ふたりぐらし - 2/3

 2.ミステリ作家は敏腕マネージャーの夢を見るか?

 
 
 ミルク多めのカフェオレのような優しい毛色は、撫でるとふわりと指先に馴染む。抱き上げてそのモフモフに顔を埋めると、とくとく少し早い心音が心地よく伝わってきて、つい頬が緩くなる。可愛い可愛いザビー。あれ、大きくなった? それに、なんだか都会的で爽やかな香り。モフモフというよりサラサラだし。ずいぶん雰囲気が変わったような……。
「だーかーらー、ザビーじゃねーっつってんだろ」
「あいたっ!」
 額への衝撃に、紬の意識がぐんと浮上する。うっすらと目を開ければ、もうすっかり見慣れた綺麗な顔が、至近距離で眉をひそめていた。
「あれ、万里くん? 何してるの?」
 ぐしゃぐしゃになった髪のままひとつため息をついて、よっこいしょとおじさんくさい掛け声とともに万里が離れていく。ベッドから出て立ち上がり、紬の手をひょいと掴んで、強い力で上半身を引き起こした。ぼんやりと見渡せば、そこは紬の寝室だった。襖から溢れる陽日が、既に日が高いことを知らせる。
「紬さん、まだ寝ぼけてんな。いたいけな青少年をベッドに引きずり込んで撫で回したあげく、犬呼ばわりとかアンタまじで……」
「うわー、またやっちゃった? ごめんね、つい」
 なにが「つい」だと、つり気味の双眸が非難する。そう、これは初犯ではない。両手をすり合わせて許しを請うと、万里は盛大なため息をついて、寝ぐせがついた紬の黒髪をさらりとひと撫でした。
「今日、打ち合わせなんだろ。そろそろ起きねぇと、遅れんぞ」
 うちの同居人は本当に働き者だ。紬はまだ半分くらいしか開いていない目で、万里を見上げた。
 同居当初、家賃を払いたいと律儀に申し出た万里と一悶着あったのだが、家賃を入れない代わりにと、家事やら紬のサポートやらを自主的にやることでなんとか折り合いをつけてくれた。見た目に反して真面目というか、しっかりした家庭で愛情深く育てられたのだろう。
 同居の許諾を得るため無理やり実家に連絡させた時に、少しだけ万里の姉と話したのだが、万里のことをなんだかんだ大事な弟だと思っていることが窺い知れて、じわりと胸のあたりが暖かくなったのを覚えている。
「目ぇほとんど開いてないっすよ。ほんと、全然寝ないか寝過ぎるか極端過ぎ」
「ひゃあ! あっはははは、ギブギブ! ちょっ、本当にやめっ‼︎」
 両側から腰のあたりを擽られて、たまらず悶える。見た目通り、彼はちょっと乱暴だ。いつの間に弱点がバレてしまったのか。その厄介な洞察力にも脱帽する。
「はぁっ、い……今何時」
「十時。十一時に駅前のカフェでMANKAI出版の高橋さんと打ち合わせ、だろ」
「すごい、昨日ちらっと話しただけなのに、よく覚えてるね」
「記憶力良い方なんで。朝メシ、タマゴサンド作っといたから、食ってって」
 タマゴサンドと聞いて、紬の目が今度こそぱっちりと開いた。万里謹製タマゴサンドは絶品で、もうその辺のお店のものでは満足できない身体になってしまったほどだ。敏腕マネージャーは凄腕のハウスキーパーも兼ねている。一人暮らしの時はあまり料理をしなかったそうだが、さらりとレシピを見ただけでなんでも器用に作ってみせた。手際は極めて良く、味も見た目も完璧で、その上アレンジのセンスもある。とことん不器用な紬は、ぐうの音も出ない。
 早く支度して、美味しくいただこう。にわかに元気になった紬の様子に、万里が破顔する。ずいぶん大人っぽく見える彼だが、笑うと年相応になるのが可愛らしい。そう言えばきっと怒るから、紬もにこりと笑って、そんな感想は笑顔の後ろに隠しておくことにしている。
 偶然の出会いから早二ヶ月。半ば強引に共同生活を始めた自覚はあるものの、家族以外との生活は、新鮮でありながら程よい距離感が心地良く、思ったよりもつつがなく過ぎていた。

 大学へ行くという万里と駅前で別れ、待ち合わせのカフェに入ると、先客はすでに大通りに面した窓際の席を陣取っていた。
