潜り込んだ冷たい布団の中、ひやりとした空気を吸い込めば、あの人の匂いが肺を満たしていく。
ごーん、ごーん。
遠く聴こえるのは、除夜の鐘の音。こんなもんで払える煩悩がどれほどあるだろう。今まさに煩悩の塊になっている万里は、ぼんやりした頭でそんなことを考えた。
枕元のスマホを手に取って、ライムをタップする。一時間ほど前に送ったメッセージに既読すらついていないことに、ため息を溢した。まぁ、あの人がスマホ見ないのなんて、いつものことなんだけど。
ブルーライトが今日はやけに眩しい。眠りが浅くなっちゃうよ、と咎める声が無性に聞きたい。ほら、また煩悩が一つ生まれた。でも仕方ないだろう。やっと心身共に繋がれた恋人がここにいないんだから。
「万里くん、ごめんね。俺、どうしても、どうしても、……ザビーに会いたいんだ」
紬がついにザビーロスの限界を迎えたのは、二十七歳の誕生日の翌日のことだった。前日、それはもう深く愛し合って、多幸感に押し潰されるんじゃないかと思った日の翌朝。ベッドの中、昨日の余韻が刻まれた肌を摺り寄せてきておいて、悲壮感たっぷりにそう宣った。そして、呆然とする万里を残して、両親と愛犬が住む田舎へと旅立ってしまったのだ。風のように、びゅんと。
余韻をぶった斬られ、一人取り残された万里はというと、家主不在の月岡家で年越しを迎えようとしている。
実家に戻らなかったのは、両親と姉夫婦が揃ってハワイ旅行へ旅立ったからだ。大学の課題があって、万里は元々行くつもりがなかったし、誰もいない実家に戻っても特にすることはない。それならば、この半年ですっかり馴染んだこの家で恋人の帰りを待っている方が良いと思ったのだ。
健気すぎて我ながら笑える。全く、犬はどっちだろう。愛犬に似ていたからという理由で拾われた経緯もあって、なんとなく対抗心があるのは否めない。いや、犬相手に何考えてんだって話なんだけど。しかし毛玉の魅力に負けた万里は今一人寂しく、恋人のベッドで横になっているわけで。
たった半年だ。紬と出会って、一緒に暮らし始めて、恋をして、追い掛けて、捕まえて、赦されて。人生ってのはどこでどう転ぶか分からないことを身をもって知った。でもこれは運命なんかじゃない。万里は確かな意思で紬を欲しいと思ったし、紬もそうだから、心も、身体まで差し出してくれたのだと思う。
ごーん。またひとつ、諫めるように鐘が鳴る。スマホを放って、寝返りを打った。
さっさと寝てしまおう。愛しい恋人だって、明日には帰ってくるんだし。そう言い聞かせて、目を閉じた。
***
もぞもぞと下半身に違和感を感じて、万里は微睡の淵から一気に引き戻された。
なんか、居る。幽霊にしてははっきりした感触があるし、犬猫にしてはしっかりした重量感がある。
違和感がのそりと這い上がってくる。息を潜めて待った。あと少し、あと少し。……今だ。
がばっと起き上がって翻り、侵入者をベッドに縫い付けた。
「うわぁ!」
聴き慣れた声。常夜灯が映した輪郭に、ふはっと笑いがこぼれ落ちた。よく知っているなんてもんじゃない。
「紬さん? ホンモノ?」
「本物です」
やっぱりな、となんでここに、がまだ覚醒しきっていない頭の中でぐるぐるしている。
「何やってんの」
「あはは、えーと。……夜這い?」
「はぁ? いや、てかなんでいんの。帰ってくるの明日じゃなかったんすか」
もう今日かもしれないけれど。暗がりで時計はよく見えない。
ベッドに縫い付けられたまま、紬は視線を彷徨わせた。それから照れ笑いを浮かべる。
「ザビーに会えたら、今度は万里くんロスになっちゃって。予定を早めて帰ってきちゃった」
えへへって、アンタ。二十七歳というのが疑わしい可愛らしさで笑うから、万里はがっくりと項垂れた。
「急に出て行っちゃったこと、怒ってる?」
「怒ってない」
嫉妬はしたけど。それもわざわざ詳らかにする必要はない。心配そうにおずおずと見上げてくる瞳を覗き込んだ。
ほんとに? 目で問うてくるから、万里は破顔した。あんな勢いで飛び出しておいて、なんで急に弱気になるんだ。
唇を寄せれば、くいと顎がのけぞった。少し触れ合わせて、離れようとした万里の背に紬の腕が回る。思いのほか強い力で抱きしめられて、促されるまま今度は深く口付けた。
万里くんロスとかいうステータス異常の症状が出ているようだ。こりゃ、早く治してやらないと。
「帰ってきてくれて、嬉しい」
正攻法で、素直に直球勝負。芸はないがこれが効くのはわかってる。ほら、きゅっとひき結んだ口の端がちょっとむず痒そうに歪んだ。
「ただいま、万里くん」
「おかえり、紬さん」
「あ、それから明けましておめでとうございます」
「ふはっ、それ今言う?」
「挨拶は大事にしなきゃ」
大真面目に言うのが可笑しい。けど、そういうところ、結構好きだ。
「明けましておめでとうございます」
倣って繰り返せば、満足げに紬が微笑んだ。
「今年もよろしくね」
「っす。よろしく」
それから、ぎゅうぎゅう馬鹿みたいに抱きしめ合った。治してやらないと、なんて思いながら、この人が万里くんロスになってる間、こっちだって紬さんロスになってたわけで。
埋め合うのはお互いしかないから、苦しいねなんて照れ笑いしながら、それでもどっちも腕を緩めたりしなかった。
運命なんてもんじゃない。抱き合うたびにそう思う。この人を欲しいと思うのも、この人が欲しいと思ってくれることも、隣にいないと落ち着かないことも、全部、ふたりで育てた感情で、だから愛おしいのだ。
「ロス、解消できた?」
「全然、足りないよ」
君だってそうでしょ。そう言って擦り寄る身体を抱き起こした。それから、反対に万里はごろんとベッドに寝転がる。
「何してるの、万里くん」
「だって夜這いしにきたんだろ?」
「え、え?」
「ほら、初志貫徹。続き、お願いします」
まだ身体を重ねた回数は片手で足りる。経験が少ない分、貞淑でありながら勉強熱心な彼は、新しい試みにも積極的だったりする。そういうところも、もちろん好きだ。
「頑張ってみるけど、お手柔らかにお願いします」
「いやいや、それ仕掛ける側が言うことじゃねーからな。まーそう硬くならず。ほら、続き続き」
「それだって仕掛けられる側が言うことじゃないからね?」
そんな色気のない応酬に紛れて、慣れない手がスウェットに乗った。
もう除夜の鐘は聴こえない。払えなかった煩悩なんて、ふたりで丸めて食ってしまえば良いんだ。そう片付けて、夜の帳の片隅で睦み合う幸福に、身を委ねた。