1.災い転じて恋となる
ツイてない。十九年の人生の中で最もツイてない日だ。
深夜二時、人気の無い公園のベンチで、万里は徐々に熱を持つ右頬を抑えて、深い深いため息をついた。
まず朝一で、マンションのポストに「取り壊しのため、今月中にここから立ち退け」という警告文が突然投函された。大家に連絡すると、半年前から共有スペースの掲示板に掲示していたと言い返される始末。掲示板なんか誰が見てるんだっつーの。そう切れたところで、もう業者にも発注済みで、スケジュールはずらせないだのなんだのと逆にまくしたてられてしまった。
今月中って、あと二週間しかねえじゃねーか。しかも今週は前期試験の真っ最中で、とても家探ししている時間もない。どうしたもんかと天を仰いだ後、ふと時計を見て、万里は絶望した。電話のタイムロスで、一限のテストの開始時間がぎりぎりに迫っていたのだ。
慌てて飛び出したものの、今日に限って信号はすべて赤。結局間に合わず、締め出しをくらって単位を一つ落とした。必修科目だったのに。来年、またあの大量の課題が課されるのかと思うと、げんなりせざるを得なかった。
しかも、不幸はまだまだ終わらなかった。
学食のA定食が売り切れていたとか、靴紐が切れたとか、ソシャゲのイベント最終日の追い込み中にスマホを落として壊してしまったとか、上から急に鉢植えが落ちてきたとか(これは持ち前の瞬発力でなんとか難を逃れたが)、電車が人身事故で止まってバイトに遅れたとか、枚挙にいとまがない。不幸の総合商社か。
そういえば今朝、見るともなしに見ていた星占いで乙女座が一位だったことを思い出す。運命の出会いがあるかも! とかなんとか。嘘つけ。
誰に向けるでもない悪態は、街灯が作る深い影に飲み込まれて行く。
さらに、この右頬の痛みである。
バイト先の居酒屋で、客から執拗なセクハラを受けていた同僚を助けたのだが、客ともみ合いになって、むしゃくしゃしていたこともあって、つい手が出てしまった。それがどうも上顧客だったらしい。万里は駆け付けた店長にぶん殴られたあげく、クビを言い渡されたのだった。同僚は怯えて何も言わなかった。まぁ、べつにそれは良い。怖かっただろうし。
問題は、今月分の給料が恐らく支払われないであろうことと、職を失ったことだ。引っ越し費用だって馬鹿にならないだろうに。
なんとなく自宅に戻る気にもなれず、公園のベンチに座ってぼんやりしていたら、こんな時間になってしまった。とうに終電は終わり、さて朝までどうしたもんかと、そろそろ思案を始めなければならない。
そんな中、ぽつりと足元を水滴が伝う。顔を上げると、街灯が銀糸を照らし出していた。雨まで降り始めるとか、まだ不幸は更新されるのか。
ネカフェかファミレスか、とりあえずどこかで雨風をしのがなければ。そう思いながら、尻ポケットに手を当ててはたと気付く。財布が、ない。どこで落としたのだろうか。
不幸は瞬時に過去最高記録を更新した。最早ため息も出ず、行き場すら失って、より重くなった腰が上がることはなかった。
「あの、大丈夫ですか?」
雨音に混じらない清廉な声が閃いて、足元に影が差す。逆光でよく顔が見えないが、知り合いではないはずだ。記憶力は良い方だが、聞き覚えのない男の声だった。
「わ、すごい腫れてる」
どちらさまですか、と口を開く前に、ひやりとした指先が頬に触れた。
「痛っ」
「あ、ごめんなさい。俺の家、近くなんで行きましょう。ちゃんと手当しなきゃ」
強引に手を引かれ、勢いのまま立ち上がった万里は、やや下にある声の主を不信感たっぷりに見下ろした。少ない光源を掬い取って、エメラルドブルーの虹彩が揺れる。くるりと大きな瞳は一切の邪心などなさそうに、心配そうにこちらを見上げていた。あどけなさすら感じさせる容姿だが、落ち着いた物腰や強引な言動に、もしかすると年上なのかもしれないと推測した。いずれにせよ、やはり覚えのない顔だ。
宵闇に溶け出しそうな艶やかな黒髪に水滴が煌いて、傘がこちらに向けられていることに初めて気付く。
「そっちが濡れるだろ」
傘を持ち主の方へぐいと押し戻す。しかし、思いのほか強い力で押し返されて、傘は二人のちょうど真ん中に収まった。
「つーか、アンタ誰。何なんだよ」