「高橋さん、お待たせしました」
「相変わらず仲良しですね。月岡先生が若いイケメンを囲い込んでるって、噂になってますよ」
 立ち上がって紬を待ち構えていた高橋が、人聞きの悪いことをまあまあ大きい声で発し、紬は後退った。万里のことだ。窓越しに見られていたとは。やましいことは何もないのだが、少し気恥ずかしい。
「……その噂流してるの、高橋さんでしょう」
 高橋は先日自宅で打ち合わせをした際に、万里に会っている。万里がコーヒーを差し出した時、彼女の目がハート型になったのを、向かいの席に座っていた紬はしっかり目撃してしまった。来月結婚式を控えた妙齢の女性だが、イケメンは別腹、なのだそうだ。万里はそんな反応にも慣れている様子で、照れるでもなく、そりゃどーもとそっけなく対応していた。
 紬の目から見ても、類まれにみる美形だと思う。女性が放っておかないだろうとも。その割に女っ気がないのは、本人曰く、面倒臭いかららしい。もったいないなぁと思いつつも、美形には美形の事情があるのかもしれない。
 私にもあんな格好良い親戚がいたらいいのにと、高橋がぼやいた。二人の関係を説明するのが難しく、遠縁に当たるのだと万里が適当についた嘘に便乗する形をとっているのだった。
「あんまり尾びれを付けないで下さいね」
「あはは。あ、どうぞどうぞおかけください」
 悪びれずに朗らかに笑うところを見ると、これは相当立派な背びれまで付けられていそうだ。促されて向かいのソファに座ったところで、店員にホットコーヒーを注文した。
「プロット、拝見しました。バディものって今まで書かれたことなかったから、新鮮で良いと思います! 二人の精神的に密なやりとりも、月岡先生の繊細な文章が際立ちそうですよね。また女性ファンが増えちゃいますよー」
 次回作は季刊誌で四回連載となる予定で、評判が良ければシリーズ化も視野に入れているそうだ。
「この探偵助手の男の子、ちょっと摂津君に雰囲気似てますよね」
「……え?」
「あれ、無自覚でした? 見た目の特徴は全然違いますけど」
 つらつらと述べられる的確な指摘は確かに確かで、だんだん気が遠くなってくる。無自覚……だった。しかし、探偵と助手のバディものという着想は、間違いなく今の生活から影響を受けている。作家という仕事柄、取材や打ち合わせを除いて人と話す機会は多くない。その反動なのか、同居人のいる生活で会話する楽しさを改めて実感したのだ。掛け合いの面白さを作品にも活かせるかもしれないとは思ったが、キャラクター造形は特に意識していなかった。思っていたよりも自分が今の生活に浮足立っているのだと気付かされてしまい、急にどっと恥ずかしさが押し寄せてくる。
「月岡先生、顔、赤いです」
「えぇ?」
 思わず両手で顔を覆う。
「耳まで真っ赤」
「……高橋さん、すみません。ちょっと黙って」
 視界は真っ暗だが、クスクスと楽しそうな笑い声が聞こえる。これはまた変な噂をたてられそうだ。タイミング良く運ばれてきたホットコーヒーを縋るように引き寄せた。

 二時間ほどの打ち合わせを終えて外に出て、次の打ち合わせの予定がある高橋とは駅前で別れた。忙しなく働く彼女がちゃんと食事をとれているのか心配になるが、彼女に言わせると紬の方が危なっかしいという。
 締め切り直前に倒れては何度も原稿を落としてきた前科がある手前、強くは出られない紬だ。摂津君が来てくれて私たちも助かってますよ、と笑顔を向けられて、また気恥ずかしくなってしまう。他意はない、はずなのだから、自意識の問題だった。
 残暑もとうに過ぎて、過ごしやすい季節になった。ひやりとした風がまだ少し火照っている頬を優しく撫でていく。
 まっすぐ自宅に戻る気になれず、図書館と本屋を数軒はしごして時間を潰し、帰り道のスーパーで買い物をして帰った。最近締め切りが立て込んでいてろくに家事をしていなかったので、たまには料理をしようと思ったのだ。買い物袋が重いのは、新潟の地酒が入っているからだ。普段積極的に酒は飲まない方なのだが、ふと試飲販売が目に留まって手を伸ばしてしまった。わだかまる何とも言えない気恥ずかしさを酒で紛らわそうとするなんて、大人なのか子供なのか分からないと我ながら呆れる。

