるだろ」
 本当は逃げても秒で追い付けるし、逃す気は毛頭無い。ただ、この人が自らの手からすり抜けていくのを、そう何度も経験したくなかっただけだ。
 じたばたしていた紬だったが、早々に諦めたようで、万里の背に身体を預けてくれた。
「アンタを放って置いても、ろくなことになんねーって分かった。だから、帰ったらこれからの話をしよう、紬さん」
 紬は是とも否とも言わない。ただ、首筋にかかる吐息が熱かった。

「万里くんと至くんが友達だなんて、聞いてないよ。知ってたら、あんなに喋らなかったのになぁ」
 万里が淹れたデカフェのコーヒーで一息ついて、先に口を開いたのは紬だった。三人がけソファの隅に体育座りして、マグカップをちびちびと傾ける姿は、ずいぶん幼く見える。
「いつから起きてたんすか」
「……」
 黙秘権を行使するということは、わりと序盤からなのかと見当を付けた。深追いしても詮無いことだ。今はもっと、話したいことがある。
「紬さん」
 隣に腰を下ろすと、紬があからさまにビクっと震えた。そんなに怯えなくても、取って食ったりしないのに。
「こっち見てくんねーの。ま、いいや。そのままでいいから、聞いて。紬さん、俺はアンタが好きだ。アンタの優しいところが好き、穏やかに笑うところが好き、綺麗な声が好き。ちょっと危なっかしいところも、飯が美味いところも、仕事頑張ってるところも、庭の植物を大事に育ててるところも、ザビーが大好きなところも、全部、すげぇ好き」
 マグカップを包む手に、自身の手を重ねた。言葉では伝えきれないものが、少しでも届けばいい。
「アンタが俺の淹れたコーヒー飲んで、美味しいね万里くんて言ってくれるだけで、信じらんねぇくらい幸せになるんだ。こんなん初めてで、どうしていいかわかんねぇけど、ずっと一緒にいるなら、アンタがいいって思った。好きだよ、紬さん。大事にしたい。触りたい。キスしたいし、セックスもしたい。アンタが欲しい」
 紬は俯いたまま、何度か深呼吸を繰り返して、やっと口を開いた。
「万里くんのことはすごく大事だけど、俺のはそういう好きじゃない。そんなこと言われても、迷惑だ。それに、万里くんだって、俺みたいなのが周りにいなかったから物珍しいだけで、きっと勘違いしてるだけだよ。悪い夢みたいに、すぐ目が醒める」
 マグカップに目を落としたまま、そう言う。早口なのは、声が震えないようにするためなのだろうか。
 華奢な肩がより小さく見えて、心臓がぎしりと軋んだ。頬にかかる髪を、ゆるく梳かすように触れた。
「それがアンタの本心なら、ちゃんと目ぇ見て言ってみ」
「……だめ」
 紬がふるふるとかぶりを振った。今度は両頬に手を添えて、ぐいと持ち上げる。大きな目には分厚い膜が張って、ぐらぐらと揺れていた。久しぶりに見た青は、今日も暖かい光を湛えていて、心の底から安堵する。
「なんで」
「だって……」
 ついと逸らそうとした瞳に、追いすがる。捉えた目から、今度こそ一雫の涙がぽろりと頬を伝った。
「だって、顔見ちゃったらもう嘘付けない……」
「ふはっ、もう嘘っつってんじゃん。ネタは上がってんだ。そろそろ腹括ってもいーんじゃねーの。往生際が悪いぜ、紬さん」
「俺と一緒にいたら、きっと嫌な思いするよ。心無い言葉をたくさん浴びせられたり、肩身の狭い思いしたり、就職だって不利になるかも」
「勝手に言わせとけばいい。外野が何言おうと、俺はそんなんでダメになるほどやわじゃねぇ」
「そんなに簡単なことじゃない」
「簡単なことだろ。これは、俺とアンタの話だ。世間がどうとかじゃなくて、アンタの気持ちを聞かせてくれよ、紬さん。俺は、アンタが好きだっつってんだけど、アンタは、どうなの」
 大粒の涙が、万里の指を暖かく濡らす。親指で拭ってやっても、一度溢れてしまえば、もう止まることがない。
「俺、……ネガティブだし」
「アンタが深みにハマらないように、ちゃんと俺が見てる」
「嫉妬深いし」
「いいね、なんなら、首輪付けてもらってもいーぜ」
「面倒くさいし」
「アンタのは全部、可愛いっつーの」
「朝起きられないし」
「アンタを起こすのは、俺の大事な日課だ」
「よく原稿落とすし」
「敏腕マネージャーバンリクンのおかげで、最近は守れてるっしょ」
「野菜切るの下手だし」
「なんだ、それ気にしてんすか。味は良いって言ったろ。まだ何かある?」
 長い沈黙の後、紬は震える声でこわい、と呟いた。
「俺は、至くんが思ってるようなできた人間じゃないよ。君のためなんかじゃないんだ。俺は、怖い。いつか君が俺のこと嫌になって、離れて行っちゃうんじゃないかって。その時、うまく手放してあげられなくて、すごくみっともないことになるんじゃないかって」