大きな目がさらに大きく丸くなり、暗がりでもわかるほど頬が赤く染まった。己の行動の不審さに、ようやく気付いたらしい。
「突然すみません。あ、俺、月岡紬と言います。この近くに住んでいて」
急にあたふたしながら、自己紹介と、事の顛末を話し始めた。眠れなくて散歩していたら、万里を見つけたこと。今にも死にそうな顔をしていて、驚いたこと。雨が降っているのにベンチから動こうとしないので、心配になって声をかけてしまったこと。自覚はなかったが、相当絶望が外に漏れていたらしく、万里はいたたまれなさを感じた。
「あの、別に怪しいものではなくて、だから……その」
弁解は止まらない。その必死な様子がなんだか可笑しくなってきて、万里は破顔した。
「ふはっ。もーいいって。傘、あざっす」
つられて紬が顔を綻ばせた。笑うと幼さが際立つ。やはり年齢不詳だ。
「手当しましょう。それに、ここにいたら風邪ひいちゃうかもしれないし」
そんなにやわなつもりはないし、見ず知らずの人間の世話になるのも本意ではない。しかし、少しだけ垣間見えた人となりに、まぁ良いかと心が傾いていくのも自覚していた。
これだけ不幸が重なればもう捨てるものは何もないと、半ばやけっぱちになっているのも否めないが、この雨をしのげる場所を提供してもらえるのは、正直ありがたい申し出であった。
「じゃあ、遠慮なく」
なんでアンタがそんなに嬉しそうに笑うんだろう。生来の外面の良さで、人からの好意を受け慣れている万里にも、裏のなさそうなその屈託のない好意は、新鮮に映った。
こうして、犬猫でも拾うように、謎の慈悲深い男に万里は拾われたのだった。
近くに住んでいるという紬の言葉通り、公園から徒歩十分ほどで目的地に到着した。道中に、万里からもバイト先での顛末をかいつまんで話した。へぇとかわぁとか、相槌を打ちながら先を促す聞き上手な話し相手に、つい話さなくても良いことまで話してしまった気がする。喋りすぎたことは後悔しつつも、紬の言葉遣いがそこから砕けたので、万里は満足した。
紬の家は、マンションが建ち並ぶ静謐な住宅街にぽつりと建つ、今時珍しい平屋だった。一人暮らしだというのでマンションかと思っていたが、予想外だ。
通されたのは玄関を入ってすぐ左手にある和室で、年季の入った丸いちゃぶ台が一つ置かれていた。ぐるりと部屋を見渡す。物は多くなく、掃除も行き届いていて綺麗だ。建物は古そうだが、室内はリフォームされ、畳も張り替えられているようで、古さを感じさせない。
部屋に時計がない上にスマホも壊れているので、正確な時間はわからないが、午前三時過ぎといったところだろうか。シャワーを勧められたが深夜に近所迷惑だろうと断り、タオルと着替えだけありがたく頂戴した。
「救急箱も持ってくるから、着替えて適当に座ってて」
紬のものにしては大きいグレーのスウェットは、たまに泊まりに来る幼馴染のものだということだった。とりあえず、やっと人心地つけて、ほっと息を吐いた。
ほどなくして、紬が戻ってきた。左手に救急箱と氷のう、右手には盆。盆の上には麦茶らしきものが入ったグラスが二つ、ぐらぐら揺れている。
危なっかしい盆の方を受け取り、ちゃぶ台にグラスを並べると、紬がまた嬉しそうに笑った。変なところで良く笑うおかしな人間だと、万里は呆れた。
「一軒家に一人暮らしなんすか」
「うん、去年までは家族三人で暮らしてたんだけど、両親が定年退職した後、急に田舎暮らしがしたいって地方に引っ越しちゃったんだ」
マイペースだよねぇと朗らかに言う。この人のマイペースは、親譲りなのだということは理解した。
「はい、じゃあこっち向いて」
自分でできると固辞したが、このマイペース男には全く通じない。
諦めて身体ごと紬の方に向くと、うわぁ痛そう、と眉を顰めながら、慣れない手つきで湿布を頬に張られた。氷のうも手渡されたので、おとなしく頬を冷やすことにする。満足そうに紬が頷いた。
「でも偉いね。同僚を助けてあげたんだもんね」
「別に、そんなんじゃ……。ただ、こっちも虫の居所が悪かったっつーか」
子供を褒めるみたいな物言いが小学校の先生の様で、なんだか気恥ずかしくなって、麦茶を一気に呷った。
「それに、仕事クビになってちゃ世話ねぇわ。……てか、明日も平日だけど、こんなに遅くまで起きてて大丈夫なんすか」