 ホッケの塩焼き、肉じゃが、ほうれん草の白和え、玉子焼きに味噌汁。ダイニングテーブルに並んだ料理を満足げに見下ろして、紬はエプロンを外した。
 壁掛け時計は二十時を指している。普段ならもう帰っている時間なのに、珍しく万里が帰ってこない。何かあったのだろうかと、鞄の中に入れっぱなしにしていたスマホを取り出すと、二時間前に万里からLIMEが入っていた。
「ゼミが長引いて帰りが遅くなる。飯食って帰ります。……か」
 たどたどしい手つきで了解のスタンプを送信する。もっと早く見ておけばよかったが、仕方がない。料理を少しずつ別皿に移して、あとはラップをかけておく。粗熱が取れたら冷蔵庫に入れよう。
「いただきます」
 手を合わせて、箸を取った。
「おいし」
 ホッケの塩加減は我ながら絶妙だし、肉じゃがも味がよく染みている。玉子焼きは、いつも万里がおいしいと褒めてくれるから、得意料理になった。
 一人暮らしにも慣れていたし、万里と時間が合わずに別々に食事を取ることもある。なのに今夜は、それがひどく寂しく感じてしまう。
 高橋さんが変なこと言うからだ。人のせいにしても、もやがかかる気持ちを紛らわすことができそうにない。テレビをつけて食事をとる習慣がない月岡家は、家主一人分の存在など、簡単に静寂が飲み込んでしまいそうだった。
 早々に食事を終えた紬は、冷蔵庫に鎮座している四合瓶と食器棚の薄はりのグラスを持って縁側に出た。庭には手塩にかけて育てている植物たちが、三日月の頼りない月あかりの下で揺れている。
 土いじりは、祖母の影響で昔から好きだった。紬が世話をすると元気になると、いつの間にか近所で評判になって、今ではいろんな植物が持ち込まれる駆け込み寺のようになっている。その分雑多とも言えるこの庭が、紬は好きだった。今夜の寂しさだって、きっと受け止めてくれるだろう。
 視線を落とすと踏み石にはサンダルが二足。少しくたびれているのが紬のもので、新しい方が万里のものだ。彼の片鱗が己の生活に溶けていることが、なんだかくすぐったくなった。
 腰を下ろして、グラスに注いだ透明の液体をくいと呷った。おすすめされるままに購入した純米酒はよく冷えていて、するりと喉を通っていく。ラベルを見ても、どういうものなのかは分からないが、甘みがあって飲みやすい。
 酒はあまり強くないが、嫌いではなかった。学生時代には許容量が分からない上に断ることが苦手な性分で、フラフラになっては丞にしかられていたが。文句を言いながらも家まで連れて帰ってくれるのだから、優しい幼馴染だ。最近では学生のノリで飲むこともないし、仕事の付き合いでまれに酒の席に呼ばれるくらいなので、流石にやらかしたりはしない。
 そういえば万里の誕生日を聞いていなかったが、二回生ということは、今年二十歳になるはずだ。二十歳になったら晩酌にも付き合ってもらえるかな。帰ったら聞いてみよう。楽しみがまた増えると、知らず頬が緩んだ。

「ただいまー」
 ガラッと玄関の引き戸が開いた。体育座りをして、ぼんやりと庭を眺めていた紬の意識が浮上する。手元の四合瓶は三分の一ほど減っていた。足音は一旦、万里の部屋を経由して、リビング、ダイニングへと続く。
「万里くん、こっちだよ」
 声をかけると、足音がリビングを回り、廊下に見慣れた長身が現れた。
「おかえりなさい」
「ただいま。悪ぃ、飯作ってくれてたんっすね」
 縁側に座る紬の横にどかっと腰を下ろした万里が、申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「ううん、連絡もらってたのに、俺が気付くのが遅かったんだ」
 その視線が、飲みかけのグラスと栓が開いたままの瓶に注がれる。
