ホットチョコレート - 1/3

摂津万里は面倒な事が嫌いだ。
授業なんか出なくても、教科書を一通り読んでテストに臨めば学年で5位以内に入るし、出席日数を計算して、卒業できるラインは押さえてある。勉強も、スポーツも、どんなことでもたいてい、一生懸命やっている奴よりも上手くこなせてしまう。なんで出来ないのか理解できないし、周囲から勝手に向けられる羨望や嫉妬の眼差しは、ひどく居心地が悪かった。つるんでる奴らはいるが、特に親しいわけでも毎日会いたいわけでもない。つまり、学校なんてヒマ潰しにもならない、無駄と面倒事の集合体のような場所だった。

芝居に出会った今も、その考えは変わっていないが、寮には口煩いにもほどがある大人たちがいる。(しかも一人はヤクザだ)
サボってることがバレると滅茶苦茶面倒臭いから、基本的に学校には行くようにしている。ただ、6限までマジメに居るかというと、
「……ま、無理だわな」
そんなわけで、今日も古文とLHRを残して、さっさとバックレたわけだ。
日はまだ高い。まだ寮に帰るには早いから、目を付けていた最近オープンしたばかりのカフェで時間を潰すことにした。学校からも寮からも程よく離れていて、立地的には潜伏場所として申し分ない。
スマホを取り出して、店の場所を改めて確認すると、学校の前の公園を突っ切っていくのが近道のようだった。

低い生垣を軽々と飛び越え、最短距離を取って斜めに突っ切っていく。等間隔に並ぶベンチも、中央の芝生も、人はまばらだ。右手には樹木がうっそうと茂っていて、日差しのわりに、ひんやりとした空気を纏っていた。舗装された遊歩道から外れ、向かいの道路を目指して、足早に並び立つ木々の間をすり抜けると、ガサガサと葉が擦れる音が鼓膜を震わせた。
「……っ、んぅっ……はぁっ」
続いて聞こえたのは、荒い息遣いとくぐもった声。
平日の昼間の公園にはおおよそそぐわない、明らかな色を帯びている。おいおい、真昼間から盛ってんじゃねぇぞ。 無視して通りすぎようとした万里は、はたと足を止めた。
「んんっ……いや……だ! やめてください!!」
「君がボクを誘ったんじゃないか。ほら、気持ちよくしてあげるから」
「やっ、やめ……!」
拒絶の声は、男のものだった。しかしそれは重要ではなく。
その声に覚えがある。焦りと憤りの奥、涼やかで清廉な響きは、最近入寮したずいぶん年上のあの人の。
れっきとした成人男性だし、まぁ平均よりずいぶん細いけれど、タッパもそれなりにあって、か弱い印象はなかった。喧嘩は弱そうというよりも、殴り合いなんてしたことがなさそうではあるが。
まさかな。そう思った。けれど、もし予想が当たっていたら、非常に夢見が悪い。面倒ごとには関わりたくないが、同じ劇団の仲間を放っておけるほど薄情になれないくらいには、MANKAIカンパニーに思い入れがある。
ため息をひとつついて、覚悟を決めた。音がする方に目をやると、遊歩道から死角になった背の高い生垣の傍で、もみ合っている二人の人影を捉えた。30代半ばくらいのサラリーマンと、ああ、間違いない、あの人だ。
そう思うと同時に走り出していた。