「在宅で仕事してるし、今は……ちょっとお休み中だから、大丈夫。えーと、万里くんは?」
在宅で仕事。ということは、学生ではないらしい。
「俺は明日は三限からなんで」
「え‼︎ えぇと……、学生さんなの?」
「は? 大学二年、十九だけど」
「嘘! ごめん、ちょっと下くらいかなって思ってた。未成年なんだから、早く寝た方がいいよ!」
ちょっと下くらいでもないのか。いよいよ年齢不詳だ。
「ちょい待ち。紬さんは、何歳?」
「二十六歳」
「うっそ。七つ上? 見た目、若すぎじゃね」
「……それ、結構気にしてるから、あんまり言わないで」
ばつが悪そうに俯いた頬には、赤みが差す。それもやはり、見た目を実年齢より大幅に引き下げる要因となっている。さらに落ち込ませそうなので、口には出さなかった。
ちゃぶ台を端に寄せて、紬から受け取った来客用の布団一式を部屋の真ん中に敷いた。家主が出て行くのを見届けてから、電気を消して、いそいそと布団潜り込む。
野宿か夜通し歩くかの二択と比べたら、ずいぶんな厚遇だ。紬と話したおかげで、どん底だったクソみたいな気分も多少は浮上した。
わざわざ置いて行ってくれた目覚まし時計を七時にセットして、頭を巡らせる。明日は、申し訳ないが電車賃を借りて、自宅に戻ったら、午前中に警察と携帯ショップへ行こう。幸い、紛失した財布には大したものは入っていなかったから、クレジットカードを停止して、学生証を再発行してもらうくらいで良い。
午後はテストが三つ。まぁ、時間にさえ間に合えば内容的には問題ないだろう。
なんとかなりそうだと算段をつけてしまえば、あとは寝るだけだ。まだ少し熱を持つ頬の湿布を確かめるようになぞって、万里は目を閉じた。
軒先を濡らす雨音が心地良く耳朶を撫でる。静かな家だ。この家で、一人で住むのはどんな気分だろう。気楽なものなのだろうか。それとも。自宅でどんな仕事をしているのだろう。見ず知らずの男に声をかけて、家に招いて寝床まで提供するなんてずいぶんなお人よしだが、不用心ではないか。うとうとしながら脈絡もなく考えるのは、この家の主のことばかりだった。
ピピピ。控え目な電子音は確実に万里の耳に届き、手を伸ばして音の発生源を探す。すぐに探し当てたそれを掴んで黙らせると、むくりと起き上がった。寝起きは良い方なのだ。
一つ伸びをして窓の外に目をやる。夜通し降り続いた雨はまだ上がっていないらしい。これは傘も借りていかなければならないかもしれない。
廊下に出ると、左の突き当りのドアの先からカチャカチャと音が聞こえ、自然とそちらへ足を向けた。
「万里くん、おはよう。もっとゆっくり寝ててもよかったのに」
昨夜と変わらない人好きのする柔らかい微笑みで、紬が出迎えてくれた。
突き当たりの部屋はリビングで、その先は仕切りなくダイニングキッチンにつながっていた。リビングにはファブリックの三人掛けソファとローテーブル、テレビが置かれ、壁に沿わせた棚に、植物の小さな鉢が所せましと並んでいる。ダイニングには一枚板のテーブルと四脚の椅子。奥にはL字型のキッチンと大きな冷蔵庫、食器棚が配置されていた。
いずれの部屋も北側に面しているが、明り取りの窓が大きめに作られていて、暗さは感じさせなかった。
「ちゃんと眠れなかった? 枕が変わると眠れないとか」
「はよっす。いや、そんなデリケートじゃねーし。快眠だったっすよ」
嘘ではなく、もともと睡眠時間はあまり必要としない体質だ。なら良かった、と安堵の表情を見せる紬こそ、顔色が悪く見える。セラミックのような白い肌が生来のものなのか否か、万里には判断がつかないが。
「洗面台あっちだから、顔洗っておいで。有り合わせで申し訳ないけど、朝ごはん用意するから食べて行ってね」
至れり尽くせり。どこまでもお人好しだと思う。だが、好意に甘える方が、彼を喜ばせるのだということはなんとなくわかってきたので、有り難くご馳走になることにした。やはり紬は満足げに目を細めるのだった。
ご飯に味噌汁、煮物、玉子焼き。テーブルに並べられたのは、健康的な和食だった。煮物は地方に移住した母親から送られてきたものらしい。出汁が効いた優しい味わいは、月岡家の穏やかな幸福を形にしたようでもある。
「あ、玉子焼き美味い」