「アンタが晩酌なんて珍しい。なんかあったんすか? 敏腕編集者にダメ出しくらいまくったとか」
「いや……ダメ出しというか、あの……うん、まぁ、そんな感じ、かな」
 昼の高橋とのやり取りをまた思い出してしまって、答えがしどろもどろになる。膝の間に顔を埋めた紬の様子に何を思ったのか、ふうんとだけ言って、万里はそれ以上踏み込んでは来なかった。
 ぽんぽんと大きな手が頭に軽く二度触れる。するりと消えていくその温度を追うように顔を上げると、二人の間に置かれたグラスに酒を少しつぎ足して、万里はそれを口に運んでいた。喉ぼとけが上下して、それを嚥下したことを知らせる。
「お、うまい」
「未成年は飲酒禁止だよ」
 きょとんと紬を見つめる桔梗色の瞳が、ふわりと弧を描く。
「あー、俺この間二十歳になったんで、もう合法」
「え、いつ? 聞いてない‼︎」
「九月九日。俺も、ねーちゃんから電話来て思い出したぐらいだし、そんな大したことじゃねーだろ?」
 一ヶ月も前ではないか。もっと早く聞き出しておけば良かった。
「あるよ! お祝いしなきゃ」
「いーっすよ、別に」
「だめ。ねぇ、何か欲しいものない?」
 ずいずいと詰め寄ると、万里が困った顔をして後退る。明後日の方向を見て、あぁとかうぅとか唸って、仕舞に「考えておく」と引き攣った笑顔を見せて席を立ってしまった。強引すぎたかもしれない。
 そっと頭に触れてみる。そこにはもう彼の名残などひとつもなく、行き場の定まらない手は理由を作るように前髪を整えた。
 ほどなくして戻って来た万里は、グラスと皿を持っている。皿には紬が作った料理がぎゅうぎゅうに載っていて、紬は目を丸くした。
「すごい量。ご飯食べて来たんじゃなかったの」
「食った。けど、アンタの料理は別腹」
 そう言いながらあまりにも優しい顔で笑うから、どきりと紬の心臓が跳ねた。酌をして、自身の空になったグラスにもまた酒を注ぐ。触れ合ったグラスが軽い音をたてて、透明の液体が揺れた。その縁に潜む温かい感情の名前を、紬はまだ知らない。
「あー肉じゃが美味い。紬さんて不器用なくせに料理は美味いんだよなぁ。野菜の切り方は斬新すぎるけど」
 いびつなジャガイモを箸で器用に摘まみ上げた万里が、今度は意地悪に笑ってみせた。
「貶されてる?」
「褒めてる褒めてる」
 まだにやにやしている万里の腕をコツンと拳で叩く。
 料理も祖母から教わった。共働きの両親の帰りを待ちながら、祖母と一緒に台所に立つことが好きだった。確かに、包丁の使い方が危なっかしいと祖母をよくハラハラさせていたし、相変わらず不器用は直らないのだけれど。祖母から教わったことを褒めてもらえるのは素直に嬉しかった。
 大量に盛られていたはずの料理は、気持ち良いくらい軽快に万里の口の中へ消えていく。思いのほか杯が乾くペースも早かった。
「お酒、強いんだね」
「アンタも結構イケるクチなんっすね」
「そんなに強くないよ。万里くんと一緒にいると楽しくて、ついお酒がすすんじゃうのかも」
 楽しくて、つい。へにゃへにゃと頬が緩むのもそのせいなのだ。
 反応がない隣をちらりと伺うと、眉を顰め口をぽかんと開けた、珍しい表情に行き当たった。頬に差す朱は酒のせいだろう。
「……紬さんさぁ、それ天然?」
 意図を測りかねて首をかしげると、なんでもないと言って万里が酒をまたぐいと呷る。そんな飲み方をしたらますます赤くなってしまうのではないかと、心配になった。
「……誕生日プレゼント、なんでもいいんすか」
 グラスをじっと見つめていた万里が、ふいに口を開いた。
「何か思いついた?」
「一日、アンタの時間を俺にちょうだい」
「へ?」
「デートしよーぜ」
 万里が身を乗り出すので、二人の顔がぐっと近付いた。アメジストのような瞳に困惑した表情の紬が映る。