「おーいオッサン、会社サボってなーにイカガワシイコトやってんの?」
「なんだ、お前? 邪魔すん……ぐゎっ」
シャツの襟を思いきり引っ張って、引き剥がす。不意を突かれた男がよろけたところに、顔面に一発、腹に一蹴りぶち込んだ。
蛙のようなうめき声をあげ、男が地面に転がる。ぴくりとも動かないので、足先で突いてみるも、反応がない。どうやら伸びてしまったようだ。
「ちっ、手応えねぇな。」
「ば……んりくん?」
はたして声の主は、やはり冬組リーダー、月岡紬その人だった。
地べたにしゃがみこんで見上げてくる瞳は、今日の澄んだ空の色とよく似ている。大きな瞳には涙の膜が張り、ゆらゆらと揺らめいていた。
はだけたシャツの間から、白い肌が覗く。上気した頬と、濡れた赤い唇。乱れた髪が額に貼り付いて、漂う色香は隠しようもない。
普段は清廉潔白、聖人君子、ザ・優等生といった雰囲気のこの人から、あまりにかけ離れたその姿に、ぐらりとめまいを覚える。薄い胸板は明らかに男のものであるのに。
君が誘った、か。確かにコレは。
はたと我に返る。
いやいや、襲われかけた人に対して抱く感想として、最低すぎる。仲間だし。そもそも、俺はソッチの人じゃないし。鼓動が速いのは、きっと、絶対、間違いなく、気のせいだ。
「紬さん、大丈夫っすか?」
シャツの前を右手で手繰り寄せ、左手の袖で唇をゴシゴシ擦っている紬に、手を差し出した。
一瞬ビクッと硬直した身体が、弛緩するのを待つ。一呼吸置いて、おずおずと重ねられた手を掴み、ぐいと引っ張り上げた。その身体は思いのほか軽い。そういえば、臣にもっと食えと言われていた気がするな、とぼんやり考えた。
「万里くん、学校は? まだ授業あるんじゃ……」
「おい、いまそこ重要じゃねーだろ。どっか怪我とかしてねぇ?」
「うん、大丈夫。あの……、ごめんね」
そこはごめんじゃなくてありがとうだろうと呆れると、素直にありがとうと返ってくる。
まだ手が震えていた。擦ったせいでさらに赤みを増した唇と、はだけた胸元に、なんだかいたたまれなくなって、ついと視線を外す。ブレザーと中に着込んでいたパーカーを脱ぎ、パーカーの方を乱暴に頭から被せた。意味を図りかねて小首をかしげて見上げてくる様も、なんというか、目の毒だ。
「それ、着ててください。そのカッコじゃ外歩けないっしょ」
「わっ、ごめ」
自身を省みて、状況を悟ったらしい。申し訳程度に口角を上げて、目を細めて、また謝ろうとする。
こんな時に、無理に笑わなくても良いのに、 なんでアンタは。その柔らかな頬を、両手でひっぱって黙らせた。
「謝るな」
「……? いひゃいよ、ばんいくん」
「謝るなよ、アンタはなんも悪くねぇだろうが」
見開かれた空色の瞳が、大きく揺らぐ。それから、はらりと透明な雫を零した。
ぎょっとして手を離しても、一粒頬を伝ってしまえば、あとは溢れて止まらなくなってしまった。いや、そんなに強く引っ張ったつもりなかったんすけど。しどろもどろの言い訳に、泣き出した当の本人は、頭を振った。
こわかった。か細く絞り出された声。
衝動に駆られて、艶のある濃紺の髪に指を絡め、引き寄せる。肩口にそのまま押し付けると、シャツ越しにじわりと湿った温かさが触れた。
もう大丈夫だ、そう伝われば良い。

触れあった先で、互いの温度がすっかり混ざる頃、頭を持たせ掛けたままの紬が、深呼吸を一つついた。それから、「よしっ」とくぐもった声を発し、万里の胸を押す。緩めた腕の中から、体温がしなやかにすり抜けて行く。少しの喪失感には、気付かないふりをした。
「落ち着いた。ありがとう、万里くん」
頭から被っていたパーカーに袖を通し、ジッパーを上げながら、ちょっと大きいねと少し照れ臭そうな柔らかな笑顔を向けられる。万里くんの匂いって、なんだか落ち着くなぁ。とかなんとか。萌え袖で言ってくるのは無意識なのか。だとしたら相当たちが悪い。
「あの人、全然起きないね」
「落書きでもしていきます?」
「あ、いいね。俺、油性ペン持ってるよ」
「ふはっ、マジかよ。しかも油性」
「まじだよ」
結論から言うと、マジでマジだった。
ギギッとキャップにペン先を納めると、満足そうに「しかえし」と笑った。相変わらず伸びているオッサンの顔面には、画伯によるなんだかわからない呑気な落書きが施された。万里も、面白がって二言三言追加した共犯者なのだが。
さっきまで震えてたくせに、意外と強かというか、爽やかな顔で結構エグいことするのな、この人。万里は、勝手に抱いていた冬組リーダー像を一から作り直さなければならなくなった。
俄然興味が湧いた、と言い換えても良い。
「なぁ紬さん、これから時間ある?」
「え? うん、もう寮に帰るだけだけど」
「おし。んじゃ、アンタにも共犯者になってもらうぜ」
「共犯?」
「サボってんのバレるとうるせぇヤクザがいるからな。あ、出席日数はちゃーんと計算してっから、心配無用っすよ」