こちらもほんのり甘いだし巻き玉子だ。形が少し不恰好だが、味は良い。口をついて出た素直な感想に紬は大層喜んで、卵って良いよねぇとピントのずれた返答をした。
洗い物を買って出た万里の横で、調子外れの鼻歌を歌いながら、紬が手慣れた様子で珈琲豆を挽き始める。ずいぶん年季が入ったミルだ。
「好きなんすか、コーヒー」
「うん。万里くんは?」
「俺もコーヒー党。カフェ巡りすんのも好きで」
「ほんと? 俺も好きだよ。この辺は一通り回っちゃって、お気に入りもいくつかあるんだけど、そろそろ新規開拓したいと思ってるんだ」
図らずも共通の趣味を見つけて、万里の気分も高揚した。お互いの好きなカフェに話が及び、あの店はどうだこの店はどうだと、カフェ談義が始まる。
「やっぱカフェは味重視っしょ」
「俺は居心地の良さが一番気になるけどなぁ」
カフェ選びのポイントが全く違って、お互い苦笑した。テーブルの配置のことなんて気にしたことがなかったけれど、次にカフェに行くときには、なんとなく気にしてしまいそうだ。そんなことをぼんやり思っていると、紬が次行くときは俺も砂糖チェックしてみようかなと言って目尻を下げたので、万里の口元もつい綻んでしまった。
白磁のカップを差し出され、ありがたく頂戴する。最近ハマっているというネルドリップで抽出したコーヒーは、口当たりが滑らかで、まったりとほのかに甘い。
「ん、うまい」
「はは、ありがとう」
「はぁ。ほんと、アンタに拾ってもらって助かったわ。俺、昨日は朝から最高にツイてなくてさ」
コーヒーの香りに絆されるように、昨日の出来事をとつとつと語り始めてしまう。なんとなく、聞いてもらいたくなったのだ。そっか大変だったねと、親身に相槌を打つ紬は、今日も聞き上手だ。
「じゃあ、うちに来れば? ご覧の通り部屋はたくさん空いてるし」
「いやいやいや、さすがにそこまで世話にはなれねーわ。まぁなんとかなるっしょ」
突拍子もない申し出に、万里の方が慌てた。まだ出会って数時間の人間に持ち掛ける話だろうか。例えば俺がすげえ悪いヤツで、家財一式持ち逃げでもしたらどうするつもりだと飽きれても、万里くんはそんなことしないでしょうと、謎に自信満々に返されては脱力するしかない。もう少し危機感を持った方が良いと思うのだが。
「遠慮しなくても良いのに。俺も一人暮らしだとつい不摂生しちゃうから、誰かが居てくれた方が助かるし」
「そんなもん、彼女に頼めばいいだろ」
「万里くん、自分で言うのもむなしいけど、俺、すっごくモテないんだよ」
そんな神妙な顔で言われても。モテそうですけどねと返しても、その耳には届いてなさそうだった。
なんとなく気まずい雰囲気の中、ピンポーンと間の抜けたインターホンの音が響く。
顔を上げた紬はもうスッキリした顔をしていて、こんな時間に誰だろうとぼやきながら玄関へ向かっていった。
取り残された万里は、コーヒーを一口飲み下す。少し冷えると甘味が増して、また美味い。コーヒーはカフェで飲むことがほとんどだったが、引っ越して落ち着いたらハンドドリップを始めようと決意した。
ダイニングに戻ってきた紬は、大きな荷物と大柄の男を携えていた。不愛想な藤紫の瞳が万里を捉え、不審そうに紬に向き直る。
「丞、こちら万里くん。昨日、終電逃して困ってたから、泊まってもらったんだ」
お前また変なもの拾ってきたのか、とでも言いたげな目だが、紬はどこ吹く風だ。やはり、前科があるとみた。
「万里くん、こっちは丞。俺の幼馴染」
「摂津万里っす。お邪魔してます」
「高遠丞だ。よろしく」
お互い簡素な自己紹介をして、ぺこりと頭を下げる様を、紬は楽しそうに見ていた。
「いつもありがとう。でも、一人暮らしで流石にこんなに使いきれないよ」
ダンボールに詰め込まれたのは、新鮮そうな野菜だ。丞が提げているのは米だろうか。
「しょうがないだろ、ウチの親はお前贔屓なんだから。一人でちゃんと食ってんのかって心配してる。ほら、こっちはお袋の漬物」
「わぁ、おばさんのお漬物、美味しいんだよね。ありがとう」
「じゃ、俺は仕事だからもう行く」
「うん。おじさんとおばさんに、くれぐれもよろしくね」
長居するつもりはないらしく、荷物を運び終えると、丞は踵を返した。一歩踏み出す前に、ふと万里の方を向く。
「……摂津」
