chapter:1
ぽつりと降り出した雨は、瞬く間に大粒の雫となって店先の植物をしたたかに打った。紬はいつの間にか立ち込めていた雨雲に目をやり、今朝の天気予報を反芻する。曇りのち晴れ。本日の予報は、どうやら大外れらしい。
急いでディスプレイしていた切り花や花束を店内に運び入れ、一息つく頃には、外は土砂降りになっていた。思いのほか冷たい雨は、秋の気配を色濃く纏っている。
天鵞絨駅のメインストリートから、一本奥まった通りにひっそりと佇む花屋、Bloom。紬は、この店の雇われ店長だ。祖母の影響で幼い頃から植物が好きだった紬は、大学一年の夏から、この店でアルバイトとして働くようになった。豊富な知識と花選びのセンスが、オーナーのお眼鏡にかなったらしく、二年が経つ頃には、ホテルや飲食店の装花も任されるようになっていた。
紬としても、大好きな植物に囲まれた生活には満足していたので、大学卒業後は請われて店長となり、そのまま居座っている。
主に業務店の装花を担当しているから、普段はお得意先に出掛けていることが多い。けれど今日は、アルバイトの綴がどうしても外せない用があるらしく、代わりに店頭に立っていた。
生成りのエプロンについた水滴を、ばさばさと払い落とし、ひとつ大きく伸びをする。駅前に大きな花屋があるし、大通りからも外れている。そんな立地から、元々一見さんが少ない店だ。加えてこの雨では、客足も伸びないだろう。そう一人合点して、少し早めの休憩を取ることにする。
レジの右側、窓際に置いた小さなアンティークのテーブルと椅子が、休憩スペースだった。オーナーが特にこだわって選んだという椅子は、座り心地が良く、紬もとても気に入っている。
事務所の電気ケトルをセットし、 馴染みの店で焙煎してもらったばかりのコーヒー豆と、鋳鉄製の手挽きミルを持ち出す。これは、コーヒー好きの祖母から譲り受けた、紬の私物だ。ホッパーに一人分の豆を流し入れたところで、軒先の方からバシャンと物音がした。
「お客さん……かな」
手にしたミルをテーブルに置いて、入口へ向かうと、ドアを押し開いた。
「いらっしゃい……ま……せ?」
「……あ?」
見覚えのある制服を身に纏った長身が、こちらを振り返った。ハチミツを溶かしたような明るい髪が、形の良い額に張り付いている。それをうっとおしげにかき上げる仕草は、どこか色香を帯びていて。端正な顔立ちとあいまって、制服とのアンバランスさが際立った。
「えーと」
「あー、わりぃ。傘持ってなくて。ちょっと雨宿りさせてもらっても、いいっすか?」
肩に落ちた水滴を振り払いながら、彼は言った 。
眇めた目は桔梗。淡い藍紫の虹彩が、雨を映してきらりと瞬く。
気だるげで少し掠れた声は、彼にとても似合っていた。乱暴な言葉遣いとは裏腹に、すっと伸びた背筋や、洗練された指先が、育ちの良さを物語る。
雨音が、ざらりと耳朶に響いた。
「あ、あの。コーヒー、好き?」
思わず口をついて出ていたのは、なんとも間抜けなセリフだった。案の定、彼は訝しげな視線を、無遠慮にぶつけてくる。
「雨、しばらく止みそうにないから。えっと……良かったら、コーヒー飲んでいかない?」
相手は初対面の高校生。我ながら、変な事を言っている自覚はあったのだが。紬があたふたと言い訳にもならない言葉を並べていると、眉の皺をすっと解いて、破顔した。警戒心が解かれた瞳は、途端に人懐こさを湛え、年相応の表情を見せる。
「ふはっ。それナンパ?」
イタダキマス、と彼は笑い、紬もつられて笑った。風に煽られて、ミルクティ色の髪が柔らかに閃く。雨足はいっそう強まるばかりだった。
「あ、これ、二駅先のカフェのっすよね? 入口分かんねーくらい、観葉植物がいっぱい置いてあるとこ」
手渡したタオルで、ガシガシと乱暴に濡れた髪を拭きながら、テーブルに置いた豆の袋を見て彼が言った。
「ごちゃごちゃしてるのに、ウザい感じになんねぇんだよな。統一感があるっつーか、それぞれ個性的なのに、全部優しい雰囲気があるっつーか」
摂津万里と名乗った彼は、花学の三年生らしい。摂津くん、と呼ぶと、万里で良いと返ってきた。
「それに、コーヒーも美味かった」
「正解。万里くん、詳しいね。俺も、あのお店のブレンドが好きなんだよね。それに、あそこの植物は、元は全部うちの子たちなんだ。だから、そう言ってもらえて嬉しいな」
手挽きミルのホッパーに、もう一人分の豆を注ぎながら、紬は自身の高校時代を思い出す。
一度、幼馴染に無理を言って、地元で有名な老舗の喫茶店に付き合ってもらったことがあった。その扉は、高校生の紬にとって、一人で開けるには重かったのだ。
どうしても入ってみたかった喫茶店は、なんだか自分が場違いに思えて、いたたまれなかった。コーヒーを一杯飲んで、早々に店を出たことは覚えているが、味はよく覚えていない。
最近の高校生が皆早熟なのか、向かいに座る万里が特にそうなのかは分からないが、彼ならば、どんなお店にも悠然と入り、馴染んでしまうのだろう。
紬は慣れた手付きで豆を挽き、温めておいたドリッパーにセットした。
全体に行き渡るように、満遍なく湯を注ぐ。新鮮な豆はぷくりと膨らみ、芳ばしい香りが店内に広がった。控え目な湯気の行方を追っていくと、万里と目が合う。