「はぁ、痴漢に」
ズズッとアイスコーヒーを啜り、万里は脱力した。
お目当てのカフェは、平日ということもあり、待たされることなく窓際のソファ席へ通された。おすすめだというアイスコーヒーの味は、及第点。なかなか良いじゃないかと思ったが、同行人は、やれ緑が少ないだのテーブルの配置がどうのと、小姑のように文句を言い募り、でもコーヒーは美味しいねと屈託なく笑った。
やっぱり、良い性格している。
ほっと一息ついたところで、紬がつらつらと事の顛末を話し始めたのだ。
「そう。それで、電車を降りるときに、振り返って睨み付けてやったんだよね」
それは、逆効果なのでは。
この人に潤んだ目で見つめられたら、まぁ勘違いする気持ちも分からないではない。分かりたくなかったが、分かってしまったのだから仕方がない。
最早言い訳も面倒になってきた万里である。なんとか口を挟むのを堪えた。とりあえず最後まで聞こう。
「そうしたら、追いかけられてたみたいで。公園で声かけられて、抵抗したんだけど、あの人すごく力が強くて。人気の無い方に、引きずられて行っちゃったんだ。万里くんが来てくれなかったら、危なかったよ。本当にありがとう。助かりました」
ぺこりと垂れた頭から、一房飛び出した髪の毛が、ふよふよと暢気に揺れる。
危なっかしい。こんなに危なっかしい人間は、初めて見た。
まず、自分の事を全く分かっていない。冬組の歓迎会のときに、顔が地味だのモテたことないだのと宣っていたが、派手なタイプではないというだけで、整った顔立ちをしている。しかも、物腰が柔らかいから、好意を寄せられることは多いはずだ。
ただ他人からの好意に、恐ろしく鈍感なだけなのだろう。鈍感というよりも、そもそも自分のことに無頓着なのかもしれない。
とにかく、よく今まで無事でいたものだと心底呆れる。まぁ、さっきも無事とは言い難い有り様だったが。
「旗揚公演を控えてんだから、気ぃ付けてくださいよ。アンタ主演なんだし」
「うん、劇団に迷惑はかけられないしね。充分、気を付けるよ」
「人気がないところは通らないこと。知らない人に話しかけられても無視な。念のため防犯ブザーも持って。そんで、なんかあったらすぐ連絡して」
気を付けるという言葉がどうにも信用できず、さらに言いつのると、くつくつと笑いだす。なんもおかしなこと言ってねぇぞ。ムッとすると、万里くんが丞みたいなこと言うからおかしくなっちゃってと、さらに笑うのだ。丞の眉間のシワを増やしているのは、この幼なじみのせいではないのか。万里の予想は恐らく当たっている。
「うん、頼りにしてるよ。ありがとう」
ひとしきり笑ったあと、湖水の瞳は、まっすぐ万里を捉えた。もっと言いたいことがあったはずなのに、それを言葉にすることができなくなってしまった。
万里くんて、意外と優しいし面倒見が良いんだね、なんて、向かいの男はにこにこしているが、一番意外だと思っているのは、当の本人だった。
芝居に出会って、熱くなれる自分を知った時のような、新鮮な高揚感は悪くない。万里は、残りのアイスコーヒーを一気に飲み干し、次は緑の多い店を探してみようと決めた。