「なんすか?」
「……いや。お前、サッカーできるか」
「はあ、まあ」
「そうか。うちのチーム、人手不足なんだ。今度付き合ってくれ」
「……考えときます」
元来面倒臭がりで、こんな誘いは大抵即刻断るのだが、隣で万里くんが出る試合なら応援に行こうかなぁと朗らかに笑われて、ついらしくないことを言ってしまう。理由を考えるのは、面倒でやめてしまった。
丞が去った後、万里もほどなくして席を立った。田舎のばーちゃんかと言うくらい、大量の土産を持たされそうになるのをなんとか固辞して、電車賃と傘だけありがたく借りることが出来た。
「試験終わったら返しに来るんで、LIME教えて」
「ごめん、俺機械が苦手で、LIME? っていうの、やったことないんだ。電話番号でもいいかな」
じーさんかよ。今度は流石に突っ込んだ。笑いながらさらさらとメモされた、癖のない字で書かれた十一桁の番号を受け取る。
「基本的には家に居るから、いつ来てもらっても大丈夫だよ」
「あざっす」
玄関を開け、振り向いて別れを告げる。またね、そう言って紬が少し寂しそうに微笑んだ。心臓が不可解に軋み、最初の一歩に戸惑いを覚える。しとしと降る雨に急かされて、万里は月岡家を後にしたのだった。
最後の試験を無事終えた万里は、大学のカフェテラスで、薄くなったアイスコーヒーをぐいと飲み下した。明日から漸く夏休みだが、あと一週間で新居を探して引越しを完了させるというミッションが残っているので、ゆっくりもしていられない。その前に、何よりも一宿一飯の恩を返しに行かなければ。
紬とは、スマホを新調してすぐに一度連絡を取った。透明感のある声は電話越しでも健在で、穏やかな口調も相まって、雨宿りでもしているような気分になる。試験最終日、つまり今日の夜に訪問する約束を取り付けた。
すぐに帰るつもりだったのだが、丞から渡された野菜が使いきれなくて困っているから手伝って欲しいという理由で、夕飯をご馳走になることになっている。
手土産は何が良いかと思案し、思いつく中で一番美味いカフェのコーヒー豆でも持って行こうと決めた。万里は頭の中のカフェリストをさくさくとスワイプしていった。
「万里、おつかれ」
「山田か。おつ」
同級生の山田が声をかけてきたので、脳内のスマホを一旦閉じて顔を上げる。隣の講義棟からぞろぞろと学生が吐き出されてくるところを見ると、試験時間が終了したらしい。早々に提出して外に出た万里は、ここでくつろいでいたのだった。
「この後飲みに行くんだけどさ、お前もどう?」
「いや、今日は予定あるからパス」
「えー、残念。お前が来ると来ないとじゃ、女子達のテンションと参加率が全然違うのに。……ふぅん」
不自然に言葉が途切れる。にやにやとこちらを見ている山田の視線に気付き、一瞬たじろいだ。なんだよその顔は。
「彼女できた?」
「はぁ? ちげーよ」
男だし。つーか、そんなんじゃねぇし。
「それにしては、なーんか嬉しそうだけど。浮足立ってるっつーか。お前、アホほどモテんだから女なんてよりどりみどりだろうに、なんで『あの子とやっとデートできる!』みたいなそわそわした顔してるわけ。あ、まさか相手、年上? 人妻とか? 不倫はだめだぜ、万里」
「だっから、違うっつってんだろ」
怪しいなぁと、なおも詰め寄ってくる山田を、しっしっと犬のように追い払った。ひどいと言われても知ったことか。
「ま、頑張れよ。んじゃ、お互い夏休み満喫しよーぜ」
「おう。じゃーな」
もはや訂正するのも面倒臭くなって、軽い挨拶で別れると、どっと疲れが押し寄せてきて、万里は安っぽいテーブルに突っ伏した。なんだ、そわそわした顔って。ただ借りたものを返しに行くだけだ。それにデートでもない。いや、そもそも、そういうたぐいのものではない、はず、だろ。最後は半ば自分に言い聞かせるように、言葉を切った。
「くっそ、あいつ変な事言いやがって……」
すでに姿の見えない同級生に向かって、悪態をついた。
立ち上がり、ごみ箱に飲み終わったカップを投下する。毎月読んでいる音楽雑誌の今月号が出ているはずだ。家に戻る前に、気晴らしに生協に寄っていくことにした。
「あ、月岡紬の新刊出てる! 買わなきゃ!!」
