ラプソディ・イン・ディープブルー - 1/7

 先ほど先客から奪った煙草に火をつけ大きく吸い込んで、舌に乗った甘いフレーバーに眉を顰めた。肺を満たす淀みは深いため息と共に秋空へと溶けていく。美味いわけでもなく、こんなものは、退屈な毎日に飽きてただ肺を汚すだけの自傷行為でしかない。
 連日の暑さがやっと和らいで久々に屋上に踏み込んだら、見知らぬ三人が我が物顔で居座っていた。五月蝿く所有権を主張する奴らをとりあえず拳で黙らせて人心地ついたところだった。乱れた制服を直しても、もともと着崩しているのだからどうということはない。拳に残る鈍い痛みなんて暇つぶしにもなりゃしない、これもまたつまらない日常だ。
 背を柵に預けてしゃがみ込んだ。目を瞑ると校庭から聞こえる歓声が一際大きくなる。体育の授業なんかでよく熱くなれるもんだと、呆れるとか嘲るというよりは、純粋に感心してしまう。
「法律違反で校則違反だよ、摂津万里くん」
 半分の長さになった煙草は不意に落ちてきた声と伸びてきた白い手によって攫われた。線になって遠ざかる紫煙を追いかけた先に、見慣れないスーツ姿に丸い眼鏡の男が立っている。
「これは没収」
 そう言いながら、男は奪った煙草を咥えた。赤い先端がじりじりと短くなって、解けた煙が濃紺の前髪を掠めていく。チョコレートの匂いがすると笑った表情は影になってよく見えなかった。
「誰、アンタ」
「月岡紬。一応先週から君の副担任なんだけど」
「は?タケちゃんはどーしたよ」
「竹内先生は怪我で入院されたよ。俺は代打の臨採。短い間だけどよろしくね、摂津くん」
 穏やかな声と、差し伸べられた手から微かに香る甘い煙草の匂いがとても不釣り合いに思えた。
「…どうせなら美人女教師が良かった」
「それは残念だったね」
 手を取らずに立ち上がって悪態をつく。月岡と名乗った男は特に気にする風でもなく、手慣れた様子で短くなった煙草をポケットから取り出した携帯灰皿に押し付けた。
「そっちも、没収だよ」
 そっち、と顎で指されたのは左手に収まったままのグレーのパッケージだ。
「……」
 気まぐれといえばそうだし、暇つぶしといえばそうなのかもしれない。とにかく、その時万里は、唐突にこの男の余裕を崩してやりたくなった。
「ドーゾ」
 左手をついと差し出し、伸びてきた手が触れる直前に手のひらを返すと、煙草とライターが軽い音を立ててコンクリートに落ちた。行き場を無くした手首を空になった手で掴んでぐいと引っ張って、呆気なく体勢を崩したやたら軽い身体を高い柵に縫い付けた。先ほどと立ち位置が逆になる。至近距離で見たレンズの奥の瞳は、暖かい海の色をしていた。それを縁取る長い睫毛が不思議そうにぱしぱしと瞬く。
 派手さはないが、綺麗に整った顔が随分幼く見える。制服を着ていれば学生にも間違われそうだ、というのはさすがに言い過ぎか。見た目の割に落ち着いた物腰は、明らかに年長者のそれだった。
「なぁ、センセ。黙っといてくんねぇ? 俺、次やったら親呼び出しらしいんっすよね」
 近付いた距離を、更に詰める。万里の髪が男の滑らかな頬に触れ、焦点が合わなくなった視界がエメラルドブルーに染まっていく一瞬に、人を殴った時のような鈍い痛みを伴うそれとは違う、不可思議な高揚が生まれる。
 少し顔を傾けて、唇が触れるか触れないかの距離。尻ポケットから取り出したスマホを横目で操作しながら掲げた。
「俺もコレ、黙っといてやっからさ」
 パシャ、とささやかなシャッター音が鳴る。一歩下がってスマホを確認すると、万里は満足そうに笑った。
「就任早々、勤務中に男子高校生と不純行為なんて、なかなかスキャンダラスじゃね? つーわけで、俺のことは放っといて……」
 スマホを翻して見せても、万里より低い位置にある目に怯える様子は微塵もなかった。それどころか、いかにも楽しげに微笑んでいる。
「な……ッ」
 不意にシャツの襟元を引っ張られて、思わず前のめりになる。一歩分離れた距離はいとも簡単に詰められて、万里の視界は今度こそ、碧一色に染まった。甘ったるい残り香に意識を向ける間も無い。ふにと唇が押し付けられたかと思うと、薄く開いた口から伸びた舌がぺろりと下唇を丁寧に辿って、それから離れていく。
「じゃあ、これも内緒だよ」
 呆気にとられる万里など御構い無しに、ナイショと人差し指を立てて不敵に笑った後、落ちた煙草とライターを拾い上げ、階段に向かってスタスタと歩き出してしまった。
「あっ、おい! 待てよ」
「いい子だから、授業、出てね。4限、待ってるから」
 じゃあねと去っていく後ろ姿が見えなくなるまで、呆然と見つめる。
「いい子って……」
 カキンとバットにボールが当たる音と歓声。誰かがホームランを打ったらしい。
「おっもしれーじゃん」
 からりと晴れた秋空の下、乱れた襟元の奥で、初めて知る熱に胸が踊る。万里は一つ伸びをして、チョコレートの香りを探すように大きく息を吸った。