 デート。デートってなんだっけ。ずいぶんご無沙汰な単語に、酩酊感が相まってうまく言葉と意味が結びつかない。デート、交際している二人で出かけること。交際してなくてもデートか。デート、男女が映画や食事に行くこと。あれ、男女じゃなくてもデートって言うんだっけ。デート。デート。ああデートがゲシュタルト崩壊しそう。
 ぐるぐると疑問符を飛ばす紬を、万里がおかしそうに眺めている。
「紬さん、今週末時間ある?」
 ああ、その質問なら答えられる。
「うん」
「アンタの行きつけのカフェに連れてって欲しいんすけど」
「もちろん良いけど。え、それで良いの?」
「それがいーの。んじゃ土曜日、駅前に十一時半に待ち合わせで」
 まだ思考が混乱している紬には万里の意図が読み取れない。
「一緒に住んでるのに?」
「待ち合わせした方が、デートっぽいっしょ?」
 聞いても理解できなかった。が、そういうものなのかと、とりあえず頷く。
「決まりな。寝坊すんなよ」
 万里が満足そうに笑い、紬もつられて口角を上げた。

 珍しい人物から連絡があったのは、翌日のことだ。
 同居人がいる時間に来訪したいと言ったのは茅ケ崎至。紬が世話になっているMANKAI出版の営業部勤務だ。忘年会や先輩作家の出版記念パーティーで顔を合わせるうちに、同世代ということで意気投合し、作家と出版社という垣根も、一つの年の差も越えて親しい友人になった。
 万里に負けず劣らず整った顔立ちをしていて仕事もできるので、さぞ数多の美女と浮名を流しているかと思えば、そうでもないらしい。本人曰く、恋愛は二次元で事足りているということだったが、ゲームやアニメに疎い紬にはよく分からなかった。
『清廉潔白な月岡先生がイケメンを囲ってるなんて面白すぎる噂聞いたら、確かめに行かない手はないでしょ』
 電話口ですこぶる楽しそうに至が言うので、紬は深いため息をついた。
「……至くんのところにまで広まってるの、その噂」
 脳裏に無邪気に笑う敏腕編集者がチラつく。確か、営業部には彼女と仲の良い同期がいたから、流出ルートはなんとなく見当が付いた。とはいえ、すでに流れてしまっているものはどうしようもない。
 至の指定した日は、あいにく万里と出かける土曜日だ。他の日程を確認して、後で連絡するということで落ち着いた。俺が勧めてもやらなかったのに、いつの間にかLIMEやってるし、と至が呆れている。そういえば二人暮らしを始めた時に、万里に入れてもらったのだった。
「ねぇ至くん。最近の若い子って、友達と遊びに行くこともデートって言うのかな」
 それは気まぐれというか、特に改まった質問ではなく、単なる日常会話の延長のつもりだった。
 昨日の万里の言葉をどう解釈すべきなのかずっとモヤモヤしていたので、何となくアドバイスを求めてみたのだ。受取手はそう判断しなかったらしいが。
『は? それ、ご寵愛の居候くんと関係ある話……?』
 寵愛とは。言い方はともかく、至の勘の良さにたじろいだ。
「いや、えぇと」
『……もしかして、俺の想像を遥かに超えて面白いことになってるのでは。俺の二次元で鍛えた恋愛脳がフラグ回収したくて疼いてる……』
「あの、至くん?」
『いや、こっちの話。まぁ、家族とか友人と遊びに行くことを、デートって言う輩もいるよ。軽く聞き流して良いんじゃない』
「そっか、そうだよね。ごめんね、変なこと聞いて」
 それから少しお互いの近況を話して通話を終えると、ほっと一息着いて、ソファに身体を沈める。
 万里との関係をどんなカテゴリに入れるべきなのか、改めて考えてみても答えが出なかった。とりあえず近しいと思えた「友人」という名前を仮で付けてみたが、やはりなんだかしっくりこない。名前のない関係が心地良いというのは、初めての感覚だった。

 十一時二十分、約束の十分前に駅に着いた紬は、探すまでもなく目的の人物を発見した。Tシャツにジーンズ、ジャケットにスニーカー。シンプルだが一つ一つこだわりを感じさせるファッションは、その恵まれた体躯を存分に引き立てて、さながらモデルのような佇まいである。人目を惹く容姿に、周りの老若男女がチラチラと視線を向けてしまうのも頷ける。