お目当ての雑誌を見つけてパラパラ立ち読みしていると、隣の文芸書コーナーから黄色い声が上がる。月岡、……紬。ほわほわとした笑顔が、脳裏に蘇る。同姓同名の作家がいるのだろうか。気になってちらりとそちらを伺えば、平積みされた本を手に取って興奮気味の黒髪セミロングの女子と、不思議そうに見つめる茶髪ポニーテールの女子が見える。
「アンタ、ミステリとか読むの?」
「普段はあんまり読まないジャンルなんだけど、月岡先生は別! 殺人方法とかすっごいエグいのに、つい犯人に感情移入しちゃう切ない背景があったりして、ラストはいつも泣いちゃうんだ。それにね、文章が綺麗っていうか、静謐な感じがすごく良くて」
隣のポニーテールの女子が尋ねると、セミロングの女子が堰を切ったように好きなところをまくしたてる。
「あ、あとね、ご本人が美しい! ほら、著者近影見てみて」
「ほんとだ! 格好良いっていうか、綺麗だね。結構若い?」
「童顔だけど今二十六歳だって」
格好良いというよりも綺麗な、童顔の二十六歳。該当する人物が、どんどん絞られていく。というか、知っている人物に集約されていく。そういえば、在宅で仕事をしていると言っていたような。
「大学在学中に賞を取ってデビューしてるんだけど、寡作で、出てる本は少ないんだ。雑誌の連載でも休載が多くて、真偽は分からないけど、ファンの間では病弱なんじゃないかって噂になってる。でも月岡先生儚げだから、それも似合うのよね。病魔と闘いながら病室で執筆とか、はぁ麗しい」
「不謹慎な夢抱きすぎでしょ、それ……」
ポニーテールの女子が呆れ、セミロングの女子も確かにと笑いながらレジへと向かっていった。
不意に、頬に触れたひやりと冷たい指先を思い出し、すでに腫れの引いた右頬をさする。音楽雑誌を棚に戻し、文芸書コーナーに平積みされたハードカバーを一冊手に取った。ぺらりと表紙を捲る。果たしてそこには、見知った人物が儚げに微笑んでいた。
約束の五分前に目的地にたどり着いた万里は、インターホンを押した。ふと庭に目をやると、先日は気付かなかったが、色とりどりの植物が並んでいる。ずいぶん綺麗に手入れされている庭だ。
少し待ったが、人が出てくる気配がない。もう一度、インターホンを押してみるが、やはり同じだった。電気は付いているのに、出かけてしまったのか。スマホを取り出して電話をかけてみる。数秒の後、遠くからかすかに電子音が響く。中にいるのだろうか。無粋だと思いつつも、玄関の引き戸に手をかける。引いてみると、それはあっさりと万里の侵入を許した。心臓が、ざわめく。
「紬さーん、いねーの?」
返事はなく、キッチンの方から、先ほどよりもはっきりと電話の受信音が聞こえた。かすかに焦げ臭さを感じ、いやな予感が増す。
「入りますよ」
一応、一声かけて中に入る。廊下を一直線に進み、突き当りのドアを開けた。リビングの先、煌々と灯りのついたダイニングキッチン、着けっぱなしのコンロにはグツグツと音を立てる鍋、そして床には。
「っ紬さん!」
手から滑り落ちたスマホが、ごとりと音を立てる。構わず駆け寄って、抱き起した。エアコンの効いた部屋でありながら、じっとりと滲む汗で、癖のない前髪が額に張り付いていた。
「紬さん、おい、紬さん」
蒼白な頬を軽く叩いても、反応はない。救急車を呼ばなければ。いや、その前にコンロの火だ。抱き起した紬を、リビングのソファにゆっくりと仰向けに寝かせて火を止め、換気扇を強にする。床に転がったスマホを手にしたところで、ガラリと玄関が開いた。
「おい、入るぞ。つむ、不用心だから、鍵は閉めろとあれほど……」
「丞さん!」
小言を言いながらこちらに近付いてくるのは、先日挨拶をした幼馴染のものだ。とっさに名前を呼ぶ。
「摂津、来てたのか」
「丞さん、紬さんが倒れた」
姿を現した丞は、ソファに横たわる紬を一瞥して、苦々しい表情で万里の方を向いた。
「摂津、車回すから、戸締りして外までこいつを連れて来てくれ。病院に連れていく」
「分かった。鍵は」
「ほら」
「っす」
投げて寄越された裸の鍵を受け取って、家中の窓を確認する。ダイニングキッチンの隣は、ベッドルームと書斎らしき部屋が並んでいた。どちらも和室で、襖の先は縁側につながっている。手早くチェックして、いまだ意識を取り戻す気配のない紬を、寝室から拝借したタオルケットに包んで抱きかかえ、外へ出た。
