「あの、月岡さんがモデルのBANRIのお兄さんって本当ですか!?」
食堂で三百九十円の玉子うどんを啜っていた紬は、興奮気味の高い声に箸を置いた。
顔を上げると、この春入職したばかりの新人職員が、大きな目をきらきらさせている。緩い巻き髪を弄る指先は、濃いめのピンク色。可愛い新人が入ったと、研修中から同僚の間で噂になっていたから、紬もなんとなく顔は覚えていた。名前は……えーと、なんだっけ。
「うん、そうだよ」
「わぁ! そうなんですね! わたし、BANRIの大ファンで、ファンクラブにも入ってて。ファンミは欠かさず参加してるんです! まさかこんな所であのBANRIのお兄さんに会えるなんて、運命感じちゃうな」
BANRIって家だとどんな感じなんですか? オフショとかあったら見せて貰えませんか? ハリウッド女優と結婚秒読みって本当なんですか? 次はいつ日本に帰ってくるんですか? 矢継ぎ早に飛んでくる質問に、流石に苦笑する。
「ごめんね、俺、弟とほとんど会わなくて、連絡も取り合わないんだ。いんすて……? っていうのもやってないから、よく分からなくて。多分、君の方が詳しいんじゃないかな」
「えぇ〜」
あからさまに不満そうな顔に、こちらが申し訳なくなってしまう。サインや写真が欲しいと強請られることは多いけれど、彼女はもっと踏み込みたかったのだろう。力になってあげられなくてごめんねと、心の中でひっそりと謝罪した。
こんなやり取りは、三年ほど前から、この時期に毎年繰り返される恒例行事のようなものだ。高校卒業以来すっかり疎遠になってしまった弟の近況を、ここで知ることも多かったりする。
今は写真集の撮影でハワイに行っているらしい。
「でも月岡さんとBANRIって全然似てないですね」
片や世界を股にかける売れっ子モデル、片や平々凡々、しがない役所職員だ。
そんな肩書きなど無くても、地味で線が細い紬と違って、万里は恵まれた体躯と華やかな容姿、圧倒的な存在感で人目を引く。この反応も毎度のことなのだが、はっきり言葉に出す人は少ないから、今回の子は殊更無邪気というか遠慮が無いというか。
「あはは。まあ、俺たち血は繋がってないからね」
大抵の人は、初対面でこれ以上家庭の事情に踏み込んでは来ないものだけれど、この子はそうもいかないかもしれない。
さてどうしたものかと思案していると、助け船は、突然横から現れた。
「はいストップそこまでー。君ね、初対面の先輩に向かって失礼すぎ」
「あ、茅ヶ崎先輩!」
「至くん」
割って入ってきてくれたのは、学生時代からの友人である茅ヶ崎至だった。学部は違うものの、同じ大学の一つ後輩にあたる。他学部の授業をとった時に、たまたま同じグループになって以来、親しくしていた。この春の異動で同じ庁舎に勤務することになったばかりで、互いの家を行き来したり飲みにいくことは多々あったものの、職場で会うようになったのは最近のことだった。
「ほら、もう昼休み終わってるでしょ。早く戻りなさい。うちの部長、遅刻とか結構厳しいよ?」
彼女は至の部下にあたるらしい。腕に纏わりつかん勢いの新人を、至は慣れた様子で軽くあしらった。万里もそうだったけれど、至も女性の扱いというかあしらい方が上手い。それだけ場数をこなさざるを得なかったのだとしたら、モテるっていうのもなかなか大変だ。紬は呑気な感想を思い浮かべながら、二人のやりとりを見守っていた。
「はーい。月岡さん、またね」
「あ……はは、また」
ひらひらと手を振って、颯爽と去っていく後ろ姿を見送る。
「最近の子はパワフルだなぁ」
「なーにおっさんくさいこと言ってんの」
「俺ももう二十九だし。新人さんからしたら、そんなものじゃない?」