「万里くん、おまたせ」
 小走りで駆け寄ると、スマホを弄っていた手が止まる。つり気味の瞳が紬を捉え、穏やかに細められた。ふわりと風が吹いて、万里の明るい髪が爽やかな秋空に透ける。絵になるって、こういうことを言うのかもしれないなと、ぼんやりと考えた。
「待ち合わせって、やっぱり新鮮だね」
 思わず見入っていた紬は、半ば取り繕うようにそう言った。
 急行で数駅先にある天鵞絨駅に降り立ったのは十二時前だった。
 大小の劇場やライブハウスが多く建ち並ぶ街は、週末ということもあって人が多い。複数路線が交差する駅でもあるので、構内は改札へ向かう人と乗り換えに移動する人の流れが複雑に絡み合っていた。そんな中、人込みにぶつかることもなくするすると歩みを進める万里の背中を、紬はやや早足で追った。八センチの身長差以上に足の長さが違う気がするが、悔しいのであまり考えないことにする。
 目的のカフェは駅から徒歩十分ほどのところにある。紬が気に入っているカフェの中で、一番コーヒーが美味しいと思う店を選んだ。もちろん万里を連れて行くからだ。カフェは味重視だと言っていたし、彼が買ってくる豆はいつも美味しい。
 改札を出て並んで歩きながら、ちらりと隣を伺うと、万里は鼻歌でも歌い出さんばかりに上機嫌だった。そんなに楽しみにしてくれるのは嬉しいが、ハードルが上がっていくような気がして不安でもある。気に入ってくれれば良いけれど。
「万里くん、ここだよ」
 素通りしようとした万里を呼び止めると、こんなところにカフェがあったのかと驚いていた。入口までは細長い石畳の通路になっていて、両端には所狭しと観葉植物が並んでいる。小さな看板が控えめに出ているだけで、一見してこの先にカフェがあるとは分かりづらいのだ。
 重い一枚板の扉を開ければ店内にも緑が溢れていて、コーヒーの香りの隙間に花や葉や土の心地よい香りが漂っていた。駅から少し離れているからか、入口がとにかく分かりづらいからか、週末でも先客はそれほど多くない。待たずに通されたのは窓際のテーブル席だった。
 メニューに一通り目を通して、万里はトマトクリームパスタとチーズケーキとブレンド、紬はジェノベーゼパスタとアップルパイとブレンドをそれぞれ注文した。
「そこは特製ふわふわタマゴサンドじゃねーんだ」
 本日のおすすめが書かれた黒板をちらりと見やって、万里が呆れている。彼は紬のことをたまご星人と認識しているきらいがある。まあ、否定はできないけれど。
「タマゴサンドは万里くんが作ってくれるのが一番美味しいからね」
「……ホントそういうとこ」
「え?」
「なんでもない。良い店っすね、ここ」
 店内をぐるりと見渡しながら万里が楽しそうにそう言い、自分の事を見られているわけでもないのに、何故かものすごく気恥ずかしくなってしまった。
「お、美味い」
 食後のコーヒーを一口含み、万里が頬を緩める。どうやら口に合ったようだ。
 ほっと一息ついて、アップルパイをひとかけ口に運んだ。リンゴの甘さと程よい酸味がコーヒーにも良く合う。自分が美味しいと思うものを共有できて満足した紬は、座り心地の良い椅子に背を預けて脱力した。
「あぁ、緊張した」
「なんで?」
「万里くん、こだわりが強そうだから」
「辛口評価下されると思った? まぁ好みじゃなかったら、そう言うけど」
「じゃあ尚更、美味しいって言ってくれて嬉しいな。今度は万里くんのおすすめのお店に連れて行ってよ」
「お、デートのお誘い? もちろん、喜んで」
 緊張感から解放されて急に饒舌になる紬を、万里は面白そうに眺めて、元居酒屋バイトらしい返事をしてくれた。
 緊張が引っ込んでしまえば、そういえばこれはデートなんだっけと思い出す。定義はイマイチわからないけれど、向かいに座る六歳年の離れた男の子が、カフェに行くことをデートと認識しているらしいことは分かった。ならばデートらしい会話でもした方が良いのか。デートらしい会話ってなんだろう。ご趣味は? とか。いやそれはお見合いか。そもそもデートって何するんだっけ。