「あー、なる。なんか分かるわ。雰囲気、紬さんに似てんだ」
俺も名前で呼ぶ、と万里は屈託なく笑った。
二十四年間付き合ってきた自分の名前なのに、彼の口から紡がれたものは、なんだか特別な言葉のようで、くすぐったい。
「俺に?」
「ん。なんか落ち着くんだよな。俺、植物とか別に興味なかったんすけど、つい入っちまったもんな。まぁ、味も良かったから、良い店発掘できてラッキーだったんだけど」
「そっか」
上手い返事が思い浮かばない。
彷徨わせた視線を結局手元に落として、ドリッパーに湯を細く垂らしてゆく。蒸らした豆が花のように開き、甘い香りが鼻孔を擽った。
視線が熱いのは、きっと気のせいだろう。
注いだ湯が落ちきる前に、ドリッパーを外す。サーバーを数回揺らすと、温めておいたカップに均等に注いでいく。砂糖はいらないと言うので、そのままカップを差し出した。
受け取った長い指は、爪の形まで綺麗で、紬はすごい発見をしたような高揚感を覚えた。
「どーも。……ん、美味い」
思いのほか身構えていたらしい。紬はほっと息を吐いて、肩の力を抜いた。
「お口に合ってよかった。万里くん、舌が肥えてそうだから、緊張しちゃった」
なんだそれ。万里がくしゃりと笑う。それからもう一口飲んで、うんと頷いた。
「マジで、店開けそうなくらい美味いっすよ。俺、お世辞とか言えねーし」
「うん、ありがとう」
ぶっきらぼうで真っ直ぐな賛辞がくすぐったくて、紬は眉をへにゃりと下げた。
近所に最近できたカフェの話、店に来た風変りな客の話、学校の話、好きな映画の話、ゲームの話。噛み合ったり、噛み合わなかったり。他愛もない会話は尽きない。
二人の共通点と言えば、カフェが好きなことくらいで、趣味も興味のベクトルもまるで違う。さらにカフェと一言で言っても、万里は品揃えと味重視だし、紬は居心地の良さを重視している。もし同級生だったら友達にならないタイプだな、とお互いに頷き合った。
それでも、ふとした瞬間に二人の間に落ちる沈黙は決して気まずいものではなく、むしろ心地よさを感じさせるのだった。
年齢が七つ離れていることが発覚した時の、万里の驚きようといったらなかった。バイトの大学生かと思った。そう素直に口にした後、 あからさまに落ち込んだ紬に、ばつが悪そうに「見た目若いは誉め言葉っしょ」と、フォローになっているのかいないのか分からないような言葉を繋げる。必死で弁解する万里がなんだか可愛くて、紬は声を上げて笑った。
「なぁ、これも紬さんが作ってんの?」
二杯目のコーヒーを飲み終えたところで、万里は不意に立ち上がり、先ほど運び入れた花籠に近付いた。
ダリア、コスモス、カトレア、リシアンサス。色数を抑えたシンプルな花束がいくつか収まっている。
「そうだよ」
「へえ、すげぇ。あ、コレがいいな」
黄色のコスモスをあしらった花束を手に、万里が振り返る。尻ポケットの財布から千円札を二枚取り出すと、紬に向けた。
「え、買ってくれるの? お代は良いよ。俺の休憩に付き合ってもらっちゃったし」
「なーに言ってんすか。売りもんだろ?」
ほれ、と無理やり手に収められてしまったそれに、紬は引っ込みがつかなくなってしまった。
どうにも推しには弱い。
「う……じゃあ、アリガトウゴザイマス」
「ん、どーも」
観念して代金を受け取ると、つり気味の目は満足そうに細められた。
わずかに触れた指先が、じりと熱を持つ。目のやり場になんとなく困ってしまい、助けを求めるように店先へ向けると、雨はすっかり上がっていた。通り雨だったようだ。
「じゃ、雨も上がったみてーだし、俺もそろそろお暇するわ」
そう言うと、万里はさっさと入口へ向かってしまう。上背のある後ろ姿を、紬は慌てて追いかけた。
慌てていたせいか、単に瞬発力の問題か、店を一歩出たところで急に立ち止まった万里の背中に、思いきりぶつかってしまった。
「わっ、ご……ごめんね。大丈夫だった?」
万里が振り返り、手にしていた花束をずいっと紬に寄越す。
「はい、これ」
「……へ?」
勢いに負けて、つい受け取ってしまった紬は、花束を見つめたまま状況を飲み込めずに停止する。
「雨宿りと、美味いコーヒー飲ませてもらったお礼」
頭上から降ってきたのは、投げやりにすら聞こえるぶっきらぼうな声。しぱしぱと瞬いて、まだ言葉を紡ぎ出せずにいると、大きな手がさらりと艶のある黒髪を攫ってゆく。
頭を撫でられたのだと気付いて、紬が花に落とした視線を上げる頃には、万里はすでに踵を返し、横断歩道を渡っているところだった。
しなやかな体躯は、水溜まりを軽々と飛び越えてゆく。
少し肌寒い風と、青い点滅が、ざわざわと紬の心臓を掻き立てる。信号は、やがて赤に変わった。何か告げなければ。お礼を。そう思うのに。言葉は、少しも出てこない。
「じゃあな」
道路を隔てた向こう側、万里がいたずらっぽく笑った気がした。
またね。遠ざかる背中にやっと投げた言葉には、名残惜しさが滲む。返事は届かなかったかもしれない。
紬は花束に鼻先を埋め、すっと息を吸い込んだ。
意外と律儀なんだな。新たな発見に口元が綻ぶのを、止める必要もない。
雲間から緩くさす光が、たった今生まれ落ちたばかりのような瑞々しい世界を、きらきらと瞬かせていた。