「嫌になんねーよ。アンタが手放そうとしたって、絶対離さねーし。そりゃ、喧嘩くらいするだろうけどさ、そん時は、ちゃんと二人で話して、仲直りしよ。後は?」
「……」
「ほら」
「……好き」
「うん」
「万里くんが、好き」
「うん」
「俺も、万里くんと一緒にいたいです」
「ははっ、やーっと聞けた」
 これ以上泣かないようにと引き結ばれた唇に、唇を重ねる。紬はまた涙が止まらなくなって、泣き止むまで、何度も何度も唇を食んだ。ただ合わせただけの拙い口づけは、温かくて、しょっぱくて、ひたすらに愛おしかった。

 遠く聞こえる機械音で、万里は目を覚ました。襖から入る光が、部屋をぼんやりと照らす。紬の部屋で初めて迎えた朝だ。腕の中の温もりを確かめるように、ぎゅうと抱きしめると、規則的な寝息が途切れて、むにゃむにゃと言葉にならない音が、万里の胸に吸い込まれていく。
 何もしねーから、と言って、昨夜紬をベッドに連れ込むことに成功したのだが、泣き疲れたのかすぐに眠ってしまって、本当に何もできなかったのが悔やまれた。
 まぁ、寝顔が可愛かったからいい。シングルベッドに成人男性二人は、さすがに定員オーバーで窮屈だが、それも今は心地良くて、つい頬が緩んだ。
 時計を探してベッドサイドに視線を上げると、先日カフェに出かけた時に紬が気に入って買った青い花が、静かに佇んでいた。リビングの棚には見かけないと思ったら、ここにあったのか。その花弁に触れようと手を伸ばした。
「うぉっ」
 突然、にゅっと手が伸びてきて、万里の髪をわしゃわしゃとかき混ぜた。紬が寝ぼけてよくやるヤツだ。今日も愛犬の夢でも見ているんだろう。両手首をがっちりつかまえて、抗議すべく視線を下に戻そうとした。
「紬さん、俺ザビーじゃねぇ……ッ」
 ふに、と一瞬唇を奪われる。呆然とする万里の腕の中、穏やかな青い目が、いたずらっぽい光を宿して見上げていた。
「おはよう、万里くん」
「……」
「あれ? 万里く……わぁっ!?」
 なかなか反応が得られずに焦った隙を付いて、万里は紬に覆い被さり、ぽかんと開いた口に齧り付いて、舌をねじ込んだ。口腔を蹂躙し、逃げる舌に追いすがって絡め取る。紬がバシバシと背中を叩いて抗議するが、止める気などなかった。
 顎を伝った唾液をべろりと舐め上げると、上ずった声が零れ、それがまた万里を煽った。スウェットの裾から手を差し込んで上体を弄ると、華奢な身体が震える。
「ちょっ、万里くん! 待って! ストップストップ!!」
「うっせー、今のは百パー煽ったアンタが悪い」
 煽ってないという言い分は、もちろん聞かない。ジタバタと暴れる紬を押さえつけて、下肢に指を這わせようとした時、部屋とダイニングとを隔てる引き戸が、ガラッと開けられた。
 二人顔を見合わせた後、揃ってそちらを見やると、そこには大きな荷物を抱えた丞が、微妙な表情で突っ立っている。
 見られた。何か言わなければ。そう思っても、とっさに何の言い訳も出てこない。起きた時に聞こえたのはインターホンだったのかと合点がいったが、今はそれどころではなく。
「た……丞、これは」
「昨日潰れるまで飲んでたくせに、元気だな」
「いや……あの」
 踵を返した丞が荷物をダイニングテーブルに並べる間に、二人してもたもたとベッドから起き上がった。捲れたスウェットの裾を戻しながら、紬が先にダイニングへと出ていく。
「これ、うちの親からまた救援物資だと」
「ありがとう、助かるよ」
 じっと紬を見下ろしていた丞の手が、ぽすんと頭に乗せられ、そのままくしゃりと撫でた。
「じゃ、俺は行く。……摂津、寝る前に戸締りはしとけよ」
「っす」
 すたすたと出ていく丞を見送って、玄関がぴしゃりとしまったところで脱力する。
「……今のは」
「バレたかもな」
「かもねぇ」
「後悔してんですか?」
 後ろから抱きしめた。思ったよりも弱い声音が出てしまって、口に出したことを後悔する。ふふっと笑って振り返った紬が、ぎゅうと抱きしめ返してくれた。
「ううん。万里くんとなら、大丈夫」
 一晩でずいぶん強くなるもんだ。いや、元々強い人なのだ。それはもう、惚れ惚れするほどに。目尻にキスを落とすとくすぐったそうに笑う。少し背伸びして近付いてくれた唇を受け止めた。
 朝食は、タマゴサンドとサラダとコーヒーにしよう。溜まっていた洗濯物を全部片付けて、大学へ行って、帰ったら原稿と格闘する紬を労って、晩御飯は丞が届けてくれた野菜で鍋でもして、また二人同じベッドで眠ろう。
 今日も明日も明後日だって変わらず、何でもない愛おしい日々を二人で暮らすのだ。