「ねぇ、万里くん。デートって何するものなの」
 ぐるぐるとまとまらない思考は、最終的には口から漏れていた。目を丸くする万里の耳にはしっかり届いてしまっているようだし、今更やっぱ今のナシ、とは言えない。
「あ、いや、その。今時の若い子がどんなことしてるのかなって……思って……」
「ふはっ。んじゃ、食い終わったら行くか」
「へ?」
「実践あるのみってな」
 片眉をくいと上げる仕草は様になりすぎて、芝居がかって見えた。

 街灯や並び建つ店の灯りが、天鵞絨町の商店街を照らす。昼の顔から夜の顔へと、徐々に変わっていく様子を見つめながら、日が傾くのが早くなったなぁと考える。歩く度にがさがさと音を立てるのは、ビニール袋に入った小さな鉢植えだ。ふらりと立ち寄った花屋で見つけた、セントポーリアが入っている。室内でも育てやすいので、リビングのシェルフに追加する予定だ。
 それにしても今日は、ゲームセンターにカラオケにショッピングと盛沢山だった。基本的にインドアで、鈍りに鈍った身体には少々こたえる。
「疲れてねえ?」
 気遣う言葉が斜め上から降ってきた。心が読めるのではないかと思うほど、万里は紬の機微に聡い。例えば原稿に向かっていて、そろそろ休憩しようかなというベストのタイミングで、コーヒーを淹れてくれるように。最初は驚いていたものの、今やすっかりそれに慣れきって、ずいぶん甘えてしまっている気がする。それでも、全然平気だよなんて小さな嘘をつく必要もないのは居心地が良かった。
「ちょっとね。でも楽しかったよ。ゲームセンターなんて学生の時以来だったから新鮮だった」
 ゲームが得意と言った万里の言葉に嘘はなく、格闘ゲームも、銃でゾンビを倒すゲームも、レーシングゲームも、太鼓を叩くゲームも、クレーンゲームだって上手だった。自分にゲームの才能がないのは重々承知しているので、鮮やかなスティック捌きを見ているのは爽快で楽しかった。
「なら良かった。じゃ、紬さんがぶっ倒れる前にそろそろ帰るか」
「万里くん、俺のことおじいちゃんか何かだと思ってない? そりゃ、君に比べたら体力無いのは認めるけど、そこまでやわじゃないよ」
「思ってねぇ……とは言い切れないな」
 そこは嘘をついてくれても良いのにとむくれていると、大きな手がわしゃわしゃと頭を撫でまわした。その上子供扱いされるのは、納得がいかない。
「あれ、万里じゃん」
 紬の抗議の言葉を遮って、突然雑踏から知らない声がかかった。万里の視線の先を辿っていくと、男女数人のグループに行きついた。
「おー、久しぶり」
 片手を上げて答える万里に視線を戻すと、高校時代のクラスメイトだと、手短に教えてくれた。
 行ってきていいよと送り出し、グループの輪に入っていく後ろ姿を見つめる。ピアスがたくさんついている男の子や、長い巻き髪に短いスカートの女の子、いかにも派手でキラキラした人達の中でも、万里の存在感は際立っていた。
 輪に入ると、黄色い声が上がる。頬を染めて大きな目を潤ませているあの子も、万里の左腕に細い腕を絡ませるあの子も、彼の事が好きなんだなと、少し離れた場所からもすぐに分かった。
 ツキン。心臓を細い針で刺されたような、小さな痛みが走る。時折上がる笑い声が遠く潮騒のように聞こえた。
 こういう時に、スマホを弄る癖がないと手持ち無沙汰だ。ポケットに突っ込んだ手に、硬いものが触れた。自宅の鍵だった。その溝を一つずつ指でなぞり、持ち手部分から、先に連なるキーホルダーにも触れてみる。
 取り出さなくても分かるそれは、真新しい犬のキャラクターのもので、ちょっとザビーに似ていて可愛い。クレーンゲームで悪戦苦闘していた紬に、全然狙えてねぇじゃんと呆れて、万里が代わりに取ってくれたのだ。乱視だからと苦しい言い訳をしたら、更に呆れられてしまった。