すでに家の前には大きな車が待っていた。後部座席に乗り込んで、横たわらせた紬の頭を膝に乗せる。危なげなく発進した車は、日が落ちた街を這うように進んだ。
「結構落ち着いてるんすね。もしかして、初めてじゃないとか?」
「……ああ」
「病気、ですか」
「……いや、ああ、うん」
なんとも煮え切らない返答に、万里は不安を掻き立てられる。言い辛いような病名なのだろうか。線は細いが、病気のそれとは違うように思ったのだが。額に落ちる黒髪をさらりと撫でる。
あの海色の瞳が見たい。あの陽だまりのような声が聴きたい。名前を呼んで欲しい。早く目ぇ覚ませよ、紬さん。祈りにも似た淡い願いが、ヘッドライトの先に滲んだ。
病院の丸椅子に座ったまま、万里は向かいのベッドに突っ伏した。遠慮がちな手が形の良い後頭部を撫でても、細い指が柔らかな蜂蜜色の髪を弄んでも、ぴくりとも動かない。
「……怒ってる?」
「怒ってない」
くぐもった声は、ぎりぎり紬の耳に届くくらいの大きさで。
「……泣いて」
「泣いてねぇ」
食い気味の抗議に紬が苦笑して、万里はますます顔が上げられなくなった。それは怒りでも悲しさでもなく、ただただ恥ずかしいからである。
「もう、丞のせいで万里くんが顔上げてくれないじゃない」
「いや、俺のせいにするなよ」
「だいたい丞は、昔から言葉が圧倒的に足りないんだ。それにその眉間のシワ、そんな顔してたら万里くんも勘違いしちゃうって」
「はぁ? そもそもお前が、自分の限界も把握せずにぶっ倒れるのが悪いんだろ。毎回毎回、飯を食え睡眠をとれと何回言わせるつもりだ」
「それは……まあ、その通りなんだけど……。煮詰まってくると、つい生活が疎かになっちゃうんだよねぇ」
「睡眠不足だって馬鹿にできないだろう。二十五超えてるんだぞ、いい加減節度ある生活を」
「申し訳ありませんでした。気を付けます。……なにその目、全然信じてない。幼馴染のこと、信じられないの」
「幼馴染だから、信じられないんだろ」
だいたいお前は体力づくりすると言って、筋トレもランニングも三日ともたないじゃないか云々。頭上で繰り広げられるのほほんとした会話に、いたたまれなさは増していく。穴があったら入りたい。ないならとりあえず掘りたい。数分前までの己の言動を呪いながら、ズブズブと視界を占める白いシーツの海に沈んだ。
点滴を施された紬が目を覚ました時、ベッドサイドで祈るように手を握っていた万里は、安堵となんだか得体の知れない衝動に襲われて、紬を思い切り抱きしめた挙句、恥ずかしい言葉をまくし立てた。中身は最早思い出したくない。
「万里くんごめんね。ありがとう、心配してくれて。俺、嬉しかったよ。俺と一緒に生きてください! ってやつ、プロポーズみたいでドキドキし」
「無理。ストップ。それ以上言うの禁止。マジでやめて。死ぬ」
「紬、追い打ちをかけてやるなよ……」
「え? なにが?」
ふよふよと疑問符を飛ばす無邪気な声が、万里の頬をさらに熱くした。丞に一部始終を見られていたことも、あのな摂津、と言い辛そうに、そいつただの寝不足だからと言われた時の放心した顔を見られたことも、今すぐ二人の記憶から消し去ってやりたい。誰か俺の記憶も消してくれ。ありもしないリセットボタンを探す万里だった。
「その点滴打ち終わったら帰って良いそうだ」
「はぁい」
間延びした返事に、丞と万里は各々深いため息をついた。
「摂津、お前住むところ探してるんだろ」
車に揺られながら後部座席で不貞腐れていた万里に、丞が声をかけた。
「はぁ、まぁそーっすけど」
「それなら紬の家に住む気ないか」
「丞、それは……」
先日、本人からも提案された案件だ。
「こいつはこの通り、一人にさせておくと、とにかく危なっかしい。俺も頻繁に様子を見に行けるわけじゃないから、誰かが見ててくれると助かるんだ。それに、犬猫草花はよく拾ってくるが、さすがに人間を拾ったのは初めてだったからな。お前とならうまくやれるんじゃないかと」
人間を拾ったのは初めて。見守りサービスかよとか、つっこみどころは片手で足りないくらいあったが、そのフレーズに万里の胸が不可解に疼く。
「……誰にでも声かけてんのかと思った」
「さすがにそこまで無節操じゃないよ。万里くんは、特別」