「そしたら俺もおっさんになっちゃうじゃん」
断固拒否。至が綺麗な顔を歪めた。
「至くんはおじさんじゃなくて格好良いお兄さんだよ」
本心からそう伝えると、下がり気味の口角がくいと持ち上がった。安いフォローは受け取って貰えたようだ。
「食事の邪魔してごめんね、紬」
「ううん、慣れてるから大丈夫だよ」
向かいに座った至に笑い返して、すっかり伸びてしまったうどんを啜る。冷たくなっても美味しいから、卵は偉大だ。
「てかさ、最近仕事忙しそうだけど、大丈夫?」
「うん、今はちょっと大変だけど、もうすぐ落ち着くと思う」
お役所仕事なんて揶揄されることが多いけれど、仕事が立て込んで、残業三昧に休日出勤なんて時だってある。そして今はまさにそんな最中なのだった。
要領の良い義弟と違って、紬は器用なタイプではない。多忙になるとつい寝食が疎かになってしまって、家族や友人に心配をかけていた。
新人の頃には職場で倒れて、迎えに来てくれた万里にひどく叱られたこともあった。背負われて帰る道すがら、自分自身に頓着しないたちだから危なっかしいのだと、真剣に叱った少し掠れた低い声や、広い背中や、たくさん穴が空いた耳や、大人っぽい香水の匂いに、彼が男の子なんかじゃなくなっていたことを知る。そして芽生えたのは少しの寂しさと、言葉にしてはいけない類の情だった。
思えばあの頃から、年長者として不甲斐なかったのだ。だから、簡単に間違えてしまった。
後悔はこういう日常の隙間の、ふとした瞬間にむくむくと湧いてくる。そして決まって、万里を受け入れた朝と、ひどく突き放してしまった夜を思い出した。
「万里くん、元気にしてるかな」
身体の奥がじりじりと焦げ付いていくような感覚を振り払って、急いで兄の面をかぶった。
「気になるなら自分から連絡取れば良いのに。兄弟なんだからさ」
「あはは、……うん」
ゲームという共通点があって、至は万里とも仲が良い。紬よりも遥かに正しく兄らしいとさえ思う。
「まあ、男兄弟なんてそんなもんか。万里、元気そうだよ。昨日も、生意気にも俺に一戦挑んできた。まあ返り討ちにしてやったけど。あ、ゲームの話ね」
至は、ある時からすっかり変わってしまったふたりの関係に、もちろん気付いている。けれど、深く詮索することはしない。それが心地良くてつい甘えてしまうのだから、やっぱり不甲斐ない。
「そっか、ありがとう」
玉子うどんの最後の一口は、なんだかつるつるしているだけで、味が良くわからなかった。
抱えていた案件がようやく落ち着いて、一週間ぶりに日付を越えずに帰宅した紬は、玄関先の人影を視界に捉えて思わず足を止めた。
シャツに薄手のロングコート、細身のデニムにスニーカー。そんなシンプルな格好が、均整のとれた長身をより引き立てている。
昔はもっと派手なファッションを好んでいたように思うけれど、どんな洋服もさらりと着こなしてしまうところは変わらない。スカウトされてモデルの仕事を始めたと母伝いに聞いた時も、少しも驚きはなかった。
目を閉じて、三度の深呼吸。それから目を開ける。それだけじゃおさまらない鼓動をスーツの中に隠して、懐かしい長身に歩み寄った。
「ハワイじゃなかったの?」
「……へえ。アンタはもう、俺のことなんて興味ねーのかと思ってた」
そう言って、義弟は記憶よりもずっと大人びた色気を滲ませて、静かに笑う。四年ぶりの再会だなんて、嘘みたいだ。そう思ってしまうのは、大きな広告や雑誌の表紙、街のあちこちで、彼を見てきたからだろうか。
