営業部コロス。開発部に配属されてから五百回以上は思ったし、そのうち百回くらいは口に出してきたセリフを吐き出しながら、キーボードを叩く。
金曜日の二十三時。本当なら今頃恋人とテレビでも見ながらダラダラ過ごして、ちょっといい雰囲気になってベッドへお誘いを入れている頃合いだ。それが今、薄暗いオフィスに一人、社畜よろしくオシゴトに勤しんでいる。
不毛だ。不毛すぎる。けれど、仕事の手を抜くわけにはいかない。左京さんの制裁が怖いからでは断じてなく、俺には俺の矜持というものがある。それに、仕事を完璧にこなしてこそあの人の、紬さんの隣に並び立つ資格を得られる気もする。
ようやく手が届いた七つ年上の恋人。振り向いてもらうまでもその後も、全然一筋縄じゃいかなくて、我ながら笑えるほど必死だった。過去形にするには早すぎるくらい、今だって。
区切りが良いところで一息入れる。同僚から差し入れられたチョコレートを口に放りこんだ。
ライムを開いて、先に寝ててとメッセージを送る。すぐに返事が来ないのはいつものことだ。既読すらつかないことも少なくない。期待は禁物。でも本当は今、アンタの労いの言葉が欲しくて仕方ない。こんなダセェこと、絶対言わないけれど。
肩をぐるぐる回して、またディスプレイに向き直る。晩飯を一緒に食う予定をドタキャンしてしまったのだ。せめて明日のデートの予定は崩さないように、休日出勤を阻止するべく全力で片付けてやる。
おっしゃ、やるぞと意気込んだその時、後ろから突然声がかかった。
「ばーんーりーくん」
「どわっ!」
驚いて振り返ると、何故かスーツ姿の恋人が悪戯っぽく笑っている。
「つ……むぎさん……?」
会いたいあまり幻を見たのかと目を擦っても、やっぱり、いる。ホンモノだ。
「なんでいんの?」
「きちゃった」
エヘヘとアラサーにあるまじき可愛さで頬をかき、それからコンビニの袋を掲げた。
「陣中見舞い……のつもりだったんだけど、お邪魔だったかな」
謎の行動力を見せるくせに急に弱気になるところが可笑しい。邪魔なわけねーだろ。と言葉で言うより先に、細身の身体をぎゅっと抱きしめていた。そろそろとまわされた手が、あやすように背をさする。石鹸の香りを吸い込めば、心のトゲトゲがぽろぽろと剥がれ落ちていく心地がした。
「すげー嬉しい」
「ふふっ、よかった」
なかなか会社でこんなに触れ合えることもない。深夜残業なんて滅して然るべきだが、この甘美なご褒美はしっかり頂戴しよう。
すぐに帰るつもりだったらしい紬さんを引き留めて、本格的に休憩をとることにした。パフォーマンスを上げるために、心身ともにリフレッシュは大事だ。
紬さんは隣の席に腰を下ろした。いつもは甘党野郎が座っているところに紬さんがいるだけで、世界が違って見える。ただのコンビニおにぎりの旨味が増した気さえするから、不思議だ。
「晩飯、一緒に食えなくてすんませんでした」
「ううん、謝らないで。万里くんはお仕事頑張っててえらいよ」
圧倒的癒し。さすが癒し系秘書の名は伊達じゃない。緩んで仕方がない頬を隠すため、はいどうぞと渡された緑茶をぐいとあおった。
「ぜってー今日中に終わらせっから」
「頑張ってくれるのは嬉しいけど、無理しないでね。……あ、そうだ。これ」
良かったら、と鞄から取り出したのは、小洒落たパッケージの小さな瓶だった。
「栄養ドリンクっすか?」
「うん。最近の万里くん、ずっと忙しいでしょう。疲れが溜まってないか心配だってランチの時に話してたら、東さんがくれたんだ。凄く効くから万里くんに一本どうぞって」
「あの人が効くっつーなら、やべーくらい効きそうだな」
脳内の美魔女が妖艶に笑った。幅広い知見と圧倒的な説得力を持つ東さんだ。とりあえず試してみるかと封を開けた。
至さんあたりなら、ネタでマムシドリンクくらい渡してきそうなもんだなどと考えながら、一口。栄養ドリンク特有の甘みは抑えられていて、飲みやすい。生姜でも入っているのか、身体がぽかぽかと温まってきた。
「結構飲みやすいっすね」
「そうなんだ。よかった」
コレで効くならリピートしてもいいかな、なんて悠長に商品名を検索サイトに放り込んでみて、後悔した。
待て。待て待て待て。あの人、至さんどころじゃねーじゃねぇか!
「紬さん、……これさ」
「うん?」
あっという間に「暖かい」は「熱い」になっていく。おいおい、マジか。覗き込んでくる無垢な瞳に、ズンと身体の中身が熱を持った。
「栄養ドリンクっつーか、……精力剤」
「え?」
「しかも即効性あって、めちゃくちゃ強力なヤツ」
「え?」
スマホの画面を向けてやった。商品説明の下には、五つ星の明け透けな口コミがずらりと並んでいる。
「……えぇ⁉︎」
一呼吸置いて、ぼんっと効果音がつきそうなほど、紬さんの頬が一気に真っ赤になった。
「ごっ、ごめん! 万里くん、大丈夫? 吐き出す? みっ、水飲んだら薄まるかな……」
わたわたと慌てふためく様子が可愛い。可愛すぎて今すぐ抱き潰したい。最近忙しくて恋人らしい触れ合いができていないから尚更、思考が危ない方に傾いている。て言うかコレ、最早媚薬なんじゃないか。だんだん息も荒くなってきた。
「や、もう効いてきてて、……結構ヤバい」
正直、下半身が痛い。とはいえ。流石にこんなところでどうこうするわけにもいかない。汗が滲む額に張り付いた髪を、乱暴にかき上げた。幸い、トイレは廊下を挟んで斜向かいにある。それくらいは保ちそうだ。いや、保たせてみせる。
「悪ぃ、ちょっとトイレで抜いてくるわ」
なんとか立ち上がって廊下へ向かおうとした俺の手を、紬さんがくいと掴んだ。
「ちょっ、離して紬さん。マジで、早く行かねぇとやべーから」
「俺、手伝うよ」
「は?」
聞き間違いかと思った。しかし、意志の灯った青い双眸が、しっかりとこちらを見据えている。
「だから、ここで脱いで。万里くん」
「……はぁ??」
紬さんは時に、予想の斜め上にぶっ飛んだ大胆な行動をとる。今までもそれに振り回されてきたわけだけど。
今回のはちょっとレベルが違いすぎやしませんかね、紬さん。