とくべつ。今度こそ心臓がどきりとした。これは、自覚してはマズイ感情かもしれない。かぶりを振って、その「もしかして」を振り払う。
「公園で見かけた時、濡れた髪がザビーに似てて、つい声かけちゃったんだ」
「ずいぶんでかいザビーだな」
「……ザビー?」
「うちの犬。両親と一緒に田舎に行っちゃって、俺は今、深刻なザビーロスに」
「犬かよ‼︎」
ほら可愛いでしょうと写真を見せてくる紬の無邪気さに、万里は天を仰いだ。超足短えし、全然似てねえ。
「この前も言ったけど、万里くんさえ良ければ俺は大歓迎だよ」
合宿みたいで楽しそう、と暢気なものだ。ザビーロスを俺で埋めようってか。この瞬間、万里の負けず嫌いスイッチがオンになった。望むところだ。やってやる。
「住む」
「え? ほんとに?」
「アンタに、めちゃくちゃ健康的な生活送らせてやる」
花が飛んだ。と見紛うほど、晴れやかに紬が笑う。あれ? これは、マズイ。かもしれない。万里は腹のあたりをするりとさすった。ノーガードでぶち込まれた、マズイ感情の「もしかして」の答えが、ストンとそこに収まってしまったからである。
厄介極まりないが、これは好意と言って差し支えない。まどろっこしい言い方をしたのは、せめてもの悪あがきだ。なんで今なのか、なんでこの人なのか、一番知りたいのは万里だった。
「はぁ、これで俺も目の上のたんこぶ……もとい、肩の荷が降りた」
「丞、言い直してもすごく失礼だからね、それ」
「お前は迷惑かけている自覚を持て」
「万里くん、よろしくね!」
「人の話を聞けよ……」
これは早まったかも。急に自覚してしまった気持ちを持て余して、万里は曖昧に笑いながら差し出された手を握った。
スマホがLIMEの通知を知らせる。紬からだ。今日は卵の特売日です。一人二パックまでなので、一緒に買いにいってもらえませんか? 少し時間を置いて、おねがいします、というファンシーな花のスタンプが添えられた。
一気に四パックも買い込んで、一体一日いくつ消費するつもりだと苦笑しながら、了解のスタンプを手早く選んで送信すると、やはり少し時間を置いて、ありがとうのスタンプが返って来た。
共同生活を始めてすぐに、紬がLIMEを使ってみたいと言い出して、万里が入れてやったのだ。まだぎこちないし何故か敬語だが、スタンプまで添えられるようになって、子供の成長に感動する親の気持ちが少し分かってしまった。
年上の男に対して向ける気持ちとしては明らかにおかしいけれど、あの人は人を過保護にさせるオーラのようなものを纏っている。
帰り道のスーパーで落ち合う算段を付けてスマホを尻ポケットにしまうと、午後の講義へ向かうため方向転換した。
「万里、やっぱ彼女できた?」
「うぉっ、……ビビった」
にゅっと現れたのは、山田だ。神出鬼没極まりない。前世は忍者か何かだろうか。講義棟に向かって連れ立って歩きながら、探るような眼で万里を見てくる。
「夏休み明けから、摂津クンの雰囲気がすごく変わったって、女子がきゃーきゃー騒いでんぞ」
「はぁ? 変わってねーだろ、べつに」
「いーや、柔らくなったっつーか、穏やかになったっつーか? それに、今スマホみながらすげー優しい顔してたから、彼女とLIMEでもしてたのかと」
謎の洞察力を見せる同級生に、思わず後退る。見られていたのか。というか、そんな顔してたのか。なんとかポーカーフェイスを作ったが、ごまかせたかどうかは怪しい。
「万里、耳赤い」
ほら。
「っ、そんなんじゃねぇよ。ニヤニヤすんな気持ち悪ィ」
「うわぁ。モテモテ万里クンをこんなふにゃふにゃにしちゃう人って何者? ……やっぱ人妻?」
「違うわっ」
万里の長い脚が、山田の尻にクリーンヒットする。
「っ痛っ! 暴力反対!」
「うっせ」
のほほんと笑う紬が、脳裏をよぎった。
こんな気持ちは気のせいかもしれない、と思うことができないまま、共同生活はすでに二月が経過した。気のせいどころか、最早確信に変わっている。向こうにはまだ、拾った犬くらいにしか思われていないのだから、人妻よりも手ごわい。あの人、絶対ストレートだし。だが、手ごわい方が燃える性分なのだ。やってやろうじゃねーか。そしてもちろん、負け戦などするつもりもない。講義に向かう万里の足取りは軽かった。