 ふと、万里がこちらを振り返り、ほんの一瞬だけ視線が絡まった。どうかした、そう口を開く前に逸らされた双眸は、右隣にいる可愛らしい女の子へと向けられる。
 ズキン。今度は、さっきとは比べものにならないくらいの痛みが襲ってきた。万里が見せた表情が、今まで見た事がないほど穏やかで、慈愛に満ちていて、可愛くて、綺麗だったからだ。
 ポケットの中、ぎゅっと握りしめたキーホルダーの角が掌に刺さった。

 万里のクラスメイトたちと別れて電車に乗り、最寄駅に着いた頃にはすっかり日が落ちていた。
「紬さん、今何考えてんの?」
 夜道を並んで歩いていたはずの万里に、少し後ろから声をかけられる。意図が分からず立ち止まって振り返ると、等距離で万里も足を止めた。
「さっきから全然しゃべんねぇし、笑ってねぇから」
 アンタいつも笑ってんのにさ。そう言われて頬に手を当ててみる。気のせいじゃない。そう言おうと開いた口は、無意識に全く違う言葉を発していた。
「……さっきの子、可愛かったね」
「さっき?」
「クラスメイトの、……万里くんの隣にいた子。万里くん、すごく楽しそうに話してたから、好きなのかなって思って。あの子もきっと万里くんのこと好きだよ。俺、心理学専攻だったから、人の気持ち読むのは結構得意なんだ。両想いで良かったね。すごく、……お似合いだと思うよ」
 ああ、何を言っているんだ、止まれ、止まれと念じても、開いた口は壊れたラジオのように不協和音を垂れ流す。
「ちょーっと待って、紬さん。こっちは全然そんな気ねぇし、なんでアンタの中でそんなことになってるワケ?」
「だって。……だって、万里くん、すごく優しい顔して、その子のこと見てたから」
 心が萎れていくのと比例して、声が小さくなっていく。
「……」
「……万里くん?」
 無言が怖くなって、足元に落としていた視線を引き上げると、万里が口元に手を当てて突っ立っていた。
「不機嫌な理由ってそれ? あのさ、それ、そのー……ヤキモチ妬いてるように聞こえんっすけど……」
 嫉妬。ズドンとその言葉が頭上から落ちてきて、雷のような衝撃に紬は硬直した。「誰に」など問うまでもなかったのは、「何故」の答えも一緒に落ちてきたからだ。
「もし俺が優しい顔してたっつーんなら、それアンタのせいだかんな」
 不意に捕まれた腕が、焼け付くように熱い。ぐいと強い力で引き寄せられて、紬はあっけなく万里の腕の中に納まってしまった。
「どういう意味」
 絞り出した声は万里の肩口に消えていく。
「あの時、アンタの話してた。紬さんとどういう関係かって聞かれて」
「……それで、何て」
「大事な人」
 ぶわっと全身が熱を持って、目の前がぐらぐらと揺れた。誰にもとられたくない。俺だけを見て欲しい。突然あふれ出した感情の波に翻弄される。
 息をするのも忘れて縋るように見上げた瞳は、セントポーリアの花弁のように綺麗な青色を湛えていた。好き。好きだ。君が、好きだ。今にも泣きながら、叫びだしてしまいそうになる。
「心理学専攻の看板、外した方がいいんじゃねーの」
 ふわりと薄く綻んだ唇がぐんと近付いて、世界が一色に染まる。
「うわぁ!」
「うぉっ!」
 触れるか触れないかの一瞬で我に返った紬は、両手をどんと前に突き出し、万里の身体を押しのけた。
「ごめん‼︎ おおお俺! 用事思い出したから、さささ先に帰るね!」
「ちょっ、紬さ……」
 制止も聞かず踵を返し、紬は走った。運動不足の身体が早々に悲鳴をあげるが、構っていられない。とにかくこの場を離れなければという一心で、全速力で駆け抜けた。

   ◇

 残された万里はその場にしゃがみ込んで、頭を乱暴に掻き毟った。もっと気長に着実に遂行しようと思っていたのに、やってしまった。というかアレは不可抗力だろう。だって、アンタすげー俺のこと好きじゃん。
 行き場を失った衝動を、深呼吸でなんとか落ち着かせる。
「つーか、足遅すぎじゃね。……ありゃ至さんと張るな」
 まだ見える後ろ姿にかけた苦笑は、夜空にふわりと消えた。