街に溢れるBANRIは、挑戦的に挑発的に、そしてときに蠱惑的にこちらを見据えてくる。その鋭い桔梗色は自信に満ちていて、だからこそ、あの日の縋るような眦を思い出さずにはいられない。それは後悔を取り繕おうとして失敗し、未練にもなりきれず、情欲というあけすけな形で持って紬を責め苛んだ。
「そんなことないよ。大事な、弟だもの」
模範解答の語尾が不格好に揺れる。当然それは万里にも伝わっているのだと知れて、射抜くような視線から逃れようと俯いた。
ダイジナオトート、な。ため息混じりの声に、肩が揺れる。けれど、万里はそれ以上の言葉を繋げたりはしなかった。そこに見える余裕に、一層いたたまれなさが増す。
「撮影終わって、今日こっちに着いた。これは土産。んで、こっちは母さんから。実家寄ったら持ってけって言われた。アンタ全然帰ってこねぇって、心配してたぜ」
ずいと渡された二つの紙袋の中身は、大きなタッパーに入ったカレーと、コーヒーだった。
促されて招き入れた部屋は、ここ最近の激務ですっかり散らかっていて、長旅帰りの客人は呆れた顔をしながらも、ゴミ袋を持って片付けを手伝ってくれた。
「安心した」
一人暮らしにダイニングテーブルなんて気の利いたものはない。ローテーブルに向かい合って懐かしい味のカレーを食べながら、ぽつりと万里が呟いた。
「何が?」
「オンナと暮らしてたらどうしようかと思ってたけど、そんな影ゼロで」
「どうせ俺は、君と違って女性にモテないよ。ハリウッド女優と浮き名を流したこともないし」
「ははっ、なんだよそれ。俺も初耳だわ」
噂というのは火のないところにも立つらしい。じゃあ火があるところからは、どれほど強く高く広く立ち昇ってしまうのだろう。どうせなら、濃い煙に巻かれて、誰からも見えなくなってしまえれば良いのに。
「オトコと暮らしてたら、もっとどうしようかと思ってたけどな」
冗談ぽい口調と裏腹に、向けられる視線がひどく熱くて、誤魔化すように残りのカレーを無理やり口に放り込んだ。
母のカレーは甘口だ。子供の頃から、大人になった今も変わらない。それが今は優しく思える。赦しを、もらえる気がするからだ。
「コーヒー、淹れるね」
キッチンに立って、湯が沸くのを待ちながら皿を洗う。泡だらけのスポンジを持った手首を、伸びてきた大きな手に掴まれた。振り返ることなんてできなくて、ただただ背中が熱い。背中だけじゃなくて、全身が灼けついてしまいそうだ。
「痩せたっつーか、やつれてる。アンタ、自分に無頓着すぎてほんと危なっかしい」
全然変わってねえと、いつか叱られた時とは違う、穏やかな声音。そんなに優しく抱きしめないで。ずっと蓋をして、鍵をかけて、見て見ぬふりをして、でも捨て去ることなんて少しも出来なかった厄介な感情が暴れ出す。
こんな薄っぺらい身体なら、すぐに内側から食い破られて、溢れ出してしまいそうだ。
「万里くん」
諫めるために呼んだ名は、驚くほど甘く舌先を滑る。こんなんじゃ、なんの口実も並べられない。
「俺は、もうガキじゃねーよ。アンタは俺を守ろうなんて思わなくてもいいし、アンタが怖がってるもんは、俺が一緒に背負う。だから、紬さん」
紬さん。ずっと鼓膜に張り付いて消えなかった声に、ひどく胸が軋む。ぎゅっと拳を握ると、ふくふくの白い泡が手の甲にまで溢れ出して、シンクにぼとりと落ちた。
薄い腹を撫でた大きな手も、頸にかかった息の熱も、貫かれた痛みも、拙く愛をのせた柔らかな唇も。彼に与えられたものは、ひとつも漏らすことなく全部この身に残っている。なにも変わっていないのは、紬の方だ。結局のところ、万里の許容によってこの四年は成り立っていたのだと、認めざるをえなかった。
ケトルがシュンシュンと音を立てる。まるで警笛のようだと思いながら、振り向いてしまえば、紬の視界はただ一人の男でいっぱいになっていた。