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 細い指が紡ぎ出す少し右肩上がりの文字を、万里は頬杖をついてぼんやりと眺めていた。今朝方までゲームに勤しんでいたものだから、とにかく瞼が重い。大体一限から古文なんて、さあ寝てくれと言わんばかりじゃないか。そんな時間割を組んだ方が悪いのであって、こうやってなんとか意識を保とうとしている努力は評価されてしかるべきだ。
 噛み殺し切れなかった欠伸が、ため息となって手のひらに零れ落ちる。カツカツ響くチョークの音と、大きくはないが滑らかでやけに通りの良い声。黒板に滑る白いチョークがいつか奪い取られた煙草に重なって、あの日の甘い煙がやんわりと心のひだに触れた。
 教壇に立っている痩身の男は月岡紬、24歳。臨採教員として2週間前に着任し、万里のクラスの副担任も兼ねている。担当教科は古文。穏やかな物腰と、要点をおさえた分かりやすい授業で、生徒からの評判は上々。趣味は土いじりで、園芸部に混じって中庭の花壇の手入れに精を出している姿が目撃されている。この1週間で得たデータをつらつらと並べてみると、品行方正を絵に描いたようで、屋上で万里の唇を奪った(上に舐めた)男とは別人ではないかと疑うレベルだ。
 丸い頭頂部から飛び出た一房の毛束が揺れて、振り向いたところで視線がぶつかる。目を逸らしたら負けのような気がしたが、紬は丸眼鏡の奥で僅かに目を細めただけで、さっさと視線を左手のテキストに落としてしまう。それはそれで負けたように思えて、万里はよく分からない苛立ちを覚えた。
「万里が一限から出てくるなんて珍しいな。出席日数計算ミスったとか?」
「別にそういうわけじゃねーけど」
 チャイムが鳴り終わると同時に寄って来たクラスメイトの物珍し気な顔を一瞥し、古文のテキストをしまいながら素っ気なく頭を振った。
「あ、まさかお前も紬ちゃん狙ってんの?」
 ツムギチャンという聞きなれない単語に、一拍置いて思い当たったのは、今まさに教壇に立ち、せっせと黒板を消している臨採教員だ。そちらにちらりと目をやって、万里は無表情を崩さないよう細心の注意を払いながら、内心舌打ちした。
 お前も、とは聞き捨てならない。
「結構人気あんだよな、あいつ。地味だけどカワイイ顔してんじゃん。清楚っつーの? やっぱ男としては、綺麗なものは汚したくなるよな」
 あと、ちょっと抜けてるとこがカワイイ。チョークの粉に咳き込んでいる姿を見ながら歪んだ口元に、あながち冗談とも言い切れない下心が滲む。むさ苦しい男子校では、まれにそういう対象に見られる者がいる。そこに向けられるのは大抵恋愛感情なんてものではなく、もっと明け透けな性欲であり、子供の火遊びに似た好奇心だ。ターゲットは例えば中性的であったり、気が弱く従順そうだったりするのだが。
 分厚いレンズの奥で不敵に揺れた青が、脳裏に過ぎる。あれが清楚だなんて、とんでもない。舐めてかかったら返り討ちに合うに決まっている。とは思うものの、軽く手を引いただけで簡単に腕の中に収まってしまった細腰が思い出される。
「そうだっつったら?」
 つい口から出たのは、明らかな牽制の言葉だった。軽く鼻で笑われるとでも思っていたらしいクラスメイトは、予想外の発言にぽかんと口を開けて万里を見た。
「おいおい、マジかよ。お前ソッチは興味ねぇって……」
「つーわけで」
 下から睨みつけながら、口角を上げる。それから立ち上がって、ピシリと固まってしまったクラスメイトの肩を軽く叩いた。
「手ぇ出すんじゃねーぞ」
 あとは振り返らずに、教室から出ようとしていた紬を追いかけて腕を引いた。強く引いたつもりはなかったが、その痩せた体は、やはり簡単によろめいた。それでも臆することなく見上げてくる青い目は、屋上で見た時と同じ色をしている。
「摂津くん?」
「チョークの粉、ついてる」
 前髪にうっすらついた粉を払うと、大きな目が瞬いてふわふわと微笑んだ。
「あはは、ありがとう」
「それ、持ってくの手伝います」
「そう? じゃあ、お願いしようかな」
 手元に抱えたテキストとプリントは成人男子一人で難なく運べる量であって、万里の手は必要ないのが明らかなのに、あっさりとそれを万里に寄越したのだった。まるで相容れなそうな二人の組み合わせに、というより、主に万里の態度に生徒たちがざわざわと囁き合う。紬が気にする様子もなく教室を出て行くので、万里も後を追った。
「アンタさ、結構目ぇ付けられてるみてーだぜ」
 余計なことをしているという自覚は無理矢理頭の隅に追いやって、隣を歩く紬に小声で忠告する。
「ぼやぼやしてっと、空き教室に連れ込まれて、貞操奪われちまうぞ」
 何も言葉が返ってこないからちらりと隣を見やると、紬は俯いていた。怖がらせすぎたかと思って言葉を探しているうちに、今度は肩が震えだす。笑っているのだ、と気付いても、もう遅い。
「じゃあ、その時は君に助けてもらおうかな」
 やっぱり余計なことをしてしまった。後悔はいつだって先には立たないのだった。
「そのかわり、僕も君がピンチの時には駆けつけて、助けてあげるよ」
「いらねーよ。アンタ喧嘩弱そうだから戦力外だし。むしろ足手まといじゃね?」
「そうかなぁ。もしかしたら僕の中に眠る特殊能力が目覚めちゃうかもしれないし」
 何なんだよ、その厨二設定と謎の自信は。呆れる万里に、紬は楽しげな視線を向けてカラカラと笑った。